Web草思
田中角栄を歩く 山岡淳一郎
第4回 反共の砦
小菅東京拘置所

 北千住駅を出た鈍行列車が荒川の鉄橋を渡り始めると、車窓に要塞じみた建物が迫ってくる。東京拘置所だ。近年、未決囚への人権的配慮が足りない、と高層ビルに改築された。窓らしきものはあるが鼠色の遮光壁で覆われている。
 週末の昼下がり、小菅駅で降り、平和橋通りを南へ、拘置所に向かって歩いた。
 「保釈保証金 お立替をいたします。保釈に関することならお気軽にお問合せください。(財)日本保釈支援協会……」
 そんな看板が目に飛び込んできた。なるほど確実にニーズをつかんでいる。レンガ塀に沿って、歩を進めた。地上12階、高さ50メートルの新舎房は、頭頂部をぬっと突き出し、あたりを睥睨するように建っている。だが、近づけば近づくほど、その存在を覆う権力のヒダが次々と姿を現し、頭がクラクラする。
 内部と世間を隔てているのは高い塀ばかりではない。職員の官舎が、舎房を二重、三重にとり囲み、不思議な障壁を築いているのだ。官舎の鉄製ゲートが開閉するたびにスーパーの買い物袋をぶら提げた自転車が出たり入ったりする。白いTシャツを着た少年たちが、連れだってゲートをくぐる。どこにでもある安穏な日常の風景が、未決囚だけでなく、死刑囚や懲役受刑者もいる灰色の塔と重なり、こころの遠近感覚が狂うのだ。日常と非日常、善と悪、罪と罰を決める権力機構の途方もない周到さに、わたしはめまいを覚え、風景から「音」が消える。収容者との面会が許されない土曜とはいえ、あまりに静かだ。
 フランスの哲学者、ミシェル・フーコーは「監獄」についてこう述べている。
 「その(監獄の)静寂は、中世の土牢の古い名残りなのだろうか? むしろ新しいテクノロジーなのだ。つまり、個々人を碁盤目状に包囲し、規制し、測定し、調教し、“御しやすく有益な”ものにするための、数々の手順全体が十六世紀から十九世紀に開発されたのである」(D.エリボン『ミシェル・フーコー伝』田村俶訳、新潮社、カッコ内は筆者註)
 田中角栄は、1948年12月と76年7月の二度、この拘置所に刑事被告人として収容されている。最初は、片山内閣が提出した炭鉱国管法への反対運動を行った際に九州の石炭業者から100万円(現在の500万円程度)をもらったとする収賄容疑で逮捕、起訴された(控訴審で無罪)。二度目は「ロッキード事件」である。5億円の受託収賄、外国為替・外国貿易管理法違反による逮捕だった。起訴されて一審は懲役四年の有罪判決が下る。控訴するも棄却。田中は、最高裁に上告し、徹底抗戦を貫いた。その上告審のさなか、甲状腺機能障害による肺炎併発で逝去。控訴棄却となった。
 田中の政治家人生の「はじまり」と「終わり」には、本棚のブックエンドのように小菅での収容体験が挟まっている。角栄は、拘置所のなかで、いったい何を考えたのだろう。
 高いコンクリート塀の下を歩きながら、何度も監視塔を見上げた。ふと塀の内側にいるような錯覚にとらわれる。濠の青黒い水面に亀が浮び、また沈む。芭蕉の葉陰から垣間見える高塔は、シュールな輝きを放っている。拘置所で角栄は何を思ったのか……。
 フーコーが指摘した新しいテクノロジー、人間を御しやすくする装置も、田中には逆効果だった。かれは炭鉱国管疑惑の獄中で総選挙への立候補を宣言し、ロッキード事件では2億円を積んで保釈されたのち金権・闇支配に一層の執念を燃やした。拘置所という権力機構の「城」のなかで、田中は、さらに権力の奥へ、奥へと自らを駆り立てている。怪物ならではの神経といえようが、現実に田中がイカロスのように太陽(権力)に向かって飛び続けながら、燃え尽きはしなかった。
