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田中角栄を歩く 山岡淳一郎
第1回 「理化学研究所」での原体験
 地下鉄千石駅の階段を上がり、不忍通りを北東に進むと、右手から高層マンションが視界にかぶさってきた。ビル風に顔を押される。
 東京文京区本駒込、緑したたる六義園から指呼の間にマンション二棟、オフィス棟、商業ビルが配された文京グリーンコートが拡がっている。ノーベル物理学賞を受賞した朝永振一郎が「科学者の自由な楽園」と評した「財団法人 理化学研究所(理研)」のなごりは、もうここには見当たらない。ベンチが置かれた一隅に、辛うじて大正時代の完成後間のない1号館と3号館のモノクロ写真を収めたプレートが立っているばかりだ。
 昼下がり、足早にビルへ入ろうとするビジネスマンにふと声をかけてみたくなる。
 「田中角栄さんが、ここで試験管を洗っていたのを知っていますか」
 真偽はともかく、そんな伝説が現在は埼玉県和光市に移転した理研に残されている。田中角栄と「科学者の自由な楽園」。ふたつを想像の糸で結ぼうとすると、ビル風が一層激しく吹きつける。か細い糸を断ち切ろうとするかのように……。

角栄をめぐる三つの謎

 なぜ今、田中角栄の足跡をたどろうとするのか?
 動機は、大きく分けて三つある。
 第一に田中の「日本列島改造」は失敗したといわれて久しいが、手法として未だに国土計画、とりわけ都市建設の根幹を縛り続けている。そのわけを知りたいのだ。
 金権政治の権化、闇将軍と呼ばれた田中は、「賢者は聞き、愚者は語るという言葉がある。今日からは賢者になる。何でも言ってこい」と自派幹部に告げた翌日、1985年2月27日、脳卒中で倒れ、政治生命を絶たれた。
 日本は、その後、バブル経済の膨張と崩壊、「失われた10年」の迷走を経て、小泉内閣の「構造改革」をくぐりぬけ、安倍内閣の「感情政治」に突入。この間、都市を民間活力で大規模開発し、上がった利益を財政的に地方へ配分する列島改造手法は、財政赤字の増大で選択肢が狭まりはしたが、一度も、見直されなかった。
 岐路は、日本のバブル崩壊と冷戦構造の終焉が重なった90年代前半。ここが「地価本位制」ともいえるバブル型開発経済を変えられる転機だった。が、政府はスピードを緩めて方向転換するのではなく、さらに強くアクセルを踏み込んだ。不良債権処理のため建物の容積率を緩和しつづけ、超高層ビルを林立させた。建設資金は外国人投資家を中心とする「ファンド」が握った。投資ファンドは3?5年の短期利益を狙う。都市という大きな器が、株価の上がり、下がりに委ねられてしまったのである。
 じつは列島改造の反動を、最も怖れたのは角栄本人だった。『日本列島改造論』が出版されてまもなく、「早く、地価高騰の火を消せ」と国土計画の立案者に命じている。
 田中の懐刀だった後藤田正晴は、「土地は商品ではない」とのテーゼを官僚たちに与え、猛烈な火消しにかかるが、失敗に終わった。「地価の壁」は、経済的なアキレス腱として残された。もしも国際関係がもつれて外国人投資家がソッポを向いたら日本は沈没しかねない状態だ。この地価頼みの社会がつくられたプロセスを、田中の75年の人生を通して浮かび上がらせたい。

