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田中角栄を歩く 山岡淳一郎
第2回 飯田橋?「若き血の叫び」
飯田橋の田中土建工業株式会社

 青年実業家、田中角栄にとって、飯田橋界隈は「庭」も同然だった。
 JR飯田橋駅を背に目白通りを南へ、九段下に向かって歩きだすと、左手に東京区政会館の高層ビルが見えてくる。かつてここには日本医大付属第一病院が建っていた。
 田中は、1942(昭和17)年3月、通りを挟んで病院の真向かいに、間口二十間(36m)の材木店を買い取って事務所を開いた。徴兵されて満州にいた田中が乾性肋膜炎で生死の境をさ迷い、内地に送還されたのは前年の秋。帰還からわずか半年での本格開業であった。
 はしっこくて、目立つ田中は、軍隊で殴られ続けた。
 軍人傷痍章とともに鉄拳制裁から解放された田中は、まず、冬青木もちのき坂の土建業者、坂本家の一部を事務所に借り受けた。現在のホテルグランドパレス南隣、和洋九段女子中学のあたりに坂本家はあった。主人は亡くなったばかりで、老いた母と娘、孫娘の三人が肩を寄せ合うように暮らしていた。娘は婿を迎えて子をもうけたのだが、別れて、不縁のまま十年が過ぎようとしていた。内務省相手の商売で羽振りのよかった坂本家も、女所帯に変わって、零落の影がしのび寄る。
 一家と親しくなった田中は娘・はなを妻に迎え、土建業者の資産をそっくり引き継いだ。愛情を注ぐ裏で、したたかに計算をしていた、としても不思議ではない。坂本家側にも藁にもすがる思いがあっただろう。結婚と大通りの事務所新築は、ほぼ同時だった。
 43(昭和18)年1月、個人企業は田中土建工業株式会社に組織変更された。田中土建は、社長の営業力で年間施工実績全国50社入りを果たす。飯田橋周辺に10か所以上の事務所を設け、住宅や寮、アパートを所有した。そのまま田中が社業に専念していれば、会社は国内屈指の大ゼネコンに成長していたかもしれない。
 だが、若き田中角栄は実業界に留まらず、魑魅魍魎が跋扈する政治の世界へと転じる。何が、田中を突き動かしたのか……。深い動機を、本人は語っていない。
 それにしても飯田橋から九段下にかけて、田中の事業家としての痕跡はものの見事にかき消されている。新婚当初、事務所を開いた跡地には間口せいぜい4?5間のカフェや雑居ビル、薬店などが雑然と軒を接してひしめきあう。
 一方で、この地には政治家のごうを偲ばせる風景がしっかりと残されている。たとえばグランドパレス。後に韓国大統領となる金大中が、このホテルからKCIA(韓国中央情報部)の手で拉致されたのは田中首相在任中の73(昭和48)年8月だった。田中は金鍾泌との首相会談で両国関係を重視する穏便な政治決着を図った。あるいは、ロッキード事件で現金が丸紅の重役から田中の秘書に渡された場所は、靖国神社に近いマンションともいわれた。
 九段の坂を上っているわたしに梅雨の生ぬるい風がまとわりついてくる。欲望と金と暴力がねっとりと絡みあう政治の風のようだ。田中は、なぜ、政治家を志したのだろう。
 その疑問を胸に、太平洋戦争末期から敗戦にかけて軍国・日本が音をたてて崩れる過程で、ひっそりと還流された闇の「資金」と、連合国軍に占領された「東京」に想いをはせた。