 政治の力学を「点」ではなく「線」でとらえながら、田中を支えたエネルギーの源に向き合ってみよう。

「アジアの工場」の再建

 話は、1948年の初頭、田中逮捕前に遡る。この年、アメリカは「冷戦」の敵、ソビエト連邦に対抗するために日本の占領政策を大きく転換させた。トルーマン大統領率いるワシントン政府は、従来の日本を「民主化・非軍事化」させて国力を低水準に抑え込む路線から「反共の砦」として利用する逆コースへと舵を切ったのである。
 鍵は「経済」が握っていた。終戦直後にGHQがまとめた賠償政策は、日本の生活水準を戦場となったアジア諸国を上回らない程度に抑え、重化学工業設備や在外資産を賠償に振り向け、賠償指定は財閥系企業から優先的に行う、との厳しい内容だった。
 事実、GHQは、陸海軍工廠、航空機、軽金属、工作機械、硫酸、造船、火力発電所など1002工場を賠償指定して管理下に置き、47年3月にはこれら指定工場の生産能力の30%を賠償支払いの前渡しとして中国、フィリピン、オランダ(東インド)、イギリス(ビルマ、マラヤ)向けに取り立てる中間指令を発した。そこに財閥解体、経済力の集中排除の重圧が加わって日本経済は悪性インフレと過少生産の悪循環に陥った。
 政府は、重油のすべて、石炭の大部分を鉄鋼生産に投入し、その鋼材で出炭施設を作るという石炭と鉄への「傾斜生産」で乗り切ろうとしたが、原材料、エネルギー資源の不足はいかんともし難く、傾斜生産を縮小する矛盾が生じた。食料や物資を「闇」で取引する自由主義経済の本音が、計画経済的なタテマエを飲み込んだのである。
 そのような状況で、米国は「反共」の一点から日本を「アジアの工場」と位置づけて経済的な防波堤とし、インドや東南アジアの原料を使って製品を作らせ、ドル不足にあえぐ英国、欧州諸国に輸出をさせる経済機構の創出に踏み切ったのだった。
 すでに国務次官のディーン・アチソン(のちに国務長官)は、世界経済の不安定化は「ヨーロッパとアジアの最大の工場、ドイツと日本」が停止しているからだと断言。安定させるには「二つの工場」の再建が必要だと演説していた。
 本土が戦火に見舞われなかった米国は、第二次大戦中に経済を大膨張させている。46年段階で、資本主義世界の鉱工業生産に占める米国の割合は62%、輸出は全世界の3分の1(総額)、世界中の金の4分の3を保有。超大国となったアメリカは、孤立主義を捨て、積極的に資本主義世界のパトロン役を担い、様々な問題に介入し始めていた。
 一方、ソ連は、戦争で2000万人を超える人命を失い、国民生活は疲弊していたが、戦勝で愛国心が高揚。国民から支持された独裁者スターリンは、自国の安全保障のため、周辺諸国を友好国へ変えるのに懸命だった。ソ連軍によってファシズムの重石から解き放たれた東欧、バルカンには共産党中心の「人民政府」が誕生する。
 米国は、勢力を拡大するソ連を敵視した。
 米ソ対立の核心は、やや強引に説くなら「民主主義観」の違いであろう。ともに戦中はファシズムを打ち倒す錦の御旗に「民主主義」を掲げたが、戦後世界の再構築に当たってその解釈は正反対となった。アメリカは民主主義を反共、反ソの資本主義擁護のイデオロギーとし、ソ連はファシズム再興を防ぐ大資本解体、社会主義への諸改革を民主主義の実践ととらえた。民主主義がイデオロギーという「大いなる幻想」の対立軸となり、米ソ超大国が敵対する冷戦構造が生まれたのである。この世界史的な地殻変動が、極東の敗戦国の占領方針を転換させたのだった。

「辻嘉六事件」と児玉機関

