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田中角栄を歩く 山岡淳一郎
第5回 占領軍と官僚の狭間で……(前編)
暴走する「官」

 法律は、ときに巨大な壁として人々の前に立ちふさがる。ふだん気づかない法の網の目は、ふとした弾みで縮んだり、拡がったりする。法律は生活を左右する「生き物」なのだ。田中角栄ほど法律の本質を見抜いた政治家はいない。
 「法律というのは、これ、実に面白い生き物だよ。使いようによっては変幻自在に姿を変える。法律を知らん人にとっては面白くもない一行、一句、一語が実は大変な意味を持ち、すごい力を持っているんだ。壮大なドラマが法律の一行一句にこめられているといってもいい。(中略)法律学者的な逐条解釈に立った知識じゃダメだ。その一行、その一語が生まれた背景のドラマ、葛藤、熾烈な戦い、そういうものを知っていて、その一行や一語にこめられた意味がわかっていなければならない。そこが肝心なところだな。わたしは、そうした物差しで戦後から今日に至るまでのわが国の法律や制度をみているんだ」(『早坂茂三の「田中角栄」回想録』小学館)
 この「生き物」としての法律を使いこなすことに異常な執念を燃やす一団がいる。官僚、である。かれらのさじ加減ひとつで、法律は穏やかな家畜にもなれば猛獣にも変身する。たとえば耐震偽装事件の「それから」を眺めてみればいい。
 もうすぐ偽装事件の発覚から2年になる。風の強い日、わたしは藤沢駅北口の雑踏を抜け、狭い路地を入った。しばらく進むとビルの谷間に1、2階はグレー、3階がピンクのタイルで覆われた「廃墟」がうずくまっていた。
 100平米超の住戸面積を誇った人気マンションの面影は、もうない。警察の現場検証の痕跡か、外壁の一部が剥ぎ取られ、鉄筋が顔をのぞかせる。1階の開口部は板で封鎖されている。4階~10階の上層階は魔物にさらわれたかのように消えうせ、烈風が吹きすさぶ。偽装事件の「それから」を象徴するグランドステージ藤沢である。
 ヒューザーが建築主だった偽装物件11棟のうちGS藤沢の耐震強度(保有水平耐力)は「0.15」と最も低かった。藤沢市は、建築基準法に基づく「除去命令」を06年3月に発し、上層階が解体された。しかし、「震度5強の地震が起きたら命が危ない」「近隣にも多大な被害が及ぶ」と、自宅から追い立てられた住民たちは、建て替えもままならず、地獄の底まで追いかけてくるローン返済に苦しんでいる。自己破産が、頭をよぎる。
 一方で、国は構造偽装の再発防止を叫ぶ世論を利用し、瞬く間に建築基準法を改正。「建築確認」制度、チェックシステムの厳格化を打ち出した。ところが、その机上の論理が建設市場に大打撃を与えている。6月20日の新制度施行日になっても国交省建築指導課は具体的な対応を確定できず、自治体や民間確認検査機関の業務が3週間以上ストップした。挙句は構造計算とは無関係な資材や壁紙の種類まで克明に申請書類に記入させるなど常軌を逸した煩雑で大量の書類提出を義務づけ、建築確認業務が大停滞しているのだ。
 確認が下りなければ工事にとりかかれない。ついに8月の新設住宅着工数は前年同月比でマイナス43.3%。07年の住宅着工数は、石油ショック期と同程度、前年比3分の2に落ち込むと予想される。中小の建設会社、設計事務所は倒産の危機に瀕している。
 これで建物の安全性が確保されるのならまだしも、現場の構造設計士は設計実務とかけ離れた書類作成に忙殺され、本来の仕事に取り組めない。割の合わない激務に嫌気がさした構造設計士たちは、続々と設計現場から去っている。建物の総体的な安全性の低下が懸念される。建設業の市場規模は約55兆円。GDPと全就業者数、それぞれの1割を占める。この基幹産業の創造力のど真ん中にぽっかりと穴があこうとしている。官僚は法改正で制度を猛獣に変えた。