朝鮮への工場移転プロジェクト

 45(昭和20)年8月15日、田中は天皇の「終戦ノ詔勅」放送をソウル市から南へ200キロ離れた静かな町、大田で聴いた。戦争が、ようやく終わった。内地では多くの国民がラジオの前で愕然と頭を垂れたが、田中土建の総帥には感傷にひたっている暇はなかった。
 数日前、ソ連軍進攻の情報をキャッチし、辛うじて朝鮮全土に散っていた社員をソウルに集めていた。長居はしていられない。一刻も早く引き揚げねば……。
 田中土建は、理研重工業の東京王子工場を大田に移す大プロジェクトを遂行中だった。王子工場はピストンリングを製造していた。ピストンリングはエンジン内の気密性を保つ金属の輪。航空機や車両に欠かせない軍需品だ。軍部は、戦局が悪化するにつれて軍需工場を大陸に移転する計画を推し進めた。田中が請け負った理研工場の移設も、その一環であった。
 敗色いよいよ濃く、国民がどん底の生活を強いられていた頃、さまざまな形で軍部から膨大な資金が民間企業に流入した。その調節弁を握るのは、商工省の大部分と企画院を統合して設立された軍需省。何しろ財政支出の85・3%を軍事費が占めていた時代である。軍需省は「日本最大の発注者」だった。
 戦争末期、総軍事費のうち陸軍管理下の80%、海軍ではその75%が民間の軍需工場に流れている。物資は欠乏し、労働力も確保できない。企業の生産力は落ち込んでいたのだが、それを無視して大量発注が行われ、公費は「つかみ取り」だった。
 終戦前夜に会計検査院が発表した「臨時軍事費決算検査報告書」によれば、軍需品の価格査定や前渡し金の支払、納入での法令違反は53件。5億2600万円(現在の約4000億円)が不正に費やされている。ある自動車会社は軍需省航空兵器総局から「自動車代」として325万円(現在の約24億円超)を受け取りながら、三年間に清掃自動車4台=7万円しか納めていない。防毒マスクの加工会社は「収益率、約八割」で商売をしている。
 田中土建が受注した工場移転も、そうした庶民からは見えにくい資金の潮流に乗じていたとみていいだろう。後年、田中と知り合い「刎頚ふんけいの友」となる小佐野賢治も、軍需省航空兵器総局?海軍航空本部ラインに食い込み、自動車部品の商いで荒稼ぎをしていた。
 敗戦から戦後の混乱期、納入されなかった軍需品に総額500億円もの「軍需補償」が支払われた。こんにちの価値で40兆円以上の金が、ほぼノーチェックで軍から民へ渡ったことになる。その資金の一部は、間をおかず、政党結成の元手に変わり、政界へと還流されていく。
 財政的にも軍国・日本は瀕死の状態に追い込まれた。この戦時統制経済の絵図を描いた人物のひとりが、東條英機内閣の商工大臣、軍需省の軍需次官を務めた岸信介であった。
 理研を産業団に育て上げた大河内正敏は、岸を徹底的に嫌い、対立した。工場の統合、移転を迫られても、なかなか首を縦に振らなかった。しかし軍をバックに官界を牛耳る岸に押し切られた。大河内は「基礎研究と発明起業」を両輪とする理研経営の第一線から追われ、研究室にこもる。本土空襲が激しくなり、王子工場の移転も、ついに呑んだ。
 大河内を父のように慕う田中は、岸との火花を散らす衝突をどう眺めていたものか……。

 チョビ髭を鼻下に生やした田中社長は、1000人の工員を抱える工場の移転に没頭した。運ぶ機械は200台。鉄道は空襲で寸断され、海路には戦闘機や潜水艦の網が張られている。みすみす敵の標的となるような危険な仕事には手を出したがらない。田中は機械部品は新潟から駆逐艦で北朝鮮の清津港へ、もしくは東海道線から山陽線を使って下関、門司、博多経由で釜山へ運ぶ。物も人も分散して搬入する計画を立てた。新興企業はリスクをとらねば這い上がれない。事業の魅力は、軍から支払われる金。
 田中は『田中角栄 私の履歴書』にこう記している。

 私の受け持った工事費総額だけでも二千万円を越すものである。当時の見積もりで煉瓦造りの工場が坪当り百二十円であったから、三百?四百倍と換算しても六十億?七十億の仕事である。朝鮮軍の要求で提出した計画書によると、この工事所要人夫の延べ人員が三十七万五千人であった。このことだけでもその規模の大きさが知れよう。この金は軍の命令で日本興業銀行の窓口から支払われた。
(『私の履歴書』1966年)