 1948年3月、来日した米陸軍次官ウィリアム・ドレイパーは、GHQの急進的な経済政策を非難し、賠償と財閥攻撃を縮小すると語った。そして財閥の代表者たちに「拘禁期間は終わった」と告げる。経済集中排除は骨抜きにされ、綿糸紡績と綿織物に原料供給と貿易金融を保証し、輸出産業の柱とする案が示された。独占企業は生き残った。
 ただし、ドレイパーの託宣を、日本を豊かにする号令と解釈するのは早計だ。ドレイパーは「たとえ生活水準を落としてでも生産促進、輸出を増やせ」と要求するのを忘れていない。方針の転換は、あくまでも米国の世界戦略の一部分である。米国の関心は、第一にベルリン封鎖に象徴される欧州の危機に向けられていた。飛び地となった西ベルリンにいつまでも物資を「空輸」し続けるわけにもいかない。ドル不足に悩む英国や欧州諸国が米国から原料や製品を調達すれば、ますますドル赤字は増える。ドル貨を必要としない貿易体制づくりが急務だった。日本の綿業はそこにタイルのようにはめ込まれたのであった。
 GHQ総司令官マッカーサーは、君主然と振る舞うのを好んだ。
 かれはワシントン政府の占領方針の転換を、なかなか受け入れようとしなかった。マッカーサーは財閥解体を自画自賛し、じぶんは「国際的な役人」だからワシントン政府に反抗してもいいのだ、と吼えた。トルーマンに対する強烈なライバル心と大統領選への意欲が、マッカーサーを舞い上がらせた。しかし大統領選への出馬は適わず、マッカーサーは徐々に退路を絶たれる。
 そして「民主化」から「反共の砦」への大転換は、GHQ内で実質的に占領政策を取り仕切ってきた民政局(GS)と、対敵諜報や民間諜報を手がける参謀第二部(G2)の抗争を激化させた。日本政界を巻き込み、熾烈な権力の奪いあいがくり広げられた。民政局の実力者ケーディスは社会党系の片山内閣、三党連立の芦田内閣を全面的に支持し、参謀第二部のウィロビー部長は民主自由党を率いる吉田茂の一派と手を結んだ。
 いつの時代も政敵を追い落とすには「政治と金」のスキャンダルが手っ取り早い。
 吉田の翼下で地歩を固め始めた田中角栄は、片山-芦田政権を撃つ「鉄砲玉」を買って出た。国会の赤絨毯を踏んで以来、土木・建築政策を練る国土計画委員会で現場感覚を生かした論陣を張ってきた田中は、48年に入ると主戦場を「不当財産取引調査特別委員会」に移した。
 不当財産取引調査特別委員会は、終戦のドサクサで横流しされた軍需物資や臨時軍需費の支払、官有財産の払い下げ、政府補助事業などの調査を通して、政官界の粛正を図るべく組織されている。きな臭い噂が立ち込める政界のど真ん中に角栄は踊りこんだのだった。
 片山内閣が倒れる寸前、2月4日の同委員会で質問に立った田中は、総理大臣の秘書と称する人物が官邸や私邸で起こした詐欺事件に着目し、片山総理本人の委員会出席を要請。瀕死の片山内閣に引導を渡した。
 民政局の後押しで芦田内閣が成立すると、田中は戦後の疑獄事件の走りとされる「辻嘉六事件」に斬り込む。辻嘉六は、明治期に台湾総督に就任した児玉源太郎の私設秘書になったのを振り出しに原敬、床次竹二郎、久原房之助、鳩山一郎ら政友会系の政治家と親密な関係を保ってきた政界のフィクサーだ。旧日本軍が国内各所に貯蔵した隠退蔵物資が闇取引され、その莫大な資金が辻を介して鳩山一郎に渡り、自由党が結成されたといわれた。
 実業家の顔を持つ辻は、政界の古老。隠然たる影響力を保持した。戦中、海軍航空本部の嘱託となった児玉誉士夫が上海に設けた「児玉機関」とのつながりも噂された。海軍向けに銅や潤滑油、雲母、プラチナなどを現地調達した児玉機関は大量のダイヤモンドを蓄えていたともいわれる。児玉は、5万2000カラット、時価200億円(現在の7兆円)相当のダイヤをこっそり持ち帰ったと語られていた。
