Web草思
文学的なジャーナル Journal Imagined 岡崎祥久
第11回
2001年1月24日(水)

 先に朝食をたいらげてしまい、ふと席を立って窓から外を眺めていると、食べているマダムを残して席を立つなんて失礼よ、と西瓜子に言われてしまった。「ウイ、マダム」と言って私は席に戻った。
 プラハは曇っている。昨日までいたパリでも曇りばかりだった。しかし曇天の日は色彩が美しく見える。だから絵描きはたいてい曇り空を好む──日射病にもなりにくい。
 〈インターホテル・アンバサダー・ズラター・フサ〉の大食堂は華やかで広く、しかも静かで明るい雰囲気を漂わせていた。朝食はいわゆるバイキング形式だが、なかなか豪勢で、昨日までのホテルより料理の種類も豊富である(そういえばあそこでは、ゆで玉子がなくなった後、とうとうフルーツも姿を消したっけ)。オムレツはその場でコック帽の係が好みに応じて焼いてくれる。保温でなく温かいのが素晴らしい──あたりまえと言えばあたりまえのことなんだけれども。
 食堂から部屋に戻るとしばらくのんびりと過ごし、10時半過ぎになって表へ出た。ホテルの近辺を散策し、本屋を二軒ほど覗いてから、〈コメルツニー・バンカ〉へ行って両替えをした。空港よりもレートがよく手数料も少なくて済む。昨夕は到着してすぐに空港で、とりあえず必要になりそうな額だけ替えておいたのである。紙幣は分けて持った方がいいと西瓜子が言うので千コルナ札だけ別にした。
 ぶらぶらと歩くうちにもう腹が減ってきたので、通りがかりの店に入って昼食にした。〈SCORPIO〉という店だが、何も考えずに入ったわりにはまずまずであった──チーズのフライというのがあれほど巨大だったのは予想外だったけれども。食事を済ませて会計しようとしたら、カウンターの中にいた男が急に「ワカリマスカ?」と言った。どうやら日本語のつもりらしい。日本語がわかるのかと尋ねてみると「ワカラナイ」と言う。変なふうに会話が成り立ってるぞと教えると「アリガトゴザイマス」と言って笑った。……からかわれたのかもしれない。
 西瓜子はプラハで帽子とマフラーを買うつもりでいた(ふさふさとしたロシア帽に似た物を思い描いていたらしい)。そこで二つあるショッピングセンター〈KRONE〉と〈KORNA〉に行ってみたが、うまく買い物をすることはできなかった。買い物の仕方がよくわからないというより、向こうであまり売りたがっていないかのようであった。二つのショッピングセンターは名前のみならず、ひっそりとした雰囲気もよく似ていた。
 帽子とマフラーはあきらめるとしても、歯ブラシだけはどうにかして買っておきたかった──ホテルの部屋にはシャンプーも石鹸も綿棒もパフもバブルソープも備わっているが、なぜか歯ブラシはないのである。少し歩いたところにある〈TESCO〉というスーパーマーケットに行ってみると、思っていたよりもたくさんの種類の歯ブラシがあった──というか、なぜなのかまったくわからないほどたくさんの歯ブラシがあった
 スーパーを出るとまたしばらくぶらぶら歩き、本屋の店先でポストカードを買ってから〈ムハ美術館〉へ行った。入場券を買って千コルナ札をくずそうと思ったのだが受け取りを拒否され、小額紙幣をあらいざらい持ってゆかれた。もっと小さいのを出してと強いられて怯んだのがマズかったか。悪いがこれしかないんだと言い張ればよかったのかもしれない。ムハの絵は、以前はわりと気に入ってたが、今はもうそれほどではなくなっていた。まるでそれをわざわざここで確かめたかのようであった。……大きな紙幣をくずせなかったから恨んでいるわけではもちろんない。そういえばミュシャは、いつの間にムハになったのだろう。
 美術館を出ると、なぜか西瓜子がひどく陰鬱な顔をしている。チケット売りの女に使い勝手のいい小額紙幣を持ってゆかれてブツブツこぼしている私のことを不甲斐ないと思って寄る辺ない気持ちになったのかもしれないが、旅の相棒としてはあまり気持ちのいいものではない。しかし私もパリでは足を傷めて行動を制限させてしまったのだから偉そうなことは言えない。それで、ドウシマシタカ、マダム? と用心しながら訊くと、眠くて機嫌が悪いとのことだった。機嫌よりも目つきの方がよほど悪そうに見えたけれども、それは言わずにおいた。
 ヴァーツラフ広場まで戻ってくると西瓜子を先にホテルへ帰した──ホテルは広場に面して建っているし、この辺りはあまり治安も悪くない(とのことである)。一人になると私は〈ACADEMIA〉という書店へ行き、あちこち棚を見て回ってから「英チェコ・チェコ英」の辞書を買った。美しい赤毛の女店員と目が合った──が、だからといって何かが始まるわけではない。「石炭をば早や積み果てつ……」どころか「夢想をば早や摘み果てつ……」といった有り様である。ついで〈KANZELS BERGER〉という本屋でチェコ語の『冗談』を買った。チェコ語は読めないが、これはまあオミヤゲみたいなものである。この辺りには本屋が何軒もあるので助かる──これで千コルナ札を2枚くずせた。後の本屋ではレジ係が何やら文句を垂れていたが、何を言っているのかわからないので気にしないことにした。それにしても、言葉もわからないのに本屋で長居できるのだから不思議だ。
