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田中角栄を歩く 山岡淳一郎
第3回 永田町の洗礼
 国会議事堂が千代田区永田町一丁目に完成して、ことしで71年になる。酷暑の夏も立法府の壮麗な建物をひと目見ようと、見物客はひきもきらないが、議事堂が公道を隔てて国会議員が事務所を置く衆議院第一・第二議員会館、参議院議員会館、それらの別館と地下通路でつながっている事実を気に留める人は少ない。
 この地下通路は、政治家だけが使うわけではない。官僚が資料の束を持って行き交い、議員の内命を受けた秘書が耳打ちしあいながら歩き、記者は走る。大勢の関係者がたむろしている。ときには刑事被告人も通っていく。それは、権力欲とカネと志しを複雑に絡ませながら人と人をつなぐ「地下茎」のようだ。
 雅やかな竹林も、土のなかに広がる地下茎でいびつに結ぼれあい、勢力を保っている。国会議事堂にそんな竹林の像を重ねてしまうのは、わたしだけだろうか。地上の風姿は、むしろ仮の装い。国権の最高機関である国会とは、物理的な地下通路のみならず、衆目がとらえにくい利害関係でつながる壮大な地下茎の集合体なのかもしれない。

土建屋議員とエリート議員

 1947(昭和22)年5月20日、新憲法下で初の特別国会が召集された。国会議事堂の中央玄関、ふだん固く閉ざされている重さ1トンの扉が、この日は厳かに開け放たれた。総選挙で勝った代議士たちが顔を上気させて登院してくる。そのなかに民主党の一年生議員、田中角栄の姿もあった。ちょび髭をたくわえたモーニング姿の土建屋議員は、「よろしく」「よろしく」と誰彼かまわずペコペコおじぎをしながら、玄関から中央広間へと入った。
 天井のステンドグラスから燦燦と陽光が差し込んでいた。その光が、部屋の隅々に佇立する三体の銅像を輝かせる。田中は足早に銅像へ歩み寄った。おお伊藤博文か、こちらは大隈重信、なるほど板垣退助もおるなぁ、と眺めていた田中の目が、一隅の台座に吸い寄せられた。その台座の上には銅像がなかった。憲政は未だ成らず、さらに偉大な政治家を目指せとの無言の戒めを表現しているらしいが、田中は言葉をかみ殺し、こう念じた。
 「いつか、俺の像をあそこに立ててやる」
 田中から少し離れて、カメラのフラッシュを浴びつづける新人がいた。田中と同年同月生まれの中曽根康弘。東大法学部を卒業して内務省に入ったエリートである。中曽根は、海軍短期現役制度で海軍に任官し、海軍主計少佐として終戦を迎えた。いったん内務省に復帰して内務大臣官房事務官、香川県警務課長、警視庁警視・監察官などを務めた後、依願退職。真っ白な自転車に「日の丸」を立てて選挙運動をくり広げて当選した。民主党の党首、芦田均を担ぐ、反吉田茂派のホープは、期待を一身に集めていた。
 大柄で太い眉に隆たる鼻梁、オールバックに髪をなでつけた姿から「緋縅のよろいをつけた若武者」と周囲は彼をもてはやした。のちに「私の体の中には国家がある」と嘯く傲岸さをすでに身につけていた。
 田中は、記者に囲まれて得々と「抱負」を語る中曽根には目もくれず、議場へと急いだ。
 混沌たる時代のただなかで開会を告げる木槌が響いた。

三党連立片山内閣

 占領政策を主導するGHQ民政局(GS)は、非軍事化、民主化を急ピッチで推し進め、自由党を率いる吉田茂の前内閣で日本国憲法の公布にこぎつけた。しかし保守の牙城を自認する吉田と民政局、とりわけ筋金入りのニューディーラー、ケーディス次長とはことごとく対立した。吉田はケーディスの「左」がかった民主化政策が気に入らなかった。ケーディスもまた吉田の動きを激しく牽制した。吉田は、本来、民政局と交渉すべきところも直接、総司令官のマッカーサーに書簡や密使を送って政治の舵取りを行った。
 そんな吉田が最も手を焼いたのが市井を覆う「飢餓」だった。制度が変革されても、飢えは解消されない。終戦直後、大都市での主食の配給量は、大人で1日297グラム。茶碗1杯分しかなかった。エネルギー源の石炭の産出量は落ち込み、工場は操業停止。モノ不足は大インフレを引き起こす。物価は、なんと戦前の65倍にハネ上がる。片や賃金は、戦前の23?37倍にとどまり、家計の7割以上を食費が占めるありさまだった。
 闇市には人が群れた。飢餓は人を「獣」に変える。花形の歌舞伎役者が食べ物の恨みから弟子に撲殺され、配給のミルク不足で乳児院の赤ん坊たちが息絶える。幼い子どもの衣服を脱がせて持ち去る「はぎ取り魔」やスリ、強盗が横行した……。
 石川淳の名作『焼跡のイエス』に、飢えがはびこる闇市を覗いてみよう。