 鳩山は公職追放中の身だった。A級戦犯の児玉は巣鴨プリズンに収監されている。
 4月13日、不当財産取引委員会に実業家の杉本嘉市が証人として出席した。杉本は辻嘉六に100万円の献金を渡していた。田中は、杉本に舌鋒鋭く、質問を浴びせた。(以下「国会議事録」より)
 「ちょっとお尋ねします。辻嘉六さんの支配人の笹本さんがあなたの事業を援助しておられたということをご証言になりましたが、その笹本さんは児玉機関とのご関係があることは御存じでございますか」
 「全然知りません。児玉さんのお話は聞いておりますが、関係があるかどうか、それはお話を聞いただけで、私児玉さんに会ったこともございませんし、笹本さんとどういう関係にありましたか、それは知りません」と証人は答える。
 「あなたの会社が戰時中と戰後において、笹本氏の援助を得て事業をやってきたということであれば、あなたが戰前から戰後を通じてずっと現在まで継続されておるのでありますから、どういう方面にご援助をしていただいたということは、ご明言できるはずだと思いますが、できないのは、いわゆる児玉機関の資産処理という問題に関連をもっているから、ではありませんか」
 「児玉さんのことについてはお話は承っておりますけれども、一度もお会いしたことはございませんし、その関係は、私は全然存じません」
 杉本証人は、タブーに触れるのを拒むように、必死で児玉との関係を否定した。田中は児玉機関との関連をしつこく訊いた。ロッキード事件での田中と児玉の位相のズレを考えれば、若き代議士・田中が執拗に児玉機関に言及した点は興味深い。
 田中は、児玉機関の裏側をかなり知っていたのではないか。戦時中、田中は朝鮮で理研の軍需工場の建設に邁進している。中国で暗躍する児玉機関の活動が満州経由で伝わっていたとしても不思議ではない。後年、児玉自身、自伝に鳩山との関係を写真つきであっけらかんと記している。終戦間もなく、児玉は辻に誘われて鳩山を訪ねた。鳩山は、心情をこうぶつけてきたという。(以下「  」は児玉誉士夫『悪政・銃声・乱世』廣済堂出版より)
 「児玉くん、きみの好意は、ほんとうに有難い。しかしきみが、これだけのことをしてくれるについては、なにか特別の条件があるとおもう。……だが、その条件によっては、ぼくとしてもきみの折角の好意を受けられぬかもしれん。その点をひとつ、率直に言ってもらいたい」
 児玉は、即座に答える。
 「個人としての条件は、なにひとつありません。ただひとつ、如何なる圧迫があろうと、ぜったい天皇制を護持して下さい。それだけです」
 鳩山は涙を流しながら、同調した。さらに児玉は記す。
 「そして欣然と児玉機関にかんする全部の資産を、仲介者の辻老人を信じて提供したのだった。それから間もなく、じぶんはA級戦犯容疑者として指名を受け、巣鴨拘置所に収容の身となった。――じぶんは鉄格子のなかで毎日のように、鳩山さんが天下を取ったばあい、どんな政治をされるかをおおいに期待し、その日が来るを祈っていた」
 児玉は巣鴨プリズンでGHQと何らかの取引をしたとみられる。放免された児玉は、政界の黒幕と怖れられ、やがてCIAの協力者に名を連ね、ロッキード社の代理人を務める。「政治と金」の根は深い。
 さて、不当財産取引委員会は、辻嘉六を証人喚問したが病気を理由に応じないため、臨床尋問に切り替えた。追放中の鳩山も喚問した。しかし疑惑が晴れないまま、東京地検は河野一郎ら鳩山に連なる代議士を議院内の偽証罪で逮捕、起訴する(最高裁で無罪。河野は追放令違反のみで懲役四か月)。大山鳴動して鼠一匹、である。
