2001年1月22日(月)
暗い朝の5時過ぎに目を覚ました。ここがどこなのかはわかっている。今もまだ足が痛い。たったの左足の、そのまた一部分の痛みが大きく事をダメにする。
しかしなぜ傷めたのかがわからない。慣れない石畳の道を歩きすぎたのかもしれないが、こんなにいつまでも痛いのだから、これはもう、骨が折れているとしか考えられない。病院へ行かなくちゃ。放っておいて治癒するはずがない。でもまだ暗い。もうちょっとちゃんと朝になったら行こう──朝になってもまだ痛みが消えていなかったらちゃんと電話をかけよう。すべては朝になってみてからだ。もしかすると痛くなくなっているかもしれない。
ベッドの上に座ったまま、何もない薄暗いところを見つめていた私の傍らで西瓜子が目を覚ました。無言のままゆっくりとベッドを降りると西瓜子はゆっくりと着衣を始めた。
7時半を過ぎると部屋を出て朝食を食べに行った。これまでより早い時間なので、何か新しい食べ物にありつけるかもしれないと思ったが、そんな物はなかったばかりか、逆にゆで玉子がまだ出ていなかった。昨日の褐色のルームメイクの女の子が「ボンジュール・マダム」と西瓜子に挨拶した。
部屋に戻ると外線発信の方法をフロントに確認してから保険会社のアシスタンスセンターに電話をかけた。すると日本語を外国語として話すらしい女声が応答した。その声音の不思議な新鮮さがおもしろいせいで、窮状を訴えるよりもむしろ、会話自体の感触に気を取られそうだった。いったいこの人はどんな経緯で日本語を習得しおおせたのだろう? ふと気が付くと、私の日本語の方がいくぶんぎこちなくなっており、すみませんもう一度おねがいします、と訊き直されてしまった。私は元々、あまり流暢な日本語を操ることができない。日本人でも私の言うことがよくわからなくなってしまう人は日常的にいる。
受付開始の9時半まで待ってから、指定されたアメリカン・ホスピタルの日本セクションに電話をかけた。かなり長いこと話し中がつづいた。怪我の日本人がそんなにたくさんパリにはいるのかと思ったが、ようやくのことで通じ、診察の予約を入れた。日本セクションの応答も日本語を外国語として話すらしい女の人であった──日本人ではなかったのだと思う。日本人と話しているような感受はなかった。私よりも実用的な日本語を話しそうな印象はあったけれども。
電話で話す私のことを西瓜子は、時おり動作を止めてジッと見ていた。西瓜子には、私の日本語しか聞こえない。
身じたくを調えるとわれわれは部屋を出た。左足の踵を踏むと痛いので、爪先でひょこりひょこりと歩いた。2階にはエレベータの乗り口がない。下まで階段だ。どうして1階が地上ではないのか──足を傷めて以来の軽い苛立ちをまたしても覚えた。
メトロの1番線に乗ってポルト・マイヨーまで行き、82番線のバスに乗り換えた。最後のカルネを使った。日差しは明るく、のどかな遠出をしているかのような気分だった。西瓜子も憂い顔をしているわけではない。前の空き座席の背に頬をのせ、ぼんやりと窓の外を見ている。ふと、われわれはこのように旅しているのだ、と思えた。しかし西瓜子にこれを言えば、そんなの勝手にそう思ってるだけ、と言われかねないのだろう。だからここの部分は私だけの旅だ。
アメリカン・ホスピタルは、郊外の大きな病院だった。われわれは正面入口へは向かわずに、ひょこりひょこりと救急受付へ行った──救急へ行った方が扱いが早い、とアシスタンスセンターの女性から教わっていたからだった。保険料を支払った分だけ内輪扱いしてもらえるというわけだ。救急受付にいたのもまた女の人だった。問診票を渡されたので記入すると、しばらく待つように言われた。やがて呼ばれて中に入ると、血圧と体温を測り、また待つように言われた。再び呼ばれると今度は奥の診察室に通されたが、そこには誰もおらず、ちょっと待っててね、と言い残して看護婦はどこかへ行ってしまった。
やがて現われた老医師は、なんだかカート・ヴォネガットに似ていた。私が左足を指差しながら痛みについて説明すると、レントゲン写真を撮ってまたここに戻ってくるようにと言った。レントゲン室はこの上の1階にあるから、エレベータに乗って降りて、表示をよく見て間違えないように辿り着くこと! 鼻眼鏡の老医師はいくらか愉快そうに指図した。ここでもまた地上に1階はない。救急の待合室に西瓜子を残したまま、私はカルテを手にして一人でエレベータに乗った。