 ……上野のガード下、さきごろも捕吏を相手に血まぶれさわぎがあったという土地柄だけに、ここの焼跡からしぜんに湧いて出たような執念の生きものの、みなはだか同然のうすいシャツ一枚、刺青の透いているのが男、胸のところのふくらんでいるのが女と、わずかに見わけのつく風態なのが、葭簀(よしず)のかげに毒気をふくんで、往来の有象無象に噛みつく姿勢で、がちゃんと皿の音をさせると、それが店のまえに立ったやつのすきっ腹の底にひびいて、とたんにくたびれたポケットからやすっぽい札が飛び出すという仕掛けだが、買手のほうもいずれ似たもの、血まなこでかけこむよりもはやく、わっと食らいつく不潔な皿の上で一口に勝負のきまるケダモノ取引、ただしいくら食っても食わせても、双方がもうこれでいいと、背を伸ばして空を見上げるまでに、涼しい風はどこからも吹いて来そうにもなかった。

 4月の総選挙で、吉田茂の自由党は片山哲を擁する社会党に第一党の座を奪われた。飢えと貧困にあえぐ大衆は、保守政権への不満と現状脱却を期待して社会党に多くの票を投じた。とはいえ、獲得議席数は、社会党143、自由党131、田中や中曽根が籍を置く民主党124、三木武夫ら中道路線の国民協同党31。社会党の単独政権は難しい。片山は難局に際して四党連立を呼びかけたが、吉田は誘いに乗らず、反共の立場を強調して野に下った。お手並み拝見、いずれ出番は回ってくると読み切っての下野である。
 首相に指名された片山哲は、ケーディスらの後押しを受けて社会、民主、国民協同三党連立の内閣を立ち上げ、民主党の芦田均を副総理兼外務大臣として入閣させた。
 だが、飢餓と経済危機の打開、民主化を同時に進めねばならない片山内閣は、安定感に欠けた。加えてGHQ内で、民政局と、検閲や諜報活動を通して情報分析を行う参謀第二部の葛藤が、占領政策に微妙な影を落とし始めていた。参謀第二部長のウィロビーは、ドイツ生まれの反共主義者でナチスに共感を寄せる人物。ケーディス追い落としに執念を燃やした。参謀第二部は、日本の非軍事化で表舞台から追放されたはずの特別高等警察(特高)や憲兵、日本軍諜報機関の高級参謀たちを密かに抱え込み、策謀を練った。
 政界は、一寸先が闇だ。与党議員で政界にデビューした田中角栄は、7月10日、衆議議院本会議の「自由討議」で国会第一声を上げた。自由討議とは文字どおり議員がフリーに討論する場。民主化の象徴として設けられたのだが、卑俗な野次が飛び交い、とても議論にならない。田中は、自由討議の進め方に注文を出した。
 *以下、議員の国会発言は議事録をもとに骨子を記す。( )内は筆者註。
 「……議員は一人というも、これが背後に15万5千人の国民大衆があって、この発言は、まさに国民大衆の血の叫びなのであります。平野(力三)農相(社会党)のごとく、三人、四人一まとめのご答弁は、一山いくら、十把ひとからげのようで、立法府議員に対する行政府責任者といたしまして、少し懇切丁寧を欠くの感なきを得ないのであります。こんな不親切な政府には協力せぬぞ、ともし言われたならば、どういたしましょう。その意味において、お暑い中ご苦労様ではございますが、一段のご考慮を煩わしたいのであります」
 1人の議員に「15万5千人」という数の根拠は、よくわからない。単純に総人口を衆議院議員数で除した数、でもなさそうだ。田中の獲得票数は4万足らず。勢いで口を衝いた数か。社会党の閣僚に名刺代わりのジャブを放った。
 議員はそれぞれの政治テーマに応じて委員会に所属する。田中は、迷わず国土計画委員会に名を連ねた。土木、建築分野はお手のものだ。キレのいい質問を放ち始める。
 9月、「キャサリン台風」の襲来で関東、東北、北海道にかけて、死傷者、行方不明者3600人を超える大水害が発生した。利根川、荒川など多くの河川が決壊する。
 田中は行政機構の矛盾を衝いた。
 「各省に(災害対策事業が)分属しておる部局と十分なる連絡が、あるかないか。どうなのか。根本的原因として600ミリないし700ミリという予想外の雨が降ったからというご説明でありますが、これは当然、そういうことを考えなければならぬ。明日また700ミリ、800ミリも降るかもしれぬ。農林省に分属しておる治山関係と、内務省に属しておる治水関係が、過去においてうまくいっておったのかおらないのか。しかも今次水害にぶつかって、その応急対策ならびに計画を立てるにおいても、十分なる連絡があるかないか」
 内務事務官は、冷や汗を流しながら答える。
 「過去においては、多少、いろいろのことが風評にせられておりますけれども、最近においては農林省の治山方面と内務省でやる砂防という点については、常に連絡を取っておるので、この五ヵ年計画においても……」。田中は曖昧な答弁に「現場感覚」で突っ込む。
 「内務省国土局は、災害復旧に関して、技術陣容ならびに機械設備において遺憾なき状態にあるか。第二に復旧工事は従来どおり内務省でもって直営でなすか否か。第三には労務配置に関しまして総合的計画ならびに失業(対策)との間に連絡があるかないか」
 と、田中は復旧工事にかかる「人、モノ、金」の内実に迫った。経営者ならではの発想だ。工事が内務省の直営で行われないとすれば、当然、民間に請負工事が発注される。役人の答弁ひとつで土木業者の「食い扶持」が決まるのである。
 官僚は、もはや言を左右できない。
 「第一問につきまして内務省の機械力または人的資源は十分だと思います。しかしながら利根川の決壊口は、この際は一刻も争うという意味から、やはり民間のご協力をもって時日の短縮に専念している状態で、今後も内務省の直轄工事でやるという意思は毛頭ありません。平時の災害復旧にも直轄と請負の二本立てで準用していきたい。労務関係につきましても、被災地では災害者が非常な熱意を示されまして、早期復旧のためには不眠不休で応援するという涙ある申し出がありますので、被害者のご援助を得て、労務については不足を感じておりません」
 民間の工事請負を官僚が約束した。工事は現地の失業対策にも充てられる。並の新人では、こんな答弁は引き出せまい。並行して、田中は選挙区の刈羽郡、柏崎市を流れる鮫石川水系の砂防工事を手始めに河川改修や道路整備の「請願」を次々と出した。請願は憲法に認められた権利であり、国会議員の紹介で出された請願が議院で採択されれば、内閣に送られる。内閣はその処理を報告しなければならない。請願はれっきとした国への「発注」だ。
 当時、土建屋を荒くれ者と遠ざける人も多かった。その土建屋のなかから閣僚や官僚に物申す新人代議士が現れたのである。角栄は、紛れもなく戦後の民主化の落とし子だった。