 辻嘉六事件は、いわば嵐の前の通り雨のようなものだった。
 ほぼ同時期に進行していた「昭和電工疑獄」の追及こそ芦田政権切り崩しの切り札であった。民自党の高橋英吉や田中は、昭電の日野原節三社長に不正あり、と攻撃を仕掛けた。

「昭電疑獄」と国策捜査

 4月27日、高橋代議士は「昭電問題調査要求書」を提出した。そこには昭電が工場拡張名目で復興金融公庫から融資された約23億円が、日野原社長を経て政官界、金融界にばら撒かれたようすが克明に記されていた。警視庁の内定情報が流れたようだ。
 昭電疑獄は「情報戦」に長けた参謀二部のウィロビーが民政局のケーディスを失墜させようとする謀略でもあった。
 昭和電工は、1939年に創業された肥料業界の大手である。創業家の社長ら重役が、前年3月に公職追放令を受けて一挙に退陣した後、復興金融公庫が推すライバル会社のトップ・日野原を昭電の社長に送り込む案が急浮上。参謀二部とパイプを持っていた創業家は、寝耳に水の社長人事に反発するが、押し切られる。背後で民政局、経済科学局(ESS)の高官が動いていた。
 昭電再建をめざす日野原は、日夜、金融界と関係筋に働きかけ、特別融資の筋道をつけた。何かにつけて派手好みであった。新橋花柳界の美妓、秀駒をひかせると杉並和泉町に料亭を持たせ、毎晩のように「パーティ」を催して財閥解体を担当する経済科学局や民政局のスタッフ、官界、金融界の要人を饗応した。秀駒は、そのころケーディスと不倫関係にあった鳥尾子爵夫人が銀座で営む洋裁店にも足を運んでいる。愛人筋から日野原とケーディスの関係が疑われた。日野原が積極的にアプローチしたのは経済科学局の要人だったが、ここぞとばかり、参謀二部のウィロビーは警視庁を使ってケーディスと鳥尾夫人に尾行をつけた。スキャンダル絡みの追い落としを図った。
 鳥尾夫人は回想記『私の足音が聞こえる』(鳥尾多江、文藝春秋)に記している。
 「そのうち私達に尾行がつくようになった。家の周りにうさん臭い、ヨレヨレの服(当時はまだ衣服の事情が悪く、普通の人はなかなかパリッとした服は着られなかった)を着た男の人が常に二、三人、物陰から私の行動を監視していた。私はそんな目にあったことはないので気づかなかったが、ケーディスが気づいて教えてくれた。そして我々が出かけると必ず後から車がついて来た」
 尾行を知ったケーディスは、警視庁の担当刑事部長を更迭させた。報道関係を統制する民政局はスキャンダルが表沙汰になるのを抑えた。新聞記事や国会議事録はGHQの検閲下にあった。GHQにとって都合の悪いことは一切書かせず、記録にも残させなかった。たとえば占領軍が接収した施設の詳細は、明らかにされていない。占領軍の安全のためであろうが、接収施設では知られるのが憚られるほど豪奢な生活も送られていた。
 ウィロビーはケーディスの情報統制の逆を突いた。吉田茂とも親しい政界の裏人脈を使って在日米人記者たちに昭電疑獄の情報を流させたのである。君主を気取るマッカーサーへの反感を募らせ、民政局のやり方を容共的と批判する記者たち、ビル・コステロ、ゴードン・ウォーカー、マーガレット・バートンらはせっせと本国に記事を送った。
 それが通信社APやUPのネットワークを経由してニューヨーク・タイムス、シカゴ・トリビューン紙などに載り、ホワイトハウスは騒然たる空気に包まれた。
 昭電疑獄は、まず米紙が火をつけたのである。その記事を日本の新聞が「転載」して書き始める。さすがのケーディスも転載までは止められない。民自党が内偵情報を盛り込んだ「昭電問題調査要求書」を芦田内閣に突きつけ、警視庁の本格捜査の機運が高まった。