 田中角栄は、「住宅は職を生み、人を食わせる。家を作れ。政治は生活だ」と多くの建築関連法を議員立法し、政府提案にも深く係わった。こんな事態が生じようとは考えてもみなかっただろう。
 国交省の官僚は、法改正に基づく一片の通達で、膨大な人、モノ、金が行き交う建設市場というハイウエーのまんなかに突如「制度の関所」を築いた。担当官は「住宅の生産システムを変革する」と大言壮語したというが、本音はどうだろう……。
 今回の改正で高さ20メートル超のマンションや、木造の3階建て以上の住宅は構造計算の「適合性判定」を受けなければならなくなった。判定は、知事が指定する「構造計算適合性判定機関」で「専門家による審査(ピアチェック)」によって行われる。その手数料のうち数十億円が適合性判定の元締めである「(財)日本建築センター」に流れるといわれている。同センターの現役理事長以下、理事や評議員には国交省(旧建設省)OBがずらりと並ぶ。絵に描いたような天下り機関である。
 「官の暴走」が止まらない。
 かつて建築関連諸法が誕生した頃、人々はトタンと木っ端を組み合わせたバラックや、戦時中に道端に掘った広さ一、二畳の防空壕を転用した壕舎で暮らしていた。300万戸以上の住宅が足りなかった。仮に一戸4人とすれば1200万人を超える国民がホームレスにちかい状態だった。闇市が広がる「アメ横」や「秋葉原電気街」はバラックの群れであった。
 そんな時代に、田中は、国土の復興、開発と住宅建設の間に法律という「橋」を架けた。大量の人や物資、資金、情報が、田中のこしらえた橋を行き交った。が、やがて橋げたは経済の膨張と技術の複雑化という水流の増加に耐えかね、ギシギシと軋む。官は、その制度疲労と混乱に乗じて、天下り先をどんどん増やしていく……。
 「官の暴走」の本質を見極めるには、あの占領期の立法過程にまで遡らねばなるまい。田中が法案を国会で通すプロセスに、占領軍や官僚たちがどう係わったのか。たかだか五十数年前の話である。官僚の習性は、変化したのか、それとも変わらないものなのか……。

内務省解体

 建築確認は、1950年、建築基準法の制定に伴い、建築主の申請する「建築計画」が法令に適合するかどうかを行政が着工前に確かめる制度として定められた。実務は自治体に配属される公務員「建築主事」が行う。建築主事試験の受験要件は「一級建築士試験に合格し、建築行政実務に2年以上携わった経験を有する」等。一級建築士の資格は「建築士法」が規定する。ここに建築基準法と田中の議員立法による「建築士法」の強い連関性がある。
 建築確認もアメリカの占領方針が日本の「民主化・非軍事化」から、「反共の砦化・アジアの工場化」へ転換するなかで叢生した制度のひとつ、といえよう。
 だが、その根を丹念に洗っていくと、GHQが公職追放、財閥解体、地方自治と警察制度の改正を経て断行した「内務省解体」と微妙に響きあっていることに気づく。母体を失った建設官僚たちが、生き残りをかけて編み出した苦肉の策でもあった。
 内務省が四分五裂して生まれた建設省は、いまからは想像もできないほど弱々しかった。わけても住宅局は河川局や道路局に比べればはるかに予算規模が小さく、存在感が薄かった。他の省庁は、旧内務省の権限をかすめとろうと鵜の目鷹の目で狙っていた。
 内務省の元地方局長、林敬三は、その解体前後をこう振りかえっている。