中曽根康弘と福田赳夫

 田中の恐るべき現実主義は、同期の中曽根の質問と比較しても際立っている。中曽根は官僚出身らしく、政治は財政にありと「財政及び金融委員会」に身を置き、7月11日、初登壇した。この日の議題は国民の貯蓄奨励のための組合をつくる法律の審議である。
 大蔵省主計局長の福田赳夫が政府委員で法案説明に立った。ある委員が「預金奨励のために福徳預金的な、いわゆる富くじ式の方策を採り入れてはどうか」と言ったのを受けて、福田が「ただいまさようなことは考えておらないのでありますが、非常に面白いご意見。なお研究してみたい」と答えたのにつづけて、中曽根が質問した。
 「預金の増強は、インフレーションを克服するうえに相当重大な意味を持っておると思いますが、最近日銀券の増微の趨勢を巷間でいろいろ取り沙汰して、政府は、社会党がかつて唱導した、新円に手をつけるのではないか、登録するのではないかというようなデマが横行しております。こういうことは政府において絶対にないと確信しておりますが、御所信をお聞きしたい」
 政府は、ハイパーインフレへの対策として、46年2月に5円以上の日銀券(紙幣)を強制的に金融機関に預けさせ、従来の預金封鎖とともに生活費や事業費などに限って新銀行券の払い出しを認める非常措置を実施した。これを「新円切り替え」という。市民は新円切り替えで戦前に蓄えた財産をごっそり失った。新円切り替えは、インフレ抑止に一定の効果はあったが、物価上昇は続き、人心の動揺はおさまらない。新円政策が、またぞろ転換されるのではあるまいな、と中曽根は質したのである。常識的にも通貨制度はそう簡単に変わるものではない。言わずもがなの感なきにしもあらず。
 国会議員の政務次官が答弁に立ち、「さようなことは考えていません。通貨の新円を堅持します」と断言。聞かれるまでもない、とはねつけている。この場でのやりとりはそれっきり。主計局長の福田とはニアミスに終わった。
 福田は、わざわざ念押しされなくても新円政策が変わるはずはない、と腹の底で突き放していた。後年、田中、福田、中曽根、三つ巴でしのぎを削りあう権力者の戦後出発点は、それぞれの前半生を反映していておもしろい。福田は、この時点では「官のなかの官」大蔵省の花形局長。日の当たる坂道をまっしぐらに駆け上っていた。いずれ官僚の最高峰、大蔵事務次官を務め、大蔵大臣の椅子でも狙うか、との心積もりではなかったか。陣笠議員になって雑巾がけに汗を流そうなどとは全く考えてもいなかっただろう。翌年、発覚する「昭和電工疑獄」で福田は収賄容疑で逮捕されて官界を追われ、政治家に転じるのだが、その福田の有力後援者のひとつが井上工業。そう、新潟から上京した角栄少年が最初に丁稚奉公をした土建会社である。福田と中曽根は群馬出身。やがて選挙となれば「上州代理戦争」を展開するようになる。田中、福田、中曽根、人の縁の不思議を感じる。