 国策捜査は、ささいな罪に手をつけるところから始まる。まず浦和地検が昭電秩父工場の錫や銅が米や麦と交換するために闇に流されている事実を押さえ、工場長らを強制収容。これに続けて警視庁は富山、大町の工場を捜査し、物価統制令違反で関係者を逮捕する。
 国民経済が疲弊し、闇米が当り前の時代、厚生給与として自社製品を主食と交換する例は枚挙にいとまがなかった。一々、物価統制令違反で挙げていたら社会生活が成り立たなくなる。しかし警視庁は微罪を突破口にし、5月25日、昭電本社を家宅捜索。会計帳簿類を押収する。6月23日、商工省課長らへの贈賄容疑で日野原社長を逮捕した。
 疑獄は政権中枢にまで広がった。栗栖赳夫経済安定本部総務長官、西尾末広副総理が検挙され、48年の秋、芦田内閣は総辞職を余儀なくされた。芦田本人も昭電事件とは直接関係のない鉄道工業会が絡んだ収賄容疑で逮捕される。裁判で栗栖以外の政治家は無罪となるが、「民主化」から「反共の砦」へと占領政策が変わる過程で起きた疑獄事件は、権力の移行を如実に物語っていた。権力の重心は絶えず、変化している。
 昭電事件に連座して大蔵省の花形主計官、福田赳夫も10万円の収賄容疑で逮捕された。福田は日の当たる役人街道から転がり落ち、政界へ転じる。民自党の田中が一気呵成に攻め込んでくる姿をどう眺めていたものか。角―福の怨念もこれまた根が深い。

「炭鉱国管疑獄」そして小菅拘置所

 田中は「鉄砲玉」として不正追及の先陣を切った。その姿は御大、吉田茂の目に留まった。再び首相の座についた吉田は、田中を法務政務次官に抜擢する。不正を暴いた論功行賞であろうが、よくも悪くも田中は目立ちすぎた。
 ケーディスとウィロビーの激闘は芦田政権崩壊で大きな山を越えたかに見られたが、まだ終息してはいなかった。前政権を支えた民政局は目には目をとばかり、吉田の膝元でくすぶるスキャンダルに狙いを絞った。それが炭鉱国管法案の反対運動における炭鉱業者と政治家の贈収賄疑惑だった。吉田は九州の炭鉱王、麻生太賀吉と閨閥をなしている。麻生が吉田に政治資金を提供していることはよく知られていた。その命綱を断とうと企てた。
 だが……民政局にかつての勢いはなく、吉田失脚には至らなかった。その代わり、炭鉱国管疑惑は田中角栄ら、実働部隊に及んだ。
 11月23日、東京高検は、飯田橋の田中土建事務所と牛込の田中邸を家宅捜索した。二日後、衆議院本会議で角栄は弁明している。(以下「国会議事録」より)
 「私は、石炭国管運動に反対いたしまして(芦田が党首だった)民主党を離党いたしました。しかし私は、石炭国管運動だけに反対して民主党を離党したのではありません。私は三党連立に反対し、しかも公団法に反対し、農業生産調整法に反対して離党したのでありまして、しかも石炭国管法の審議において、特定の業者と金銭の收受の事実は断じてありません。
 ただ私は、ここで自分が事件に関係があるとかないとかいうことを申し上げるために、一身上の弁明に立ったのではありません。私は、吉田内閣が綱紀粛正の看板を揚げながら、しかも若い政務次官を人選したことに対して、まことに私が若い人の最も悪い代表であるというようなことを言われたように承りましたので、私は、若いがゆえに、土建業者なるがゆえにそのような侮辱に対して、一言弁明をしたかったのであります。私の黒白は、当然司直がこれを裁くでありましよう。潔白であることを信じていただきたいと思うのであります。ただ最後に、国会議員の一員といたしまして特に家宅捜索を受けるという状況にまで至りましたことを、皆様におわびいたすのであります」
