Web草思
文学的なジャーナル Journal Imagined 岡崎祥久
第10回
1999年3月29日(月)

 今日から西瓜子は〈調布パルコ〉内の洋服店で働き始める──のだが、初日から大いに遅刻した。われわれが寝過ごしたのは目覚まし時計が止まっていたからだった。運悪く電池が切れたのかと思ったらそうではなく、叩いたら動き始めた。「呪われてるね」と西瓜子は言った。
 目覚まし時計は早朝6時25分に鳴るように仕掛けておいたが、昨夜われわれがベッドに入ったのは明け方の4時だった。つまり睡眠時間が2時間25分しかないことを覚悟の上で眠ったのである。にもかかわらずわれわれは、たっぷりと睡眠を取った後の爽快な気分でムクリと起き上がった。穏やかな心持ちのまま私は、早朝にしてはずいぶん明るくさわやかな日差しなんだな──と思っていた。目覚まし時計は6時のちょっと手前を指していた。
 「でも初日の遅刻なんて、いい暗示かもしれないわ」何がどういい暗示なんだ? と私が尋ねると西瓜子は「大物の印よ!」と言い、風のように身支度を済ませて自転車で飛び出して行った。
 ゴーゴーすいかちゃん!
 私は西瓜子を見送り、空を見上げた。今日はまずまずいい天気だ。
 先週の金曜に面接を受けた古本屋〈セザム〉からの連絡はない。採用であれば電話がかかってくるはずの“午前中”は、あっという間に過ぎ去った。しかしあれは“面接”と呼べるのかどうか──店主は中年の女性だったが、私がレジへ行き面接に来た旨を告げると、別室に通すでもなくその場で立ったまま話を始めた。時おりお客が本を買ってゆく。いくらか立ち話をすると女店主は、もし採用なら月曜の午前中に電話します、とだけ言った。“面接”はそれでおしまいだった。
 採用電話を待っているうちに腹が減ったので、食パンにバターを塗り、ハム、胡瓜、スクランブルエッグを挟んで食べた。コーヒーも沸かした。パンを食べてしまうとコンピュータを起動した。先週からずっと書き物をする時間が取れなかった。火曜から木曜にかけては大学の用事で福岡から出てきた百瀬くんがついでにうちにも泊まってゆき、帰りの飛行機に乗り遅れた。その間には編集者との打ち合わせもあった。金曜は古本屋の面接の後で西瓜子の“身辺整理”があり、土曜は町田まで行って実家の模様替えを手伝い、昨日の日曜日は、本郷に新しく開校するネットワークエンジニア養成学校の説明会に参加した。……これが2年前に文学新人賞をもらった男の暮らしなのかと思うとため息が出る。
 説明会には思っていたよりも大勢の参加者が集まっており、校長の吉田さんという人も、学校説明を通してみんなに熱っぽく語りかけていた──文化人シャツみたいな服装はいささか胡散臭そうに見えたけれども。
 話はこんなふうだった──これまでスタンドアローンで使っていてもさして不便のなかったパソコンだが、これからは自然と繋がり合うようになってゆく。繋がり合いはコンピュータにとって必然的なことであり、今後は逆に、パソコンが複数あるところには必ず“ネットワーク”があると考えるべきである。こうしたネットワークを管理できる人間の数が絶対的に不足している。現状では会社内のパソコンに詳しい人間が管理者を兼ねているが、この兼任もそろそろ限界にさしかかりつつある。彼らは自分の仕事としてそれを引き受けたいわけではないし、会社も彼らには別の仕事をさせたいと考えている。ネットワーク専任の管理者が求められ始めている──つまり潜在的な需要が顕在化しようとしているのであり、これはまぎれもなくチャンスである。さらにこの顕在化は長期的な需要の始まりであり、いずれネットワークエンジニアリングは、会社というものにとっては経理と同じぐらい不可欠なものになる。だから今すぐに、類例のないこの学校でスキルを身に付け始めよう、早く始めた分だけ他人より有利になれる──というのがまあ、説明会の大まかな内容であった。あとは人並み以上の給料がもらえる、とも言っていた。
 私は給料のもらえる仕事に就けるようになれるかもしれないと考えて説明会に参加したのだが、うちにあるコンピュータは書き物用のが1台きりであり、未だにインターネットに接続した経験すら持ち合わせていない。しかも私は、コンピュータに向かわねばならない時間はできるだけ短い方がよい、と考えている。だからもしかすると、50万円の授業料を払ってネットワークエンジニアリングのスキルを身に付けるよりも、経理や簿記の勉強をした方がいいのかもしれない。そろばん検定は2級止まりだけれども……。