内務省解体後の行方

 田中の国土計画委員会での質疑や請願を土建業界への利益誘導と、したり顔で断罪するのは簡単だ。しかし、飽食の時代に生きるわたしたちは、飢えを実感できていない。政界に躍り出たばかりの田中が直面した飢えへの想像力を閉ざしてはならないだろう。
 闇市で汚い皿に載るイワシの頭に食らいつく女や、握り飯をかっぱらう全身膿だらけの少年、そんな飢えた庶民を政治的に「食わせる」とはどういうことか。闇米を拒んだ裁判官が栄養失調で死んでも、大衆の生きようとする欲望がしぼむはずはない。
 「憲法より飯だ」と叫ぶ人々に政治は何を与えられるのか……。
 国土計画委員会での田中の振る舞いを一業界への利益誘導とみなすと、占領から復興への大潮流をも見失いかねない。田中の具体的な指摘は、種々雑多なようで、じつはある一点に収斂していた。それは内務省解体後の土木・建設行政のあり方。つまり旧秩序から新秩序への転換点に集約されていた。時代の波打ち際を田中は走っていたのである。
 GHQは、内務省を軍国主義的中央集権体制の中枢ととらえ、政府に解体を命じた。内務省は、全国の警察行政を統括する「警保局」、知事の任免を含めて地方行政を牛耳る「地方局」、河川や道路、港湾、住宅などの土木建設行政を握る「国土局」、国家神道を統括する「神社局」、労働、保険政策を司る「社会局」などで構成されていた。なかでも警保局と地方局の権力は絶大だった。
 占領政策への抵抗を警戒するGHQは、まず内務省幹部や警察、特高関係者を公職追放した。続いて神祇院(神社局の後身)を廃止し、都道府県知事を公選制にして地方局の力を殺ぎにかかる。さらにその業務を全国選挙管理委員会、地方財政委員会、総理庁などに分割し、地方分権の路線を敷いた。警保局が束ねていた警察機構も、国家地方警察と自治体警察に分け、警察の民主的管理を担う公安委員会制度を立ち上げようとしていた。
 これに対し、内務省当局者は、戦後改革への自らの貢献を過大評価し、改組程度で乗り切れると高をくくっていたが、ケーディスたちは「ゲシュタポやゲーペーウーにも匹敵する日本の警察の暗黒の歴史を終わらせ、日本の国民を内務省の警察権力から解放し、世界の世論を満足させねばならない」と徹底的な解体を迫った。
 内務省は、47年末を期して、その74年の歴史の幕が閉じられる。
 機を見るに敏な中曽根が、早々に内務省の役人生活に見切りをつけて政界入りしたのは、このような省解体、警察権力機構の崩壊と無縁ではなかっただろう。
 田中の関心の的は内務省解体後の「国土局」の行方だった。水害復旧に係わる質問で、農林省の治山と、内務省国土局の治水の縄張り問題に触れたのも、解体後の国土局は復興に必要な「国土計画」を実行できる「建設省」に生まれ変わるべきだと考えていたからだった。建設行政の一元化を田中は志向していた。
 一方、国土局の官僚たちは必死で生き残りを模索する。終戦間もなく、一部のグループは国土局を出て、都市復興を手がける「戦災復興院」をつくった。地方計画に携わる者は、内閣所属の「経済安定本部」に出向。いよいよ省解体が迫ると、戦災復興院と国土局は合体して「建設院」を名乗った。この建設院の看板を「建設省」とつけ変えて、省庁間のバランスを保ちながら、体よく旧体制の延命を図ろうとしていた……。
 12月5日の衆議院本会議、角栄は、舌鋒鋭く、片山哲総理大臣に「建設院」のあり方を問うた。省への格上げを視野に入れた弁舌からは、叩き上げの迫力が伝わってくる。