 「内務省解体の頃になって来ますと、内務省の権限をよその省にゆずるわけですよ。これをまあ、猛烈にとりにくる。ぼくはそういう点、本当にまた東大出の法学士で高文合格者というのはいけないとそのとき思ったんですね(笑)。(中略)こちらはいよいよ窓を閉めるのですから、気前よく渡すものは渡すほかないという気でいるのです。それなのに、何回となくGHQの自省担当の将校を連れて来て、それに言わせたり、あるいはGHQの名で米軍の方へ呼びつけるんです。そして、この権限についてはこうやったらどうだという提案をしてくるのです。ぼくのほうは、内部で相談の上返事をするということで別れるんですが、すぐに二日、三日たって、また会いたいというので行くと前とは違った、もっとひどい提案をするのです。そこで前回あなたが言ったことと違うといったところ、米軍将校はアイ・チェインジド・マイ・マインド(私は気が変わった)というんです。そして日本の省の人(官僚)は横でだまってついている」(草柳大蔵『内務省対占領軍』朝日文庫、カッコ内は筆者注)
 軍部が消え、GHQという新たな「絶対者」にすがりついて省益の拡大を狙う官僚たちの狡猾な顔が眼に浮かぶようだ。それにしてもGHQの担当将校が重要な権限の移譲を「アイ・チェインジド・マイ・マインド」のひと言で片づけたとは……。
 誕生したばかりの建設省は、GHQの「虎の威」を借りる術もなく、孤立気味だった。権限を培うには地道に法を定め、制度を立ち上げなければならない。民主化によって、曲がりなりにも国会は国権の最高機関となった。代議士との関係が立法の鍵を握る。
 建設省は、塀の向こう側から帰ってきた土建屋議員、田中角栄に白羽の矢を立てた。

抹消された議事録

 1949年9月、神奈川県茅ヶ崎に上陸した「キティ台風」は風速31メートルで荒れ狂い、日本海へ抜けた。東京の下町一帯は2メートルの高潮に見舞われ、取り残された人は電柱にしがみついて救助を待った。バラックはなぎ倒され、石やガレキを載せただけの壕舎の天井からは雨が滝のように降り注ぐ。家具はおろか、畳やゴザすらない穴蔵に泥水が押し寄せた。死者135人、都内の浸水家屋は10万戸。キティ台風の爪あとも痛々しいなか、衆議院建設委員会に「地方総合開発小委員会」が設置された。
 名前は小委員会だが、建設省は、将来の日本全土を対象にした国土計画、総合開発を進める法案の骨格づくりをこの委員会に託していた。建築基準法や建築士法など現業を細かく規定する法案整備を進める一方で、国土計画という広大な権限を掌中に収める突破口を開こうとしていたのである。委員長の椅子に座ったのは、31歳の田中角栄だった。田中委員長は、2週間足らずの間に4回、小委員会を招集している。
 議論は、焼け跡の再建にとどまらず、全国的な産業復興の要である電源ダム開発、農村の工業化、行政区域の変更にまで及んだ。田中は土木開発、資源エネルギーのエキスパートを集め、活発な討論を導いた。田中の意識は「復旧」ではなく「復興」、国力の増進、発展に集中している。
 その復興へ一直線に突き進もうとする姿が、GHQの逆鱗に触れた。
 「敗戦国の分際で、10年早い。大きなことを言うのは、独立してからにしろ!」
 ワシントン政府の占領方針が「アジアの工場化」に振れたとはいえ、無条件にその援助が行われるわけではない。アメリカは、お人よしではない。現地のGHQは、日本が国力をつけることを軍事国家の再現と嫌った。まして経済顧問のデトロイト銀行頭取、ジョセフ・ドッジの勧告で財政金融引き締め策「経済安定9原則(ドッジ・ライン)」を示したばかりである。ドッジ・ラインの趣旨は、インフレと国内消費の抑制だ。日本人は耐乏生活を送りながら、輸出に励め、食べ物はなくても工場で糸を紡げ、というものだ。GHQは、昭電疑獄の舞台となった復興金融公庫の融資を廃止し、緊縮財政を組むよう政府に命じた。そんな時期に莫大な資金が必要な国土開発論議に熱中するとは反逆にも等しい、と怒った。田中は「絶対者」とぶつかった
 GHQは、地方開発小委員会の議事録をすべて抹消してしまう。