 二つ目の動機は、戦後の焼け野原の地割れから這い上がった田中のようなエネルギーが、政治に反映されなくなった要因を整理したい点にある。政界では二世、三世議員が「わが世の春」を謳歌している。門閥や学閥、財閥に頼らない「成りあがり」は排除されるばかりだ。成りあがりは、社会の活力を測るバロメーターでもある。政治は、伝承芸ではなく、国益をかけた決断の総和。時々刻々と変化する社会情勢に対して固定した層にのみ舵取りが委ねられれば、民主主義という意思決定の流儀は壊されるだろう。
 ところが、メディアも含めて政治の「歌舞伎化」を、そこはかとない羨望のまなざしで見上げる雰囲気が、いつの間にか蔓延した。
 田中角栄の登場まで、同じ劇場政治でも役者の出自は多様だった。
 明治維新以降、権力闘争は「垂直指向」と「水平指向」のぶつかりあいだったと私は解釈している。垂直指向とは、中央政府の権力を上へ、上へと高めて集権体制を強固にしようとする方向性。水平指向とは、富を平らに地方へ再分配する動き、である。古くは明治政府の礎を築いた大久保利通と野に下った西郷隆盛の対立、政界を牛耳る藩閥勢力と政党政治家・原敬の対峙など、垂直と水平のせめぎあいが政治を動かしてきた。そのバランスが崩れ、一億総垂直化した挙句、日本は軍国主義に覆われ、戦争の泥沼にのめり込んだ。
 戦後、日本は平和国家として再出発したが、占領期から復興、高度成長期にかけて「垂直指向」の官僚政治家が権力を握った。軍事力を封じ、経済力による戦いに挑んだ。
 そのなかで、田中は「小学校卒(本当は中央工学校卒)」をキャッチフレーズに出世街道を駆け上がる。「今太閤」の活力源は、紛れもなく水平指向だった。近代化の陰に追いやられた越後人の土俗的な情念をむき出しに、人口の都市集中による過密と過疎を同時解消するには「人、モノ、金の流れ」を地方へ逆傾斜させて導かねばならん。道路や鉄道をどんどん造り、橋を架け、二次産業を地方に植えつけろ、と叫んだ。都市と地方の格差を均す、水平指向こそ「日本列島改造論」のもうひとつの主題だった。
 だが、門閥、学閥、財閥の後ろ盾がない田中は、暴力装置としての金を求心力の要とし、墓穴を掘った。皮肉にも列島改造は、都市集中を再加速させ、現代日本を呪縛する。
 角栄の失脚後、宰相の座が官僚出身者から党人派、世襲政治家へと継承されるにつれ、権力闘争の原動力であった水平指向は葬られていった。大都市はおろか地方の中小都市にまで続々と建てられる超高層ビルは、上へ上へと中心だけ高くすることに熱くなる政治家たちの幼い心象風景がそのまま形になったようだ。
 いったい誰が、地べたに近い水平の展開力を殺し、怪鳥のように舞い、美味しいところだけをついばんできたのか。田中という鏡に、その姿を映し出してみたい。

 第三の動機は、前述した「地価の壁」や「水平指向の衰弱」といった現象の奥へ入りたい欲求である。ひと言でいえば「アメリカの影響」を見極めたいのだ。西欧合理主義だけには染まらない田中角栄という政治家に米国はどんな影響を及ぼしたのか、私なりにまとめようと考えている。
 「角栄は、アメリカに刺された」と口にする人は多い。ロッキード事件の「アメリカ関与説」が政界、財界でまことしやかに語られている。逆に「根拠なし」とアメリカ関与説を一笑に付す言論人も少なくない。「アメリカ陰謀説は、日本人に虚しさを与えるばかりで、対米従属の温床になる」との批判も聞こえてくる。
 現時点で、米国の政府機関が田中追い落としに係わったとする決定的証拠は見つかっていない。物証の欠如は、しかし田中とアメリカの反発の図式をかき消すものでもない。
 若き代議士として「国民に家を」と住宅政策の先陣を切り、GHQと、交渉記録を検閲で真っ黒に塗られるほどやりあって以来、米国に膝を屈するのを潔しとしない心性を田中は育んだと思われる。先輩の官僚宰相が従米一辺倒の外交を展開したのを熟知していながら、田中はアジアに目を向けた。電撃的な「日中国交回復」を実現し、エネルギー資源を求めて東南アジア諸国やオーストラリア、ヨーロッパ、南米にまで足を向けた。
 田中の自主外交路線は、世界のエネルギー供給の元栓を握る米国石油メジャーの憤怒を掻き立てた。ニクソン大統領の補佐官だったキッシンジャーは、第一次石油ショックの直後に来日して「不快感」を表明している。アメリカ政府は田中を「決断する男」と買っていた時期もあったが、結果として米国人の証言がきっかけで田中は刑事被告人に転落した。
 そして、田中を最後にアメリカに異議を唱える総理大臣は現れていない。
 日米同盟は、未来永劫、安泰なのだろうか。田中の軌跡をなぞることは、日米関係の「これから」を考える手がかりになるはずだ。
 以上が、田中角栄の人生をたどり直す理由である。もちろんその金権支配や裏社会とのつながりを擁護するつもりは毛頭ない。ただ、この日本が生んだ多頭の怪物を「功と罪」二分法の物語にはめ込み、簡単に消費してしまうのはもったいない気がしてならないのだ。
 生前の田中角栄は正真正銘の怪物だった。だが鬼籍に入った彼は、鬱蒼と木々が生い茂る「森」のようにも見える。一本一本の木は、権力闘争のさなかに流した血や、壮大な覇気、とてつもない賢さと狡さ、悔し涙……あらゆる養分を吸って歴史の枝を張っている。ささやかな三つの動機を杖に田中角栄という深い森に分け入ってみよう。
 連載第1回、新潟から上京した少年が、建築に活路を見出し、青年実業家へ成長する苗床となった「理化学研究所(理研)」に焦点を絞る。