 「私は、土木建設業者でございまして、しかも過去十年間を通じ、建設省設置論者であります。なぜ建設省をつくらねばならぬか。いまさら申し上げるまでもなく、わが国の建築行政が多岐にわたっておりますために、わが国再建を阻害しておることは、総理大臣もお認めになっていると思います。一例として、終戦後、最も大きな事業となった特別建設工事があります。進駐軍に関する渉外工事です。渉外工事がインフレを助長させたといわれていますが、土木建設業者に流されたカネの量は厖大なものがあります。しかし、そのような噂を立てられるのは、一にあの厖大なる渉外工事を、一年有半にわたって外務省の所管で工事が遂行されたからであります。しかも工事の結果がよろしくない……。
 (建設行政は)農林省の開拓局、商工省の電力局、運輸省の港湾局、あらゆる省にまたがっております。これを一挙にやるためには行政整理(改革)をやらねばなりません。建設省ができれば、この行政整理はどうなるのか。行政整理は日本を再建する唯一の途であると私は感じておるのであります」
 片山首相が苦虫をかみつぶしたような顔つきで答える。
 「行政整理はなかなかの大問題でありまして、機構の改革と経費の節減と人員の調整問題でありまして、この三つをにらみ合わせてやるのですからなかなかの大事業であります……。人員の問題及び整理の問題は、小出しに部分的に出しまして、いくらかでも進歩を図っていきたいと思っております」
 公務員労組を支持母体とする片山総理には精一杯の回答である。
 田中は、やおら庶民が塗炭の苦しみを舐めさせられている「住宅問題」を突きつけ、家とは何か、持論を展開した。
 「現在、住宅は、ご承知のとおり600万戸も不足であり、経済安定本部案に沿って24万戸ずつつくっておったならば、戦前に復旧するまで30年間かかるのが現状であります。米もない、着物もない、住宅もないということになりますと、人間が生きるための必需条件である衣食住、その住宅は一家の団欒所であり、魂の安息所であり、思想の温床である。その住宅が30年間も戦前に戻れない状態では、これはえらいことになる。高度民主主義を標榜される片山内閣といえども、出直していかねばならぬものじゃないか……」
 片山が答える。「住宅問題ばかり考えますと、今後30年かかり、40年かかるということになりましょう。農民問題ばかり考えますと、農村の文化建設には30年かかるというでありましょう。個々別々に立場を主張されると、きりがありません。国全体の経済の隆盛を考えて、住宅問題を好転せしめたい。復興事業の重大性を考え、(建設院を)内閣直属の外局に置くのでありまして、内閣総理大臣の責任においてその発展を期したい」
 ここで田中は「建設院」の位置づけに切り込んだ。厖大な建設事業に立ち向かわねばならない建設院が、内閣の外局では心もとない。法律の文言を示し、建設院の責任者は国務大臣を充てよ、と弁じた。
 「(建設院設置の)法案の第十条、『建設院の長は、国務大臣を以って、これに充てることができる』という条項は、当然、内容からしまして、『国務大臣を以って、充てる』としたほうが適当だと思います。ご答弁いただきたい」
 「……ことができる」は可能の表現であって、厳格な規定ではない。このわずか六文字をとっただけで建設院の長は大臣と規定され、省と同格になる。
 「法律の鬼」田中の目覚めであった。建設官僚たちは最大級の追い風を感じただろう。具体的な質疑では、手ごわく立ちふさがる田中が、頼もしく映ったに違いない。田中さんなら話が早い。そんな空気が醸成される。
 片山総理は、田中の意見を形式論にすぎない、と退けようとした。
 「私の考えは、そういう形式にとらわれないで、いままで官僚は形式にとらわれて外局だから軽くみたように思うが、重要な問題には十分力を入れて発展を期したい。この問題には、もう十分力をいれております」
 総理大臣と一年生議員の討論は、どちらに軍配が上げられようか。建設行政の本質を押さえてひた押しに押してくる田中を、片山はもてあましたようだった。