 ピストンリング工場の移転費用は2400万円。現代なら200億円ちかくになろうか。その三分の一が「着手金」として支払われている。田中は現ナマを抱えて朝鮮に乗り込み、45年11月の竣工を目指して、資材の買い付けに奔走した。

 突貫工事の木材集めには現金をふところに、北部の羅津、清津、城津へ一隊、満鮮国境地帯の江界、満浦鎮に一隊、そして私も単身で新義州からトラックで水豊ダムまで、さらに水の上を碧洞までも材木の買い付けにかけ回った。私は八月八日の夕方京城の宿舎にかえり、他の二隊も翌九日の早朝私に合流した。ちょうどその時刻にソ連軍は国境を越境し、朝鮮に侵入してきたのである。
 その日を境に、京城から大田行きの汽車の中の空気までがガラリと変わったのがよくわかるほどになった。それまで日本語しか耳に入らなかったのに、大勢の、しかも大声の朝鮮語が耳にはいる。そして潮騒のようにそれは広がっていった。
(前掲)

 朝鮮の人々は、戦争が終わり「解放」された。田中は、本国に戻りたい。はやる気持ちを抑えるようにして、事務所前の広場に百人余りの現地採用の職員を集め、最後の国旗掲揚を行った。登壇した田中は、書類を手に掲げて、濁声をふりしぼる。
 「これが、現在の私の朝鮮における全財産と、工事材料、現地投資の一覧表であります。みなさん、この財産を、新生朝鮮に寄付いたしますッ」
 類まれな人心収攬術であった。弱冠27歳の経営者でありながら、朝鮮の人たちの情を鷲づかみにして、身の安全を保った。
 ただし、額面どおり着手金を含めて「全財産を寄付」したとは信じにくい。相当な現金を田中は持っていたと想像される。3日後には幹部だけを引き連れて釜山まで行き、引き揚げ船に乗り込む算段をしているのだ。関釜フェリーの運航は停止されたままだったが、軍関係者から「米の積み込みがすんだ海防艦が舞鶴軍港までかえるので乗るように」と促され、8月20日、いの一番に乗船している。その海防艦は女性と子どもしか乗せていなかった。
 出航後、艦員から「あなたがたは田中菊栄ほか六名です」と笑って言われた、と田中は自著に記している。「角栄」を「菊栄」と間違われて引き揚げ船に乗れたと笑い話ですまそうとしているが、話に無理がある。名前が菊栄でも、ちょび髭の男が目の前に現れれば誰でもおかしいと気付くだろう。女と子どもしか乗せないのが条件なら、とっくにつまみ出されていたはずだ。
 地元の新潟には「角さんは5万円で艦ごと買って帰ってきた」との伝説も残されている。

立候補、落選、ふたたび立候補

 「田中菊栄」を乗せた船は、舞鶴港には入らず、台風にも行く手を阻まれ、青森の港に着岸した。田中は列車に乗り換え、東北を南下する。仙台駅で武装解除されて郷里に向かう兵隊を乗せた列車とすれ違った。「暗然とした気持ち」で窓を見上げた。
 マッカーサー元帥が率いる占領軍が、まもなく進駐してくる。神奈川では米兵が乗り込んできたら女子の身が危ないと、女学生の疎開が行われていた(後に解除)。
 占領軍は何をするかわからない。全面的に軍政が敷かれ、占領軍が内閣や裁判所、中央官庁や知事ポストを握って日本国民に命令を下す「直接統治」が行われれば、日本はアメリカの植民地同然となる。日本政府の存続が許されて、最高司令官が一括して政府に命令を出す「間接統治」が選択されれば、いくらかマシではあろう……。日本は、どうなってしまうのか。憂いを募らせながら、8月25日の朝、田中は飯田橋駅に降り立った。
 一面、焼け野原だった。ほーっと深く、息を吐いた。大きな建物では日本医大病院、靖国神社と向かい合う陸軍軍人の親睦機関「偕行社」、九段の武張った帝冠様式の屋根が光る「軍人会館」、その向こうの「憲兵司令部」などが辛うじて建っていた。偕行社の隣、建築家の土浦亀城がモダニズム建築の粋を集めて設計した「野々宮アパート」は、上階が焼け落ち、2階から下しか残されていなかった。
 15歳で故郷を出、土建屋の小僧になって十数年、建築と土木に青春のエネルギーを燃やした角栄は、変わり果てた東京の姿にこころの背骨をへし折られるような衝撃を受けた。ゲートルを巻いた脚をせかせかと動かして目白通りを歩く。
 天の助けか! 日本医大病院の向かいの社屋は、無傷だった。あたりは焼けただれているのに十数か所の事務所、住宅やアパートも無事である。唯一、江戸川岸の四百坪の製材工場が被災しただけで「疎開するので買ってくれ」と頼まれて手に入れた通り沿いの魚屋まで延焼を免れていたのには驚いた。田中は自著に短く記している。