 「なかったこと」にしたのである。
 10月24日の衆議院建設委員会で小委員会の報告を求められた田中は、淡々と経過報告するなかで、技師の見解に託して、次のように語った。
 「アメリカでは最近テネシー、ミズーリ、インペリアル河のごとく、河川総合開発には、洪水防御、灌漑、水力発電、工業用水、航運等、総合的に企画されている。ソビエトにおいても、ドニエルブル河には航運と水力とを考慮している。現在自分(技師)の研究している熊野川は、大阪に近く、総合的に開発してしかるべき地点である。この小鹿のダム地点は砂利層が百二十尺もあり、深過ぎるとの反対があるが、フーバー・ダムのごときは百三十尺も堀鑿しており、日本の従来の考え方が小さ過ぎるのである。また水元へ落す流域変更等は、河口の状況をよほど考えない限り疑問である。またダム築造に当たっては、同時に砂防工事を行わねば、土砂の堆積により、その機能を失い、さらに上流に被害を及ぼすものである。かかる観点よりして、河川の開発はこれを一会社で行うと、発生電力の損得のみを考え、総合的に実施しないので、熊野川とか只見川とかの高度の開発は、TVA(テネシー河流域開発公社)式に特定の官庁で、国家の力でこれを行うことが絶対に必要である、との意見でありました」(国会議事録より)
 よほど悔しかったのだろう。GHQへの皮肉も込めて、国土開発は地方ごとバラバラに行うのではなく、国家的見地から総合的に進めるべきだとの持論を口にしている。

「TVA式」の難路

 GHQと田中の対立は、大げさに言えば、国土計画を巡る「文明の衝突」でもあった。
 戦前から戦中にかけて国土計画を統括した内務省は、ドイツの自給自足経済(アウタルキー)型計画を志向した。ドイツは、中央政府の調査による国土計画から地方計画、地域計画、定住計画、事業計画、住宅、土地調達の規則にいたるまで恐るべき緻密さでシステムを構築。第一次大戦の敗北で過酷な賠償を課せられたドイツは、自給自足で独り立ちするために中央集権的体系化を押し進めた。
 日本は、三国同盟の締結を機に、ドイツ流の国土計画を満州国に移入し、それを本国に還流させ、さらには「大東亜共栄圏国土計画大綱素案」へと膨らませる。しかし陸軍が牛耳るプランニングは国土計画とは名ばかりで軍需資源の流通計画が主眼。軍都の建設を除けば、土地の利用計画も無に等しかった。
 戦時国土計画の策定機関、企画院の調査官だった酉水孜郎すがいしろうは、真珠湾攻撃直前の状況を絶望的な口調で述懐している。
 「私は(企画院の)廊下を歩いていてびっくりしたのは、これで戦争は大丈夫だというのを耳にしたのです。目標の計画を立てただけで安心感があったんですね。そういうことを田辺先生(田辺忠男東大経済学部教授―戦時国土計画の指導者)が耳にして、バカヤロー、というわけです。そんなことができるか。日米戦争を目前にしていまから石炭を集め、鉄鉱石を集めてそれを精錬して、粗鋼をつくって、それで鉄砲とか大砲をつくろうというわけですから少々泥縄的ですね。アルミについても、商船隊をつくって南方から輸入するというのですが、そんなことができるかというわけです。資料が不足しているから、(計画も)ただたんなる予測ということになります」(大本圭野『証言 日本の住宅政策』日本評論社)
 理論的支柱だった人物が「バカヤロー」と怒鳴った戦時国土計画は破綻した。
 そして、敗戦とともに流入したのがアメリカの計画システムである。中央集権型のドイツ方式に比べれば、アメリカの計画は「分権型」だった。田中も言及したTVAは、アメリカ方式の典型。世界恐慌後にフランクリン・ルーズベルト大統領がニューディール政策の一環として創設したTVAによる総合開発は、テネシー河の流域に32もの多目的ダムを建設するものだった。TVAの開発は、大量の失業者を吸収した。規模の大きさでは日本の国土計画をはるかに凌ぐ。が、しかし手法的にはあくまでも「リージョナル・プランニング(地域計画)」。国土の部分的な開発であった。