 ホテルに戻って部屋のドアをノックしたが返事はなかった。私は拳を上げて再びドアを、今度はぶっ叩こうとしたが、西瓜子が眠りたがっていたことを辛うじて思い出し、念のために持って出ていたもう1枚のカードキイでドアを開けた。西瓜子はクイーンサイズのベッドの上ですやすやと眠っていた。パリでもプラハでも、われわれは東京より広々と寝られる。
 西瓜子が目を覚ます前に、今夜の食事をどうするか決めておいた方がよさそうだ。昨夜、プラハへ来て初めての晩の食事はとてもよかった。〈V Krakovske〉という小さな料理店だったが、初めて食べるチェコ料理を素晴らしく美味いと感じることができた。クネドリーク(茹でパン)、ザワークラウト、ヴェプショヴァー・ペチェニェ(塩味の効いたローストポーク)、それにピボ(ビール)。私も西瓜子も、食事をしながらとてもくつろいでいた。夕食代は二人分で230コルナだった。店からの帰り道、歩道が氷の粒でシャリシャリしていたが、これは雪がいったん溶けて凍ったものらしい。こういう状態がいちばん危ないんだから、と雪に親しんで育った西瓜子はとても嬉しそうに言った。
 眠りつづける西瓜子の傍らで私は、ガイドブックをパラパラとめくった。何を食べたいかといえば、今夜もまたチェコ料理が食べたい。
 日本から持ってきたガイドブックは青と黒の2冊だが、どうやら青いのは私とはあまり相性が良くないらしい。たとえば、パリ--プラハ間は2時間45分と書いてあるが、実際の飛行時間は1時間ほどであった。機長のアナウンスでも1時間10分と言っていた。これはまあ、短く済んだのだからよしとしておこう(機内で出された軽食のサーモンも大変おいしかったしね。いいぞエール・フランス)。入国審査を終えてゲートを出た後、二つある両替所の選択に迷ったのはおそらく私の責任だが、空港出口がわかりにくかったのは、前もってガイドブック掲載の見取図をよく見ておいたからだろう。とはいえこれもまあ、いわゆる“現況優先”というやつである。いくら文句を言っても、実際に出口のあるところからしか外へは出られない。その上“ミニバスのチケット売場”などというものがどこにもなくても、客待ちをしているミニバス(というよりミニバン)の運転手たちに声をかけて、じかに運賃を支払えばそれで済む。共和国広場まででいいと言っているのに、せっかくだからホテルの前まで行くよ、本当は一人200コルナだけど二人で360コルナに負けるよ、どこのホテルに泊まるの? と運転手が粘るのでしょうがなくホテルの名を告げると、いいホテルだね、と白い息を吐きながら言う。広場で降りる方が安いとガイドブックには書いてあるわけだが、すっかり日が落ちて辺りは暗く、市街地は遠く、もう到着便がないとでもいうのか幾人かの運転手たちが客も乗せずに車を出し始める。下手をすると360コルナが格安だったと思える羽目に陥るかもしれない。なのでわれわれは両替したばかりのコルナ紙幣で運賃を支払って車に乗り込んだが、乗り合いだからね、と言って運転手は、もうどこにも客がいないとわかるまで車を出そうとしなかった。雪景色の中を思っていたよりも長々と車に揺られて到着したホテルは、たしかにいいホテルだった。こんな真冬じゃなかったら、われわれは泊まりにくかったかもしれない。荷物を運んでくれたポーターはゴーレムのような大男だった。チップを渡しながらチェコ語で“ありがとう”をどう言えばいいのか教わった。
 さて、すっかり日暮れになってから西瓜子が目を覚ますと、青いガイドブックに載っていたレストランへ食事をしに行くことにした。日本語のメニューがあると書いてある。通りで地図を広げるのを西瓜子が嫌がるので、道筋を覚えて本は部屋に置いていった。この青いガイドブックの最も困る点は、手がいつの間にか青く汚れてしまうことである。これは、旅先で何か病気に罹ったんじゃないかと思って一瞬ながら愕然とする。
 夜の街を、訳知り顔のフリをして歩いてゆくと、地下にある料理店には迷わず辿り着くことができた。たしかにメニューには日本語が添えられているが、だからどうということもない。料理の値段がやや高いので、たぶん量が多いのだろうと思って問い質してみると、身長が180センチぐらいありそうな若いウェイトレスの女の子は、オーケーオーケー食べられると笑いながら言った──が、運ばれてきた二人分の料理は、優に四人分はあった。とてもじゃないが食べきれない。ビールもでかすぎる。値段と量を半分にしてもらいたいものだ。コートを預けたクロークも有料、チャージ料もあり、調味料まで有料、さらにチップを置いてきたら全部で600コルナになった。なんだか割高感だけが残った。
 ホテルの部屋に戻ると、昼寝をしていない私はものすごく眠かった。ビールの酔いも回ってきている。風呂に入れとか歯磨きをしろと指図する西瓜子の声は遠くからしか聞こえない。赤毛の書店員はどんな声音をしているのだろう? ヨーロッパに来てからこっち、靴を履いてる時間が長過ぎて足が大きくなってるなぁ、などと思いながら私はずるずると眠りに落ち込んでいった。

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