 私はそれもこれも神様のおぼしめしだと思いながらも、世の中のために、私のなし得る何かをしなければならないと心の奥で激しく感じた。
(前掲)

 この「何か」を直線的に「政治」と結びつけるのは早計だ。「何か」とは、まだ形をなさない内面のマグマのような存在であろう。田中は、具体的な思考、即物的な考え方を好む男である。経営的才能に秀でた人物特有の「モノと現場」の感触から先を見通すタイプだ。そんな田中が法律をよりどころに社会を俯瞰する政治を志したのは、「モノと現場」がまもなく進駐してくる占領軍に支配されたからではないか、とわたしは考える。
 連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の総司令官として日本に来たダクラス・マッカーサーは、米本国ホワイトハウスの「日本との関係は、契約基礎に立つのではなく、無条件降伏に基づくものである。……貴下が直接行動をとる権限を妨げるものではない」、つまり「直接統治してもよい」との指示をやり過ごすようにして「間接統治」にこだわった。天皇制の存続に関してもワシントンには強硬に反対する勢力もあったが、マッカーサーは昭和天皇との会見を行い、「協力関係」を約束した。
 9月17日、濠をはさんで皇居と対面する第一生命ビルに総司令部を置いたGHQは、「軍国主義の解体」と「民主化」を断行する。GHQ民生局は「五大改革(婦人参政権、労働改革、学校教育改革、司法改革、経済改革)」を示す。マッカーサーは「憲法の自由主義的改革」を求め、財閥解体や農地改革、戦争犯罪者の追及などを各部局が実行した。
 占領期に戦後日本の骨格がつくられたのはいうまでもない。GHQ内部のニューディーラーが主導権を握る民生局と、諜報活動を担う参謀第二部(G2)の対立や大統領の椅子に恋々とするマッカーサーとトルーマン大統領の確執、そこに日本政界の権力闘争が絡んで、占領期の日本は複雑に動く。政治のゲームは一色では染められないが、日本政府の方針は「社会民主主義的な改革(45?47年、幣原喜重郎内閣、片山哲内閣)」から「戦争放棄と日米関係強化による経済国家としての再興(48年?第二次吉田茂内閣)」へと大きく振れる。「冷戦」による占領政策の転換が、路線変更の動力源である。
 この経緯自体、波乱にとんだドラマの連続ではあったが、あえて「モノと現場」、地面に近い視点で占領期の日本を眺めてみると別の姿も浮かび上がってくる。
 連合国軍の進駐とは、文字どおり、空間を「占領」することだった。東京進駐に先立って、マッカーサーは「総司令部地域」「飛行場地域」「海軍地域」における建築物の「接収」や車両の調達を要求している。三多摩地区の調布飛行場や軍事施設をまず押さえ、物理的にも軍国主義を砕く。そして将官や士官、兵士、軍属用の宿舎として「帝国ホテル」や「第一ホテル」を接収し、丸の内界隈を「アメリカ租界」のごとく変容させた。
 第一生命ビルが面する「内堀通り」には「Aアヴェニュー」の標識が掲げられ、内外ビルは英連邦軍の司令部、日本郵船ビルは士官宿舎、東京海上ビルは婦人軍属の宿舎、銀行倶楽部は「アメリカン・レッド・クロス・クラブ」へと転用される。
 銀座四丁目交差点は「タイムズ・スクエア」と名づけられ、服部時計店と松屋デパートは「PX」と呼ばれる購買店になった。九段下の偕行社や軍人会館、野々宮アパートも早い段階に接収されている。
 東京に飢えた日本人がうごめく焼け跡・闇市とは別の華やいだ占領地域が形成されていく。