 このアメリカ方式に、国土計画の立案を内務省から移された経済安定本部(のちの経済企画庁。内閣府に統合)の官僚たちが飛びついた。なかでも東大電気工学科出の新進官僚、大来佐武郎は「TVA協会」なる組織を立ち上げ、アメリカ式の開発を看板に打って出た。だが、民主化で統治の中枢は変わっても、行政の末端、手足はすぐには動けない。頭にからだがついていけない。そもそも連邦制国家で各州が自立的権限を持つアメリカの方法を、領土が狭く中央と地方の関係が垂直的な日本に移植するのは容易ではない。
 自給自足のドイツ学説で育った国土計画家たちにはアメリカの流儀を取り入れるのは、木に竹を接ぐ行為と映った。
 「TVAだとか、あるいはカナダの国境のセントローレンス・シーウェイとかコロラドの水資源をカリフォルニアにもっていくというようなことと、日本の(国土計画)とは違うんです。日本は国全体でバランスをとろうというわけですけれど、アメリカは大きい国だから、地方、地方で一応バランスをとっていけばいい。(中略、大来たちは)行政のやり方もアドバイザリー・コミッティのような形、外に本拠を置く、いわゆる勧告機関のようなものをつくってやろうとしたわけですが、日本ではそういう前例がなくて、日本の風土に合わなくてできなかった」と酉水は語っている(前掲『証言 日本の住宅政策』)
 GHQの将校たちの日本の行政知識の乏しさも、木に竹を接ぐ行為を招いた。かれらは自国の理想は語れるが、日本の実情には疎かった。たとえば、内務省の文書課長がGHQに呼ばれて日本の地方制度の説明を求められ、府県の下に市町村がある、と言うと「市町村のないところではどうなっているのか」と質問が返ってきたという。
 「当時のアメリカでは市町村のある区域が全国土の2%で、ほとんどが住民の自治組織になっていたためである。日本人はそんなことは知らないから、アメリカ人がどうしてそんな質問をするのかわからない。一方、アメリカ人の方は、日本全国が国・都道府県・市町村で組織化されていることなど、ほとんど信じられない」(前掲『内務省対占領軍』)
 認識のギャップは埋めがたい。中央集権と地方分権という「文明の衝突」が、ちぐはぐな形式論に矮小化される。民主化を仕切るGHQ民政局(GS)は、地方分権を改革の旗印に掲げた。すると日本の官僚たちは、日米の根本的な違いを突き、すさまじい粘着力を発揮して権限の拡張を図った。一例を挙げれば、GSの指導のもと「地方自治法」が成立すると、各省は地方事務所を増やし、より一層地方支配を強めた。元内務省文書課長は、各省がそのような行動をとるとはGSも予想していなかっただろうと述べている。
 「(GSは)予測できなかったでしょうね。地方自治さえ整備すればよいということでしょう。これは向こうの役所セクショナリズムというのは日本に較べて輪をかけて強いですからね。おそらくGSはこの地方制度をやったやつは地方制度さえ立派に出来ていればいいということですね。(中略)それで地方制度が改革になった。ところが完全自治体になったんなら国家的な事務は任すことはできないというので、各省が皆大がかりな事務所を作ってしまったんですね。商工省、農林省、運輸省、みんなですよ」(前掲『内務省対占領軍』)

「仏つくって魂を入れろ」

 地方自治改革を逆手にとった官僚が権限を漁り合う渦中で、田中角栄は国土計画法案の旗振り役になったのである。田中は官僚の掌の上で踊らされていた、ともいえよう。ただ、踊りながらも田中の視線は焼け跡に響く槌音、建設現場に向けられていた。
