1991年5月9日(木)
うだうだと午後まで寝ていた。
ただでさえ疲れているのが、なおのこと疲れる感じ。
戸棚の中に、三週間ほど賞味期限の過ぎたカップ麺があったので、お湯を沸かして食べた。
そういえば、朝ちょっと起きて、缶入りの乾パンも食べたっけ。氷砂糖は齧らなかったけれども。
乾パンもカップ麺も、非常食のつもりで買い置きしておいた物だ──空腹とは、のどかな非常事態のことである。
飲まずに残したカップ麺の汁を排水孔に捨てながら、未来になると役に立つことを何かできないものか──と考えてみる。
それは、今からコツコツつづけてゆくと、いずれ大きな成果が期待できる種類のもの──例えば愚公山を移すとかダイエットとか五百円玉貯金とか生命保険──ではない。
それはまた、未来予測や予言でもない。
予測や予言の成功で何かを誇示できるとは思わないし、そもそも私にはその能力が具わっていない。そのことは、日常的にくり返し明らかになっている──「げ、やっぱあっちだったよ」とか「あああ、こっちにしておけばよかった」などとしょっちゅう思わされている。
あるいは私は、まだずいぶん幼かったころ、家の近くの信号のないT字路で、歩道の段差に腰かけて自動車を眺めながら、
──あれは右へ曲がる。
──これは左へ曲がる。
と自慢げに“予言”していた。
むろん、ウィンカーを見て左右を判断していたのである。幼かった私は、ウィンカーの点滅と自動車の曲がる方向との連関を発見したと思っていた。そして、自分以外は誰も気付いていないのだと思っていた。
だが時おり、横着してウィンカーを出さずに曲がってゆく車もあった。そういうとき私は、何も言わずに沈黙していた。
“未来予測”や“予言”という言葉は私に、このT字路のことを思い起こさせる。
……ついでに、真っ直ぐ自分に向かってくる自動車の正面顔も。
いわゆる“伏線”は、ほんのちょっとだけ似ている。
けれども、現実の中に伏線を張れるほど私は謀略に長けていないし、現実を小説のように推敲することはできない。
謀略に長けている人物というのはおそらく、自分は笑わずに笑い話を聞かせることができるのだろうと思う。みんなを笑わせる前に自分がプッと噴き出していたら、謀略にも伏線にもならない。
さて、それでは、買い置きしておいた乾パンと、賞味期限の切れてしまったカップ麺は、どうだ? いずれももう私が食べてしまったけれども。
カップ麺はたいへん簡便だが、正直に言えば、さほど好きではない。三週間ではなく、あともうちょっとだけ賞味期限を過ぎていれば、きっと食べずに処分しただろうし、そもそも戸棚の中に入っていなければ、億劫でも何かこさえて食べたかもしれない。
それなら、カップ麺など買っておかなければよかった、と言うこともできる。
とはいえもちろん、お腹が空いたときに食べるかもしれないから、と内心でつぶやきつつ、安売りしていたカップ麺をスーパーのカゴに入れたのは、私自身である。
しかしよくよく考えてみると、カップ麺というのは、非常食として保存するには、いくぶん賞味期限の到来が早いようである。
乾パンに関しては、非理を承知で言うのであれば、災害が起こる日まで、私の目をかいくぐって暗がりに潜伏しつづけ、賞味期限ごとに新しい物と代替わりしてもらい、私は最初に買ったきり、災害が起こる日まで、乾パンがあることなど失念しつづけている、というのが望ましい。
私の知らないところに隠し、私の知らない私がまめに買い替えればいいのだろうが、なかなかそれができない。ちょっと腹が減ったな、何かなかったかな、とゴソゴソ探しただけで見つけてしまう。
未来になると役に立つこと──というのはつまり、“カップ麺”を買わずにおくことや、私ならぬ私が“乾パン”を買い替えて匿いつづけること、なのだろうか?……これはいくぶん、“予測”なり“保険”なりの色合いを帯びているようだけれども。
あるいはもしかすると、まるっきり別のことなのかもしれない。
それは、今現在、有用でもなければ無用でもなく、有益でもなければ害悪でもなく、無駄でもなければ無意味でさえなく、意図的でもなければ無意識的でもない、というような、ワケのわからないものかもしれない。別の言い方をすれば、偶然性と必然性とから等距離にあるもの、かもしれない。
ところで……西瓜子は沈黙したままだ。
最後のあの時、西瓜子は泣きながら何と言ったのか。私にはうまく聞き取れなかった。西瓜子のやつが泣きながら何か言ったりするから伝わらないのか、泣きながらしか言えないことを聞き取れないような私の耳なのか。
アルバイトがつづいているせいで私は疲れている。たまに休みの日があると、こうして
二十二歳の男の部屋というのはこんなに汚い──というセンテンスが、今の私を最も苛立たせる。つまり、誰かが私の部屋を指差して、二十二歳の男の部屋ってこんなに汚いんだねぇ!──と言いさえすれば、やすやすと私を逆上させられる、ということだ。
なので、誰にも言われないうちに自分で言ってみる──二十二歳の……。やはり逆上した。
日暮れになるとスーパーマーケットへ行き、カレーの材料を買って戻ってきた(ついでに乾パンを買い、カップ麺は買わなかった)。
カレーというのは、作るたびに違う物ができる。カレーではあることに違いはないが、前に食べたのとはあまり似ていない。
ところで、カレーといえばインドだ。牛を神聖視するインド人にとってビーフカレーは如何なる物に思えるのだ? “ゼロ”も
夜中──三時になる五分前──電話が鳴った。二度ベルが鳴っただけで切れてしまったので、受話器を取ることはできなかった。取れなかった電話というのは、いたずら電話よりも後味が悪い。
西瓜子がかけてきたのかもしれない、と思ういっぽうで、決して西瓜子ではなかった、とも思う。
次回更新予定日 10月11日
