Web草思
文学的なジャーナル Journal Imagined 岡崎祥久
第4回
1981年1月14日(水)

 ……メモなし……

2002年1月14日(月)

 10時半過ぎに起床。『南へ下る道』のゲラ刷りに目を通す。その後PowerBookを起動して次の書き物。
 14時ごろ西瓜子が目を覚まし、腹が減ったと言う。食事の準備を調える。いつの間にかまたベッドの中にいるので、起きないのかと訊くと、あたしは夜ちっとも寝れなくて明るくなってから寝たのに起こすなんて! と逆上する。寝てたかったら寝てていいぞと言うと、寝てたくないと言って渋々起きた。
 白飯、とん汁、ニシンの昆布巻き、梅干し、お茶。西瓜子は椅子の上で孤児のようにうずくまって食べ、食事を終えるとまた眠った。
 私は洗い物を済ませて書き物を続けた。
 おやつにキャラメルコーンを食べていると、西瓜子も起きてきて食べた。そしてまた眠った。私はさらに書き物を進めた。
 西瓜子がちゃんと起きたのは18時半になってからだった。ずっと寝かされてたとブツブツ言うので、寝てたんだろ、と言うと、だってあたしが寝てれば仕事できていいんでしょ、となおもブツブツ言うのだった。……西瓜子といることはおそらく、私にとってプラスなのだろう。理不尽に思えることもままあるが。

2005年1月14日(金)

 理論社のYさんから電話──『バンビーノ』が1000部増刷されるとのこと。初めての増刷だ。喜ばしきことなり。『独学魔法ノート』の直しについて話し合った。
 新宿へ出たついでに、またハンス・ウェグナーの椅子を見に行った。スウィーベル・チェア──10年前からずっと売れずにいる。「あなたと同じね。買っちゃえば?」そう言って西瓜子は私のことをからかった。
 もし結婚をせずに一人でいたら、私の暮らしはどんなふうだったろうか? と思う。ことによると──もし結婚して一人じゃなかったら、私の暮らしはどんなふうだったろうか? と夢想していたかもしれない。
 通らなかった道というのはおそらく、夢想以上に険しいか、夢想ほどなだらかではないかのどちらかだ。

1995年1月14日(土)

 ああ、この荒れ狂う気分はどうだ! ドアを乱暴に閉める、投げなくてもいい物を投げる、一人きりで悪態を吐く、両手を上げて髪をかきむしる、何か壊せそうな物を物色する、大声を上げたくなる。だが自業自得だ。どうしようもない。もうしてしまったことだ。
 急にドアチャイムが鳴る。宅配便だ。今旬もまた通信添削の仕事が届いた──ずっしりと重い答案用紙の束。期日までに柔軟かつ的確に採点し、受験生それぞれの励みになるアドバイスを、すべての答案の通信欄に書き込まねばならない。もうこの仕事はよした方がよさそうだ。ろくなアドバイスが書けないんで辞めさせてくださいって、ちゃんと言ってみよう。受験のことは、それほど好きっていうわけでもないし。
 で、最後に会ったときには、もう二度と会いたくないと思い、実際にもう二度と会わずに済むようにしたのに、私はまた西瓜子に会いたいと思ってしまっている。たった一目でいいから会いたいと念じてさえいる。
 くそ! あんなにいい女を、どうしておれはあんなに邪険に扱えたんだろう。かなり奇蹟に近いことだったな、あれは。やれと言われたって、もう二度とやれない。
 ……ところで、西友のレジで働いてる女の子をデートに誘うには、どうすればいいかな。

1998年1月14日(水)

 夕方になって部屋を出た。
 駅前の西友に立ち寄り、印章売場で名刺を受け取った。自分の名前が金太郎飴のようになっているのが不思議。名刺をこさえるのは初めてだが、2,625円なら、DTPソフトでチマチマ自作するよりマシだ。
 新宿から地下鉄を乗り継いで護国寺へ行き、群像編集部に顔を出した。週刊朝日に記事が載ったお祝い、ということでビールをふるまってもらった。編集部には新人賞の応募原稿の詰まった段ボール箱が積んであった。
 編集のKさんとMさんと三人で、池袋まで鰻を食べに行った。私は地下鉄の階段を降りようとし、Kさんはタクシーを止めようとして手を挙げた。そうか、タクシーなのか。
 小学生のころ、祖父と伯母と三人で京都へ行って食べた五千円の鰻重というのが、長らく唯一の殿堂入りした鰻だったが、今夜の鰻は、寂しかった私の殿堂をパッと明るく照らすものであった。
 カウンターの一番いいところに席を取ってもらって、捌きたてで頭や背骨がまだ動いているのを見つつ、白焼き・蒲焼きはもちろん、皮から骨から肝から何から隅々まで食べた。
 鰻の小さな心臓をビールのコップにひょいと入れられ、それがなおも脈打ちつづけるのには驚いたが、ほら飲んでと言われたので、ヘエとそのまま飲んだ。わたしはちょっとこれは……、とMさんは遠慮していた。
 鰻の後でバーに行き、ようやくのことで小説の原稿を渡した。そして今さらながらと思いつつも、KさんとMさんに最初の2枚の名刺を渡した。
 新宿に戻ってみると、京王線は残り3本だった。まだちゃんと調布まで帰れる。
 そういえば、私の祖母も鰻が大好きだった。だが86年間の生涯で鰻を食べたのは、たった一度きりだった。おじいさんに食べさせてもらったのがとてもおいしかったから、もう二度と食べたくない、と言って食べなかったのだ。