「殿様はお会いしません」

 昭和9(1934)年3月29日、詰襟服に丸坊主の少年が、東京では稀な大雪を踏みしめながら、小さなトランクを提げて下谷区谷中清水町一番地の大邸宅の門をくぐった。大名屋敷風の豪壮な構えは、もうすぐ15歳の誕生日を迎える田中角栄を威圧した。
 きのう列車で上野に着き、「東京は物騒だから最初はバスや電車を使うな」との母の言いつけどおり、行き先の住所を書いた紙を示してタクシーに乗ったところが、いきなりボッたくられた。知人が紹介してくれた仮宿の土建会社は日本橋本石町にあったのだが、運転手は近くをぐるぐる回り、5円もの大金を吹っかけてきたのだ。腹巻とガマ口に入れた全財産は15円。「文句があるなら交番に行くか」と言われ、泣く泣くタクシー代を払った。
 大恐慌がもたらした失業地獄はまだ続いていた。巷には欠食児童、ルンペン、行き倒れ、売春婦、強盗……山出しの少年は、いいカモにされたのだった。一夜明けて、「先生のお宅に行けば、書生にしてもらえる。上級の学校にも入れてくれる」と、役場の土木係の爺さんの言葉だけを頼りに邸宅を訪れたのであった。
 角栄は、勇をふるって、応対に出た楚々とした女性に来意を告げた。
 「お、大河内正敏先生は、ご、ご在宅でしょうか」
 緊張のあまり、独特の節回しで克服したはずの吃音がつい出てしまう。
 「殿様は、お屋敷ではどなたにもお会いしません」
 鼻面にピシャリと叩きつけるように言われた。呆然としていると、
 「殿様は、午前十時までに本郷上富士前町の理化学研究所へお出かけになります。どうぞそちらの方へ」と女性は言って、障子を音もなく、閉めてしまった。話が通っていなかった。期待が大きかっただけに落胆も激しい。角栄は全身の力が抜けそうになった。
 『田中角栄 私の履歴書』(日本経済新聞)には、そのときの心境がこう綴られている。

私はしまった障子に向かってしばらく立ちつくした。「殿さま」でまず驚き、「本郷はどこ?」「理化学研究所とは?」と質問することばも出ないうちに障子は静かにしかもとりつくしまもなくしまったのである。(中略)二度と開きそうにない障子に私はあきらめをつけて、東京でただ一ヶ所知っている日本橋本石町の仮宿に向かって雪の中をトボトボと帰りながら、「東京とは大変なところだ」とつぶやいた。

 うぶな少年は、大河内邸への住み込みを諦め、仮宿だったはずの井上工業という土建会社の小僧となり、昼間は工事現場で働き、夜、神田中猿楽町の「中央工学校」の土木科に通う生活を始めた。そのまま大河内が所長を務める理化学研究所と縁がなかったら、「コンピューターつきブルドーザー」と呼ばれる庶民派宰相はおそらく誕生しなかっただろう。