レントゲン写真を撮ること自体は、これまでに何度も経験していることなので、撮影技師が何を言っているのかわからなくても、指示通りに動くのは難しいことではない。たまに「ウィ」とか「メルシー」を差し挟んでおけば、最後には「トレビアン!」と言ってもらえる。
撮影が済んだ後も私は1階で待たなければならなかった。ここの方が下よりも暖かい。ふと西瓜子のことを思ったが、それよりも、まだ治療も受けていないのに足の痛みが和らいでいるらしいのが気がかりだった。まるで裏切られそうになっているかのようだ。
ようやくのことで名前を呼ばれたが、カルテといっしょに渡されたのは大判のレントゲン写真であった──どうやら撮った写真を現像するあいだ待たされていたらしい。救急受付に提出するようにと言われたが、自分で写真を運搬するのだとは思っていなかった。下に戻ってみると、ちょっとお腹が減ったの、と照れ臭そうに西瓜子はカロリーメイトを齧っていた。持ってきていたのか。
待合室で待っていると、ヴォネガット医師が戸口から顔を覗かせて私のことをじかに手招きした。診察室に入ると、骨には異状がないとのことであった。プラスチック製の簡易ギプスのような器具を左足首に装着してもらった。マジックテープで固定するようになっており、そのまま靴を履けるし、付け外しも簡単。これを1週間つけておくように、とのことであった。それだけ? そう、それだけ。あとは飲み薬を4日分。旅行中なのだがつづけても平気ですか? 問題ない! いい旅を! そしてレントゲン写真を紙封筒に戻して私に持たせるので、今度はこれをどこへ? と尋ねると、あなたの写真なんだからあなたが持って帰りなさい、記念撮影をしたんだよ! とにこやかに言った。
器具を装着して歩くと痛みはまるで感じられなかった。ほら! 歩けるぞ! と言って私は西瓜子のところへ戻った。西瓜子は微笑みながら、ほんとに痛かったの? と言った。
腹が減ったので病院内で軽く食事をすることにしたが、院内レストランは“病院の食堂”というような安っぽいものではなく、きわめて立派な造りで食事代もそれ相応であった。さすがフランスと言いたいところだが、われわれにはいささか負担が大きかった。なのでバーに行き、サンドウィッチとコーヒーを取って食べた──とはいえバーもそれほど安価ではない。まるで山小屋か映画館だ。病院の外は郊外で、安食堂など見当たらない。硬いバゲットのせいで硬口蓋が大変だ……が、うまいサンドウィッチだ。
食事を済ませてしまうと、病院の前に止まって発車時刻を待っていた82番のバスに乗ってパリ市内に戻った。
「あそこが日本セクションだったの?」
バスの窓から外を見ながら西瓜子が言った。
「え? たぶん違うんじゃないかな。ただの救急だったと思う」
「あっそ。ならいい」
「……そういえば診察代も払ってないな」
帰りはメトロには乗らずに、セーヌ川のほとりまで来たところで72番のバスに乗り換えた。なんだか見覚えのある場所だと思ったら、エッフェル塔とシャイヨー宮の間だった。
部屋に戻る前に、ホテルの並びにある小さなカフェに入った。西瓜子はオレンジーナ、私はカフェオレ。お婆さん一人でやっているカフェで、とても静かだった。われわれ以外には客がいない。足の痛みが緩和されただけなのに、私の心はずいぶん晴れやかだった。
しばらくするとカフェに若い女の人が入ってきて食事を始めた。お婆さんとは知り合いらしく、世間話をしながら食べている。代金を置くと私と西瓜子はカフェを出てホテルに戻った。
夜になり夕飯を食べに出ることにしたが、なんだか西瓜子の様子が変だった。さっきのカフェで食事させてもらおうかと言ってもいい顔をせず、じゃあまたルーヴル美術館の地下で何か食べようと言っても嫌がる。どこか行きたい店があるのかと尋ねると、『パリノルール』を開いてうどん屋を指差した。それなら行ってみようと言うと、少しも行きたそうにしない。よくよく問い質してみると、食べに出て私の足が痛んだら、うどんなんか食いに行ったからまた足が痛くなったんだ! と私に恨み言を言われるから行きたくないと言うのだった。……やれやれだ。
オペラ通りを少し入ったところにあるうどん屋まで歩いたが、足はちっとも痛まなかった。うどん屋のある通りは日本食の店がかたまっており、スリ多発地帯だとのことなので、国立図書館の前を通って裏から回り込んだ。西瓜子はかけうどんといなり寿司、私は鴨丼のみ(これだけで155フラン!)。
最後の夜なので、ホテルのフロントでキーを受け取るとき、部屋番号をフランス語で言ってみた。するとフロントの男が笑った。部屋に戻ると荷造りをしておいた──明日はもうパリを発つのだ。
次回更新予定日 2月8日