 司直の手は田中に伸びてきている。若き法務政務次官は、11月27日の法務委員会で答弁に立った。その内容は、なんと刑務所施設の拡充に関する請願への回答だった。これほどの運命の皮肉があろうか。
 大垣市の刑務所留置場が定員を超える留置者を抱え、人権蹂躪状態なので独立の刑務所を設置してほしい、との請願に対し、田中は次のように答えている。
 「請願の趣旨は当局といたしましても十分了承できるのでありますが、ひとり大垣市の場合のみでありませず、全國的に見ても被拘禁者の激増に伴う人権の問題とも関連いたしまして、刑務所施設の拡充整備に努めているのでありまするが、本件については、本年度におきましては予算資材の面が制約せられておりますので、遺憾ながら実現は不可能の状態にあるのであります。私その必要なことにつきましてはすでに十分承知をいたしておるのでありまして、來年度におきましてはこれを設置する予定で、計画書を目下経済安定本部に提出中でございますから、以上で御了承いただきたいと思います」

 12月8日、ケーディスは愛人に別れを告げて日本を離れた。本国に戻ったケーディスは辞表を提出。自ら民主化を手がけた日本に再び戻ってくることはなかった。
 ケーディスが離日した5日後、田中角栄は小菅の拘置所に収容された。「至誠の人」を座右の銘とする田中は、口を真一文字に結んだまま、涙をはらはら流しながら護送車に揺られた。23日、与野党逆転状況の衆議院で内閣不信任案を可決された吉田茂は、解散、総選挙を決断する。側近から「じいさん」と呼ばれる吉田は、丸々とした体に満々たる闘志をみなぎらせ、勝負に出た。歴史の巨大な歯車は轟々と音をたてて回っている。
 翌24日、GHQは巣鴨拘置所に監禁され、裁判に付されていないA級戦犯の釈放を発表した。占領国へのクリスマス・プレゼントの意味がこめられていた。そのなかには岸信介、笹川良一、児玉誉士夫ら国家主義者の顔もあった。「冷戦」の厳しい現実の前で、GHQは、かれらに再起の機会を与えたのだった。

獄中で立候補する

 しんしんと冷え込む小菅の獄舎で、角栄は、苦悶していた。鉄格子の間から差し込む月光を見つめ、もう一度国政に打って出るべきか、社業に専念すべきか、迷った。このままでは野垂れ死にだ。俺はスケープゴートにされるために代議士になったのではない。政治に体を張りたい。だが、断崖絶壁に追い込まれていた。社業を託す役員が面会に来て「もう30万円しか会社の金庫にはありません。これを使ってしまうと田中土建はどうにもならない」と言った。万一、選挙に出て敗れたら、すべてを失う。社員は路頭に迷う。
 逡巡した田中は役員に「星野一也さんの意見を聞け」と命じた。星野は、田中が父のように慕った理研の総帥・大河内正敏の下で柏崎一帯の工場施設を統括していた人物である。理研城下町、柏崎で星野を知らない者はいない。良識派で人望が厚かった。田中が前回の選挙で当選できたのも星野の協力をとりつけ、理研票を一本化できたからだった。土壇場で、田中は地元の声に耳を傾けようとした。
 「俺は越後から米をつきに上京した出稼ぎ人」。そんな田中の土着の情念が、右腕と頼む役員を故郷に向かわせた。
 星野は、田中土建の窮状を訴える役員に言った。
 「そんなことより、牢屋のなかからでも立候補できるはずだ。立候補したら演説しなくてはならない。それには保釈してもらうことだ。大急ぎで東京に戻りなさい」
 助言を受けた田中は獄中で立候補した。年が明けて49年1月13日、保釈された田中は、上野発の夜行列車に飛び乗って南魚沼郡の六日町に向かった。そこから伝説的な雪中行脚、地を這う選挙運動を展開するのである。獄につながれたからには組織票を頼ってはいられない。豪雪のなか、長靴を履いて山から山、村から村、車座の集会や立会演説会場を経巡った。吹雪が荒れ狂い、乳を流したような白いヴェールが行く手をさえぎる。列車が止まっても「歩いていこう」と田中は退かなかった。