 「財団法人 理化学研究所(理研)」は、大正6(1917)年、渋沢栄一ら財界人の後押しで創設された本邦初の自然科学の総合研究所である。本郷と小石川にまたがる1万5千坪の敷地に理研の総本山が置かれた。
 理研は、設立間もなく、資金難と内紛という難題を抱え込んだ。第一次世界大戦後の不景気で寄付金が集まらず、加えて長岡半太郎(初代文化勲章受章者)がトップの物理部と、池田菊苗(グルタミン酸ナトリウム=「味の素」の発明者)率いる化学部が対立。初代の研究所長は就任5か月後に急逝し、二代目も1921年に健康上の理由で辞任。研究所は存廃の危機に直面した。
 ここで第三代所長に選ばれたのが、造兵学者で東京帝大教授の大河内正敏だった。実父は旧上総大多喜藩主で、大河内自身、爵位を持ち、貴族院議員を務めていた。確かに「殿様」であった。42歳で所長となった大河内の組織改革は、水際立っていた。
 「研究所の運営方針は、学術研究と実際とを結合させる方法を講じ、産業の基盤を確立すること」と言明するや、物理部、化学部それぞれが頂点に大御所を戴くピラミッド構造を叩き壊す。研究体制を、14人の主任研究員が平等に研究室を主宰し、テーマや予算、人事の裁量権を握る「主任研究員制度」に一新したのである。長岡や池田ら大先生も横並びの主任研究員になった。タテ割りを嫌い、「自由」を重んじて改革を断行。「基礎研究」と応用技術による「起業」を経営上の両輪とした。大正という時代のリベラリズムが底流にながれている。
 大河内は、「物理の研究者が化学をやってもよし。化学者が物理を研究してもよい」と言い切り、学問の垣根を取り払う。女性の研究員が多いのも理研ならでは、だった。食堂で研究者や雇員が専攻や肩書きを超えて闊達な議論を展開し、大河内が満足そうに見守る。所内のテニスコートからは間断なく打球音が聞こえてくる。そんな風景が日常化した。
 「自由と平等」で組織を活性化した大河内は、そのエネルギーを技術移転による製品開発に向けた。財政難は深刻だ。「理研を食わせる」ためには商売をためらわなかった。鈴木梅太郎門下の研究員・高橋克己がタラの肝油からビタミンAを抽出するのに成功すると、直ちに量産化を命じた。高橋は夜を昼になして研究を重ね、わずか4か月で工業化に成功する。「理研ビタミン」として売り出すと大当たり。大河内は高橋に年額10万円以上の報奨金を与えた。大正末期、総理大臣の年俸が1万2千円ほどだから、10万円は現代の「億」のお金に相当するだろう。成功者には惜しみなく「分け前」を与えた。
 研究所とはいえ閉ざされた「象牙の塔」にはほど遠い。理研は、ビタミン剤や合成酒、アルマイト、陽画感光紙といった「ヒット製品」を次々と世に送り出し、傘下に「理研化学興業(株)」を中心とする事業体を抱え、63社、121工場を擁する一大コンツェルンへと成長していく。事業団の拠点は銀座の美松ビルに置かれた。
 田中が上京した頃、大河内の研究室は、エンジンの性能を高めるピストンリングの工場を柏崎に建てたばかりだった。大河内の「新潟好き」は並外れていた。柏崎周辺には広大な敷地が確保されており、食塩のニガリでマグネシウムをつくる開発や、ロータリーキルンによる銑鉱還元の研究、礬土頁岩ばんどけつがんからのアルミニウム製造が結実しつつあった。資源の少ない日本の弱点を補う研究開発である。
 大河内は、足しげく柏崎に通い、女子工員の栄養不足を知ると、ドイツ留学時代に味わったシチューをまねた臓物スープを大釜で煮て自らふるまった。勤勉でねばり強く、義理堅い越後人を工場の幹部にとりたてた。
 角栄少年が谷中の邸宅を訪れた背景には、こうした事情があったのだが、そこは殿様である。些事にかまってはいられない。書生にする約束などとうに忘れていたものだろう。
 理研は、基礎研究分野でも抜きんでていた。角栄が大雪のなか日本橋へきびすを返したとき、現代物理学の父といわれる仁科芳雄は、のちにノーベル物理学賞を受賞する朝永振一郎に薫陶を授けていた。朝永に先んじてノーベル賞に輝く湯川秀樹も仁科研究室に身を置いている。後年、朝永は理研を「科学者の自由な楽園」とふり返った。