 その間、「民主化」を推進するGHQは、こと日本人の「住」に対しては冷淡だった。450万戸もの住宅が不足し、大勢の人間が壕や橋の下で暮らしていたが、GHQが建築政策を強くプッシュした形跡はない。日本政府の課題として突き放していた。占領は、きれいごとではない。まずは占領軍の住宅確保を最優先したのであった。
 田中角栄は、焼け跡に増殖する粗末なバラックの群れを、じっと見つめている。その視界の端には接収したホテルでくつろぐ占領軍の兵士たちの姿が入ってくる。
 「何か」に火をつけたのは、田中土建の顧問に名を連ねる政治家、大麻唯男だった。内務省の警察官僚から代議士に転身した大麻は、「政界の寝業師」と呼ばれた。戦時中は翼賛体制の推進者で「東條の茶坊主」と揶揄されたが、終戦直後、町田忠治を担いで進歩党を結成していた。45年の12月、大麻は田中を新橋の料亭に呼び出して言った。
 「占領軍の命令で衆議院が解散される。来年1月末に選挙が行われる予定だ(4月に延期)。選挙に間に合うように新党を起こしたが、党首が決まらない。選挙資金が足りない。きみ、いくらか出してくれんか」
 田中は「わかりました」と快諾した。資金的には余裕があったようだ。首尾よく、町田が党首の座に着いた。それから半月後、「こんどの選挙に立候補しないか」と誘われた。気乗りがしない田中は自社の監査役に声をかけるが、断られる。大麻の側近からしきりに立候補を薦められ、とうとう「いくらくらい金が必要ですか」と訊くと、「15万円出して、黙って1か月お神輿に乗っていなさい。きっと当選するよ」との返答。つい色気が出る。衆議院選挙に立つ決心をした。
 選挙のキャッチフレーズをどうするか……。「若き血の叫び」。よしッ、これでいこう。この六文字を刷り込んだポスターを大量に用意した。ところが、その直後、占領軍から「公職追放令」が出て上へ下への大騒ぎとなる。大麻や町田も公職追放され、進歩党からごっそり候補者が抜けた。田中の担ぎ手たちが、それぞれの思惑で勝手に立候補するわ、他の候補者の応援に走るわ、とタガが外れて神輿はひっくり返る。柏崎を中心とする選挙区は、理研の企業城下町だ。田中は理研人脈を頼って選挙を戦った。
 しかし、立候補者37名中11位、得票3万4060票で次点落選。土建業に戻った。
 翌47年4月、ゼネストを機に新憲法下で行われる初の総選挙に田中は再び立った。黙って神輿に乗っているだけではダメだと考え、柏崎と長岡に田中土建の出張所を設けて100人ちかい社員を採用し、「直営」で選挙戦に立ち向かう。
 「私が一年前の選挙のポスターに『若き血の叫び』と印刷していたことを覚えていた子供たちが、『オーイ、若き血の叫びがきたよッ』と叫びながら私の車のあとをつけてきたことでも、じゅうぶんな手ごたえを覚えた」と田中はふり返っている(前掲)
 28歳の若き血は、こう叫んだ。
 「みなさーん。こ、この新潟と群馬の境にある三国峠を切り崩してしまう。そうすれば、日本海の季節風は太平洋側に抜けて、越後に雪は降らなくなる。みんなが大雪に苦しむことはなくなるのであります! ナニ、切り崩した土は日本海に持って行く。埋め立てて佐渡を陸続きにしてしまえばいいのでありますッ」
 「やめれ、やめれ、大ぼら吹くでねぇ」と野次が飛ぶ。どっと演説会場が沸く。
 当選した。月給5円の小僧をしながら夜学通いで製図を覚え、瓦の河岸揚げ、大工の手元、車も引いて「モノと現場」の経営感覚を磨いた田中が、国会の赤じゅうたんを踏んだ。
(次回に続く)

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