 小千谷に向かう上越線の鉄橋を渡っていたとき、不通のはずの線路が細かい震動を伝え始めた。線路の揺れは次第に大きくなり、気がつくと、目の前に黒々とした列車が迫っていた。「うわぁ」。どこに逃げていいかわからない。田中は鉄橋の橋げたにぶら下がって列車が通過するのを待った。線路上が静かになると、また歩き出すのだった。
 演説会では、「みなさん新潟県と群馬県の間に三国峠があるでしょ。あれをダイナマイトで吹っ飛ばすのであります。そうすれば日本海の季節風は太平洋側に抜けて越後に雪は降らなくなる……」と、お決まりの大開発論をぶつ。
 「石炭はどがんした。言うてみらっしゃい」
 容赦のない野次が飛ぶ。田中は顔を赤らめ、つっかえ、つっかえ身の潔白を説こうとする。
 「演説はもうええわ。浪花節をやらっしゃれ」
 「天保水滸伝」や「佐渡情話」の十八番に新しいレパートリーが加わっていた。題して「田中角栄小菅日記」。やはり転んでもタダでは起きない男である。拘置所暮らしの辛さを、濁声で切々と語りかける。ちょうど林芙美子の『放浪記』が流行っていた。気の毒に、助けてやろうと村人は同情を寄せる。田中は都市部の票数ではなく、山間部の得票率を重視する独特の選挙戦術を編み出した。浮動票よりも固定票を選んだのだ。ひとつの村で大多数の票を得れば、放っておいても村人たちが宣伝をしてくれる、と見切った。
 田中は新潟三区で4万2536票を獲得し、第2位で当選。国政の場に戻った。
 それにしても星野は、なぜ田中に獄中立候補を薦めたのだろうか。ロッキード事件の一審で求刑があったころ、星野は田中邸を訪ねて、田中本人にこう言い渡している。
 「おれは慰めに来たのではない。あなたは政治家を目指して以来、自分のやり方でやってきた。それを変えろとは言わん。政治家になって以来持ち続けてきた主義・主張をつらぬけ。そのために健康に気をつけろ、風邪ひとつひくなよ」
 田中が「持ち続けてきた主義・主張」とは、ひと言でいえば「民衆へ」の意識ではなかったか。それがソ連と敵対するアメリカ、権力の太陽に向かって飛び続けるエネルギーになったのではないか。炭管疑獄で権力の炎に焼き尽くされそうになった田中を救ったのは民衆だった。
 49年4月、国会に議席を得た田中は、本来の国土開発分野で辣腕を振るうのであった。
 GHQは日本を「アジアの工場」にしようと手を打つが、国民生活の向上にはほとんど関心を払わなかった。住宅政策や地方の開発には冷淡だった。
 田中はGHQとやりあった日々を、次のように回顧している。
 「占領軍から毎日のように『メモランダム』が発せられていた。まァ、日本の国会に対する事実上の指示だな。そのメモランダムで法律の原文が示され、一行の修正でも、附帯条件をつけることでも、占領軍のOKがなければできなかったんだ。それはもう、やかましいものだったよ。(中略)占領軍のメモランダム、これはもう洪水みたいでね。まるで蛇口からほとばしる水道の水だ。わたしはその蛇口の下に位置しておって、ジャーッと降ってくる法案の条文整理をしたり、ときには占領軍のメモに反して多くの議員立法をしたこともある。ま、そうした若いときの経験がね、今のわたしの法律に対する知識の基礎であるかもしれないと思うんだ」(『早坂茂三の「田中角栄」回想録』小学館より)

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