炭鉱国管法に反対、民主党離党

 国会で田中が真っ向勝負を挑めたのは、与党、民主党のくびきを自ら断ち切ったからでもあった。11月末、田中は、片山内閣が提出した「炭鉱国家管理法案」に反対し、民主党に「離党届」を出していた。
 炭鉱国管法は、GHQの支配下、前吉田内閣と代わり映えのしない経済政策を強いられる片山内閣が示した唯一の「社会主義政策」といわれた。石炭の増産のために炭鉱を国の管理下に置こうとする、この法案は、当初から麻生太賀吉ら九州の炭鉱業者から強い反発を受けた。麻生家に娘を嫁がせている吉田はもとより、政権与党の民主党のなかからも反対運動が沸き起こる。炭鉱業者は反対派の国会議員にカネをばらまいた。
 田中は、「黒い石炭を赤くするな」と吼え、民主党内の反対派の先陣を切った。11月20日から22日まで衆議院本会議で大乱闘が続き、法案は修正に次ぐ修正を重ねてようやく可決。その結果、民主党は党内攪乱の首謀者7名を除名し、田中ら17名には離党を勧告したのである。
 田中たちは「同志クラブ」を結成し、政権のキャスティング・ボートを握った。
 民主党が割れ、片山連立内閣は、いよいよ求心力を失い、翌48年2月、総辞職。芦田均が首班指名を受けて政権を担当する。芦田内閣の発足直後、田中ら同志クラブは解散し、新たな賛同者を入れて「民主クラブ」を再結成。そのまま自由党に合流し、議員総数152名の「民主自由党」が誕生した。
 保守勢力が結集した民自党の総裁は、もちろん吉田茂。田中は吉田の子分となった。将来を老宰相吉田茂に託したのである。吉田は、いきなり田中を民自党の選挙部長に抜擢した。今日の選挙対策委員長だ。集金力を見込まれてのことである。以来、田中と選挙は分かちがたい関係で結ばれていく。
 保守本流のまんなかに入った永田町の風雲児は、思う存分暴れまわった。
 だが……政界は、GHQ内の民政局対第二参謀本部の暗闘にも引きずられ、波乱に見舞われる。疑獄事件が次々と発覚し、大混乱に陥った。
 親分の吉田から「あいつは刑務所の塀の上を歩いているような男だ」と評された田中は、炭鉱国管法反対運動に係わる収賄容疑で逮捕され、塀の向こう側に落ちた。永田町の手厳しい洗礼を受けたのであった。小菅拘置所のなかで、田中は選挙への出馬を宣言する……。
 それにしても、国会議事堂の中央玄関を意気揚々とくぐってから小菅に収監されるまで1年半少々。この短い期間に田中は政治家人生の「予告編」を演じてしまったようだ。
 疑獄にまとわりつく怨念は、60年の歳月を経てもなお、政界の「黒い地下水脈」を形成している。

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