1991年1月14日(月)

 最終急行を降りた駅からの帰り道、原チャリで軽自動車に撥ね飛ばされた。路上に投げ出され、恥ずかしさで死にかねないほどコミカルにゴロゴロ転がった。見通しの悪い坂なりの変形十字路。
 これに頚がぶつかったら死んでたな──と思える黒い鉄の門柱を見つめながら倒れていたら、落ちた拍子に打った右の尻がズキズキし、横倒しの原チャリのエンジンが止まった。ここから別の方角へ時間が流れだした感じ。
 救急車で病院に運ばれたが、転がりすぎたうえに運転が乱暴なせいで気分が悪かった。
 夜勤の医者はまだ若い男で、レントゲン写真を撮るのに私は三度もズボンを脱ぎ直さねばならなかった。脱ぐよりも穿くのが億劫だった。骨に異状はなさそうだとのこと。
 でもどこか痛くないですかと尋ねるので、じゃあ右の尻が痛いと答えたら、湿布を貼りますと真面目な顔で言われた。しょうがないので最後にまたズボンをずり下げた。
 タクシーを呼んで警察へ行き、事故についての事情聴取を受けた。私を撥ねた軽自動車を運転していたのは、なぜか妹の高校の同級生だった。今どこにいるのかと尋ねると、もう帰宅したとのこと。
 事故現場に戻ると、原チャリに乗って家に帰った。壊れていたが動いた。4時だった。尻の湿布が時々冷たい。
 この事故のことは、西瓜子には言わずにおこう。どうせいやぁな顔をするだろうから。

1997年1月14日(火)

 冬になってから買った新しいコートを着て出かけた。今日はCデッサンとTデッサン。休み時間は西瓜子さんと過ごした。冬の中庭はすごく寒かった。
 どうしたんだろう。胸がドキドキする。彼女が他の男と会話していたり、授業を放って帰ってしまうかのような素振りを見せると、いても立ってもいられなくなる。
 思い切って明日の予定を尋ねると、明日はラグビーを見に行くとのこと。ラグビーが好きなのかと尋ねると、べつに興味ないと言う。それならなぜ行くのか、だれと行くのか、とは尋ねられなかった。

2001年1月14日(日)

 今日は家でおとなしくしていることにした──ほんとは厄払いしてきてほしいんだけど、と言って西瓜子は私を外に出したがった。
 なあおい、いっしょに乗り切ろうぜ、と私が言うと西瓜子は、いやぁん、あたしを巻き込まないでぇ! と戯れ言めかして言った。……つまり巻き込まれたくないと本気で思っているのだ。
 出発に備えてプラハの下調べをした。ホテル周辺の通りの名を覚えたり、食事のできそうな店のリストをこしらえたり、基本的なチェコ語をいくつか暗記したり。
 おそらく旅から戻ってくれば、下調べで覚えた事柄はほとんど忘れ去っており、かわりに旅先での記憶を持ち帰るのだろう──“かわりに”というのがポイントだ(たぶん)
 そういえば前に、プラハに滞在したブルース・スターリングがこう書いていた──ここではいまだに文学が意味をもっている、と。たしか1995年のことだ。だが今ではもう、そうではなくなっているかもしれない。YAP(Young American in Prague)の姿さえないかもしれない。
 ところで、10年前の1991年1月14日に私は原チャリで軽自動車に撥ね飛ばされたが、20年前の1981年1月14日の放課後には、中学の校庭で左膝に決定的な怪我を負った。この怪我のせいで膝関節がゆるくなってしまい、私はもう、飛んだり跳ねたりすることができなくなった。
 負傷した翌日は成人の日で休みだったが、母親に付き添われて治療を受けに行った。家からはだいぶ離れたクリニックだった。なのに小学校で同級だった女の子とバッタリ出くわした。私の母と話をする彼女はひどく大人びて見えた。私はただ丸々と腫れた自分の膝を見ているだけだった。
 そして2001年1月14日──つまり10年ぶりの今日は、何も起こらなかった。家でおとなしくしていたのが幸いしたのか、周期的な厄災というのが思い込みにすぎなかったのか、でなければキャリー・オーバーされたか。

2000年1月14日(金)

 12時ごろ起きた。私の起きた後で目覚まし時計が鳴った。西瓜子がいない。昨夜の作りすぎたフライの残りを温めて食べる。
 上衣を着て部屋を出た。裏道を通って旧甲州街道に出たところで西瓜子と遭遇した。バイトを済ませてきたところだった。しばらくいっしょに歩いて横断歩道で別れた。
 電車に乗って新宿に出た。生まれて初めて英会話学校へ行った。日本語で歌って音痴なら、英語で歌っても音痴だし、話し好きじゃなくても英語でなら軽快にお喋りができる、などということはない
 講師はハンガリーから来た中年の女性だった。私の話す英語が彼女にどんなふうに伝わるのか、今もわからないが、この先もずっとわかることができない(のだろうな、きっと)
 夜、カレーを煮込みながら西瓜子が、百瀬くんからメールは来てないの? と尋ねるのでコンピュータを起動して調べてみた。メールは1通もなかった。
 買い物のついでに西瓜子が図書館で借りてきた《スタートレック》のビデオを食後に見たが、気付くと西瓜子は眠っていた。毛布をかけてやり、ビデオを止めた。
 とても静かな夜だと思えた。

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