「建築事務所」の看板を掲げる

 土建会社の小僧になった角栄は、理研がそんな大研究所だとは知る由もない。
 「お茶をもってこい」。月島の水産試験場新築工事現場の昼休み、鳶職からそう命じられた角栄は、血相を変えて言い返した。
 「おれはおまえたちの小僧じゃないぞ。おまえたちの元請会社から監督にきているのだ。おまえたちのほうがお茶を汲んで出したらどうだ」
 「なにを! このやろう」。鳶職の一団が立ち上がった。角栄はスコップをぶんぶん振り回しながら身構える。その場は収まった。身長164センチ、体重60キロ。体格は人並みでも、向こう意気は強かった。
 角栄は、井上工業で建築業のイロハを覚えた。夜10時前に授業が終わると「現場別出面(職人の出勤表)」の確認に芝の左官屋の親方、上野の大工の棟梁の家へと自転車を飛ばす。不況下で工事原価はギリギリに見積もられている。職人の手配で寸分の無駄もあってはいけない。早朝から、資材の荷揚げ、タイル目地のモルタル仕上げと現場にへばりついた。住み込みで、1か月、身を粉にして働いて手にした給料は、たったの5円。タクシーの運転手にふんだくられた料金と同額だ。いなかで援農工事のトロッコ押しをしたときは、月15円もらった。3円50銭の授業料を払ったら、手もとにいくらも残らない。
 少年は、大道五目並べで小遣い稼ぎを試みるが、これまた返り討ちにあう。
 土建会社の薄給は、国や自治体が官直営で「失業対策事業」の土木・建設工事を行っていたことの反動でもあった。
 大正末期から政府は、失業者の多い六大都市に限って単年度・新規工事の失業対策事業を実施してきた。当然、職業紹介所に登録された労働者を使わねばならない。土建会社にすれば、指定された人数の未熟練労働者を雇うので、能率が悪く、はじき飛ばされた熟練の職人が失業に追い込まれる。政府方針は「鉛を拾って、金を捨てるやり方」と批判を浴びた。戦後の公共工事が失業対策の雇用調節弁にされるルーツは、ここにある。昭和の大恐慌以後も「時局匡救事業」の名で河川改修、道路建設、農業土木工事が直営で行われていた。角栄クンは、いつの間にか厳しい建築市場のパイの奪い合いのまっただ中に飛び込んでいたのである。

 夏の盛り、三河島の小学校の新築現場で監督から屋根のスレートの並べ方が下手だと怒鳴られ、逆上した角栄は足元のスレートをビシャ、ビシャ踏み割って現場から逃走した。ついでに井上工業も辞めた。以後、「保険評論」なる専門誌の記者、貿易商の下働きと仕事を転々とする。中央工学校には通い続けた。
 転機は、駒込の個人建築事務所に通うようになって訪れた。その建築事務所は、全国に工場を建設していた理化学興業の下請けだったのだ。
 臍を噬んで谷中の邸宅を去って2年半。偶然にも大河内、理研との繋がりができた。縁とは不思議なものだ。18歳で中央工学校を卒業すると、建築事務所に出入りしていた大阪の都島工業出身の中西正光という設計士と親しくなった。田中に限らず、商才に長けた人間は、独特の人物勘を持っている。
 田中は、腕のいい中西が、警視庁建築課の技師に採用されたのを見届けると、神田錦町に「共栄建築事務所」の看板を掲げた。19歳での一本立ちであった。
 警視庁建築課は、一般建築から工場の設置まで許認可権を一手に握っていた。建築行政の元締めである。はしっこい田中は、何がしかの「計算」をしたに違いない。
 銀座の美松ビルで、大河内から「理研関係会社に籍をおかなくともよいから、建設計画について勉強しなさい」と声をかけられた田中は、理研との間に張られた紐を強引にたぐりよせて、のし上がっていく。作家の佐木隆三は田中の人物像を描いた『越山 田中角栄』(現代教養文庫)に次のような新潟の人のコメントを記している。

……残念ながら、角栄先生が図面を引いたのではだれも仕事を任せんぞ。共栄建築事務所の看板を出して、才能を発揮したのはセールスでソ*、どんどん仕事を取ってきては、中西さんみたいなちゃーんと技術を持った設計屋に内職をさせるんだのう。角栄先生が取ってくる仕事は、建築許可をとるための大ざっぱなものとか、納期が切迫して十日かかるものを三日でやるとか、そういうものが多いだすけ。内職の設計屋が徹夜で図面を引く、それを届けるときはかならずダーッと得意先の玄関にタクシーを横づけして、ハッタリをかますでがん、おーっ、若いがけっこうやるわいと注目されて仕事もふえたちゅうこってさ。
 *新潟の方言