 給料のもらえる仕事──というものについて考えを巡らせていると、不意に玄関のドアが解錠される音が聞こえた。身動きできないままでいると、室内に入ってきたのは西瓜子であった──どうやら昼休みに戻ってきたらしい。ついさっき出かけたばかりなのに(という気がした)。西瓜子が惣菜パンを買ってきたので二人で食べた。コーヒーも沸かした。
 古本屋から電話がなかったことを告げると西瓜子は残念がった──歩いて行けるところにある古本屋で軽く仕事をするのは、この先われわれの暮らしにとって好都合なことになるはずだったからだ。古本屋がダメなら図書館だな、と私が言うと、それがいいと西瓜子は言った。西瓜子は私が本に関係する仕事をすることを望んでいる。けれども私は図書館司書の資格を持っていない。大学の時うっかり取得しそびれたのだ。今から聴講して取ると20万円ぐらいかかる。だが資格があっても図書館で雇ってくれるとはかぎらない。
 われわれがせっせとパンを食べるテーブルの上には、西瓜子が無造作に置いた鍵があった──キーホルダーには西瓜子の部屋の鍵と私の部屋の合い鍵とが付けられている。合い鍵は、私が昨日の昼過ぎに手渡したばかりのものだ。だから私以外の人間がこの部屋のドアを解錠したのは、つい先ほどが初めてである。そして昨晩寝入るのが遅かったのは、夜中に西瓜子の荷物を私の部屋まで運んでいたからだ──夜中といってもまあ、荷物を運び入れた後でもまだ宅配ピザを届けてもらえるような時間帯ではあったけれども。
 「ねえ、あたし明日お休みになったよ」半分に切ったチョココルネを頬張りながら西瓜子が言った。「どこか行く?」
 「初日から遅刻してもうクビか?」
 「そういうんじゃないもの」
 「そっか。じゃあ高尾山にでも行くか」
 「なんで? どうして高尾山なの?」
 「いや、べつに。なんとなくだよ。京王線だけで行けるし」
 「それだけ?」
 「高尾山のムササビは、闇夜にグルルルという声を響かせるんだそうだ」
 「あたしの中ではね、高尾山はオカザキくんがあたしに結婚しようって言うための場所だったんだけど……」
 「結婚するのはもうこの前決めちゃったな」
 「うん。あたしもうちゃんとしたからお嫁にもらってくれる? って訊いたら、オカザキくんがウンって言ったから」
 「そうだっけか?」
 「そうだよ。やめる?」
 「いや、やめなくていい」
 パンを食べ終え、コーヒーを飲んでしまうと西瓜子は、今日は早番だから17時に上がる、と言い残して仕事に戻っていった。私は皿とパンナイフとカップを洗い、シーツを洗濯して干した。洗濯機が回っている間は本を読み、洗い上がったのを干してしまってから書き物をした──この書き物だけで暮らしが成り立てばそれでいいのかもしれないが、別種の仕事を持つというのも、それはそれで魅力的なことに思える。
 やがて17時になると、私は書き物を終えて部屋を出た。歩いて十数分の〈パルコ〉まで行き、西瓜子が出てくるのを正面入口で待った。春の寒い風が吹いていた。次の時は〈PBC〉で落ち合うようにした方がよさそうだ、と考えていると西瓜子がやってきた。通りを渡るとわれわれは、買い物をしに〈西友〉へ行った。
 エスカレーターのところに白い上っ張りを着た〈セゾンカード〉の勧誘員が立っているのを見て、ねえ、あれ作ってみようよ、と西瓜子が言った。クレジットカードはダメだ、おれはきっと審査に通らんよ、と私が言うと、でも試したことないんでしょ? と言って西瓜子は私の手を引いた。書類に必要事項を記入する西瓜子は楽しそうだった。だがふと見ると、暗証番号の欄に記入例の“1234”をそのまま書き込んでいる。そこは自分で数字を入れるんだぞと口出しすると、「だからこれでいいの、いつもこうだもん」と西瓜子は小声で言うのだった。私は唖然とするあまり手が止まってしまったが、西瓜子は私が唖然としたことに動転したらしい──虚ろな声で「そういうのもみんな好きでいてくれてるんだと思ってた」と呟いた。申込書を出してしまうといったん外に出て〈ミスタードーナツ〉で一休みした。西瓜子が落ち着くのを待って〈西友〉に戻ると、地階の食料品売場で買い物をして部屋に戻った。夕飯には西瓜子がピーマンの肉詰めをこしらえた。
 「で、明日の休みはどうする?」
 「あっちの部屋の家賃を振り込まなくちゃ。そのあと新宿に行こうよ。いろいろ買いたい物があるから」
 「じゃあ高尾山はまた今度っつうことで」
 「別にもう行かなくていい」
 「…………」
 洗い物を済ませるとわれわれは早々と眠った。今夜はとても短い夜だった。

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