 小委員会の報告を行った建設委員会で、田中は、「建設業法」で定めた土建業者の書類届出期間を官僚が無期延期したことに批判を浴びせた。建設業法は、野放し状態だった土建業者の資質を高め、工事契約の適正化を目的に定められた法律だ。田中は演説する。
 「御承知の通り、建設業法が建設当局より本委員会に提出されたときに、与党である民自党の中にも相当の反対があったのであります。しかし現在の日本の状態において、終戦後の国土の効率的利用という面から、土建業者の育成強化という問題も、当然論議の焦点にならなければならぬ。しかも現在まで土建業者というものが、屑物統制規則の中の一つのものであって、くず屋と一緒であった。こういうようなことでは、大きな建設工事は行われるものではない。敗戦の原因の一つは、建設業というものを軽視した、建設業というものが法律的な裏づけがなかったというところにもある。
 だから多少建設業法に対して異論があっても、戦時中の統制をやるのではなく、建設業者の育成、国土計画の大きな一環としての建設業法の設置ということで、相当の反対をまとめて、建設業法が上程可決されたような次第であります。(中略)率直に私の考えを申し上げると、法律はよろしいが、法は常に運用する者によってその価値が決定されております。現在建設業法を運用しておる担当官の運用は、よろしきを得ておりません」(下線筆者)
 31歳の田中がタイムスリップしていまに現れたら、冒頭で紹介した耐震偽装事件後の「官の暴走」にどう対抗しただろう。ふとそんな想いに駆られる。
 GHQから「なかったこと」にされた小委員会は、しかし国土開発政策を進める起点となった。49年11月24日、国土開発を実行する「国土総合開発法案」が建設委員会で審議された。田中は法案の弱点を突く質問を官僚に投げかけている。
 まずこの法案に盛られた国土開発審議会の「勧告」に基づいて政府や地方公共団体は開発事業を行うとされているが、勧告は行政権を拘束するのか、と問う。これに対して建設官僚は、勧告が行政権を拘束するわけではないが、まったく効力がないわけでもない、と白とも黒ともつかない返答。田中は、開発事業が建設、農林、運輸など各省のセクショナリズムで分断され、おまけに各都道府県が独断で予算をつけて行っているために非効率的だと糾弾し、得意の建設行政一元化論を説く。抽象的な議論ではなく、省庁のどことどこを統合せよ、と具体的に語っている。
 「経済安定本部というものを、完全なる実施のデーターをつくるところの、こまかい技術的な、科学的な総合的なものをつくって、各省間のセクショナリズムに災いされないで、日本のあらゆる面の総合調整を行える機関に改編をしまして、その一部門として本法案が適用されるような行政機構に持って行ったらどうか、こう考えておるのです。(中略)仏つくって魂を入れろということです。(中略)端的に申し上げれば現在の建設省管理局企画課、それから経済安定本部の建設交通局、なかんずく開発課、もう一つ経済安定本部の資源委員会事務局、これに、この法律を審議された総合国土開発審議会のごときものが、全部一つになってこの法律の裏づけをした場合、初めて魂が入る、こういうふうに私は考えております」
 この日の田中の発言は、日本の開発行政の筋道をほぼ決定づけるものとなった。その後、経済安定本部は経済企画庁に格上げされ、高度成長期の開発事業を牽引する「全国総合開発計画(全総)」の立案を受け持つ。田中は自ら政権をとると、建設行政の一元化を実行すべく内閣に国土総合開発本部を設ける。これが「国土庁」に変わる。田中が「仏つくって魂をいれろ」と言った方向で組織面は統合されていった。