 今日では、許認可を与える行政の技官が「内職」で民間の設計図面を作るなど信じられない行為だが、戦前はまかり通っていた。田中自身『私の履歴書』に理研の「るつぼ工場」の設計を請け負い、数百枚に及ぶ設計図面を中西正光の協力で完成させて1600円余の設計料を小切手でもらった話を得々と書いている。小切手を銀座の銀行で現金化した田中は、警視庁から中西を呼び、100円を手渡した。『私の履歴書』ではさらに100円追加して渡したことになっているが、どうもマユツバらしい。中西本人は100円しか受け取っていないと言っている。美談仕立ての脚色が少なくない履歴書である。
 警視庁の技師に内職させるとは、建築、とくにコンクリート建造物の設計士がいかに少なかったかを物語るエピソードであるが、官民の癒着どころか、これでは一心同体。官の強大な権限で建築業界が仕切られていたなかで、若き実業家田中は、親友とはいえ、官の人材を「使う」妙味を知ったのではないだろうか。
 中西の上司で建築課長だった石井桂も田中に大きな影響を及ぼした人物のひとりである。東大工学部建築学科を卒業した石井は、警視庁の建築官僚として働き、戦後、建築界の大御所となる。彼は、GHQ(連合国総司令部)が東京に進駐するに当たり、マッカーサー元帥から「最も安全な場所はどこか」と聞かれ、「皇居の濠に面した第一生命ビル。鉄筋量も一番多くて安全です」と答えたという。進言のままGHQの本部は第一生命ビルに置かれた。石井は、東京都建築局長を経て、参議院議員2期、衆議院議員を1期務めるが、周囲に「田中角栄にコンクリートを打つとき、気泡や水塊をなくして緊密にするために青竹で突っつくのを教えたのはオレだよ」としばしば語っている。
 政界に転じる田中が、まっさきに建築政策に突っ込む下地が戦前から戦中にかけてつくられていたのは間違いない。とかく第二次大戦の敗戦を境に日本はガラリと変わったととらえられがちだが、官僚はそっくり残されている。戦前から連綿と続く官僚の系がある。1945年8月15日以降の日本は、簡単に「戦後レジーム」とひとくくりにできるほど、単純ではない。未だに建築界に官尊民卑が根強いのは、その根底に戦前から戦中を支配した「垂直指向」が温存されているからではないか。

 さて、話を理研と田中の関係に戻そう。
 田中は昭和12?13年にかけ、理研から水槽鉄塔の設計を皮切りにガーネット工場、るつぼ工場、那須のアルミ工場、ロータリーキルンの設計を請け負い、さらには大河内の特命で群馬県沼田のコランダム工場の買収も手がけている。大河内は、田中の頭の回転の速さと行動力を見込んだ。20歳になるかどうかの若者に大役を任せた。
 一方、殿様らしい専制的な性格が頭をもたげると、気に食わない社員の首をバッサリ切った。わずかな金のために国に縛られるのは嫌だ、と昭和13年には政府の補助金を断っている。大河内の財閥嫌いは有名だった。満州に勢力を張った商工省の官僚・岸信介とは激しく対立した。束縛されるのを徹底的に忌避したようだ。
 大河内は「農村の機械工業化」に心血を注いだ。その論理を、こう語る。

産業革命は手織機のような副業をいっさい奪い、農家を窮乏におとしいれたが、さいわい資本主義経済は農業そのものには一指も染めることはできなかった。これは尊い農業精神の賜物である。しかし、農業という原始生産だけが残されたことによって、農閑期には仕事がない。彼らにはパンを与えるより仕事を与えるべきである。
 彼らの勤勉性を農村機械工業にふりむけよ、である。そのためには生まれてから機械を見たことのない人々でも使いこなせる単純機械が向いている。
(宮田親平『「科学者の楽園」をつくった男』日経ビジネス文庫)

 田中は大河内の側近とともに「農村の機械工業化」を仕掛けるべく、小千谷、宮内、柏崎、姉崎と新潟県下の工場立地を歩き回った。柏崎では、雪の日も工場へ出勤する工員たちの姿を眺め、「出稼ぎ」から解放されるありがたさを実感した。不況で東北や北信越の村々には、間引きや一家心中の悲哀が立ち込めていたが、柏崎は「理研通り」と呼ばれる道路まで通じ、華やぎに満ちていた。長く近代化の陰に押しやられてきた越後の人々にとって、柏崎の理研工場群は、画期的な成功譚であった。
 「工場をつくれば、みんなが食える」
 大河内の「農村の機械工業化」は、若い田中に強烈なインパクトを与えただろう。
 「日本列島改造論」に連なる原体験は、ここにあったと私は思う。
(次回に続く)

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