 ただし、アメリカ式の地域開発手法を採り入れながらも、分権化は実現せず、官僚の中央統制が強化される現実は一向に変わらなかった。国土開発は、北海道が開発庁のテリトリーに入れられ、「十和田岩木川」「只見」「天竜奥三河」「吉野熊野」「四国西南」「南九州」など22の特定地域のダム建設を中心に押し進められる。国土の体系的な開発は見向きもされず、単一の地域開発パターンが各地にはめ込まれていく。その一気呵成にワンパターンで攻めるやり方は、経済成長を早めた。しかし、大都市圏への集中を加速させ、さまざまな矛盾を生み続けているのも事実だ。
 全国総合開発計画といい、地域総合開発計画といおうが、中央政府のプラン、地方の計画、いずれにも重要なもうひとつの柱が欠けていた。それはドイツを含むヨーロッパの「自給自足」「定住圏」に軸足を置く開発思想である。敗戦によって、価値観がアメリカ一辺倒へ傾くなかで、官も民も地域の共同体に安定と幸いをもたらす「青い鳥」を殺してしまったのかもしれない。
 酉水は、戦後の国土計画が失ったものは「農業」と断言している。
 「国際関係のなかで日本人がどんな場合にも対応できるのはなんだと思いますか。やっぱり、食糧において国民生活が安定していることです。(中略)鉄をつくって自動車をつくるとか、そういうことが戦後の大きな課題だったわけですから、それは成功しました。そから、先端産業も成功しました。だけど、いちばん成功しなかったのは農業政策です。
 (中略、東北の総合開発計画で)私が引っかかるのは、たとえば東北地方でも西側と東側とぜんぜん違うんです。岩手、青森の東部と西部ではぜんぜん違う。西側は相当な冷害のときでも安定しています。東側はしょっちゅうやられます。それでも減反政策をとるときは、全国一律ですね。その意味では、農業の国土計画はないと思うんです。(中略)つまり東北の西側の八郎潟干拓みたいなところは、専業の米作一本でやっていく。減反はしない。その代わり、東側のほうではできるだけ畜産に転換する。そうすれば、お互いに安定していくんじゃないかという考え方があるんです」(前掲『証言 日本の住宅政策』)
 豪雪地帯の怨念を背負って政界に飛び込んだ田中に農業を相対化し、国土計画の根幹にすえよ、と注文するのはないものねだりだったのか……。
 田中はGHQと官僚に挟まれて悪戦苦闘した。占領期の法案作りをこう総括している。
 「今の法律や制度、仕組みというのはね、戦後これだけ長く経った今なお、占領軍時代につくられたままのものが多いんだ。だから、そうした法律が制定された当時の背景や目的がわかっていないと、法律の運用を間違う。
 一つ一つの法律を、文面だけからの解釈で改正しようといってみても、議論が百出してまとまるもんじゃない。この法律は日本政府の原案ではこういうものであった、それが占領軍メモが届いてこう変わった。その間にこういう事態が起きたので現行法に修正されたと。もって如何となす、となれば議論の土台がきっちりして、コンセンサスを得られる(中略)。ともかく占領軍は、わが国を弱体化し細分化し、非戦力化するために現行憲法や多くの法律をつくって、日本政府に呑ませたんだ。にもかかわらず、戦後、幾星霜を経て、わが国は世界でも指折りの経済大国に発展した。これはね、日本人が強い同属意識をもち、英知と努力によって現行憲法や占領時代につくられた諸制度・諸法規を消化して、わが国の風土に定着させたからなんだ」(前掲『早坂茂三の「田中角栄」回想録』)
 「国土総合開発法」制定の目処が立つと、田中は、より具体的な建築関連法案の成立に向けて縦横無尽に駆け巡る。自ら法案の提出者となる「議員立法」は、田中の武器になった。その陰には田中に法案を預ける官僚たちの権謀術数もまた隠されていた。

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