2001年1月21日(日)
「そっか。あたしはまだパリには来てないんだ!」西瓜子が言った。「だってここ、ちっともパリじゃないもの」
ルーヴル美術館が目と鼻の先にあるホテルの部屋にいながらわれわれは、美術品ではなく壁ばかり見ていた。たしかにこんなのは、ちっともパリじゃない。
だがどうしようもなくパリだ。
テレビ放送はフランス語だし、ソファテーブルには使用済みのカルネ(回数券)が散らばっているし、さっきチップを渡したルームメイクの女の子の色黒の手はとても冷たかった。
パリに到着した翌日から痛みだした私の左足首が、今日はとうとうムクムクに腫れ上がってしまった。朝食時にホテルの食堂へ行ったほかは、まったく外に出ていない。
食堂は地上階にあるが、われわれが泊まっている2階(日本式では3階)の部屋まではエレベータが使えない。つまり足が痛いのに階段で往復しなければならないということだ。降りるのも昇るのも、一段ごとがまるで苦行であるかのようだった。
朝食を済ませただけで私はぐったりしてしまった。今日はもうどこにも行きたくなかった。バスタブに浸かって足首を揉みながら2時間ほど入浴した。少しは痛みが和らいだらしく思える。
昼過ぎになると西瓜子はひとりで外へ行った。いささか心配ではあったが、私は部屋でうとうとしていた。眠っている間は足も痛まない。このまま足が治るまで眠っていたい。もうどこにも行きたくない。どうしてわざわざここにいるのかわからない。
西瓜子はバゲットのサンドウィッチを買って戻ってきた。日曜で薬局が休みだったから湿布は買えなかった、とのこと。硬口蓋が擦り剥けるほど固い皮のバゲットだったが、とてもうまいサンドウィッチだった。
ベッドの上で足を投げ出し、西瓜子と二人でぼんやりとしていると、ほかにはもう誰もいない世界の果てにいるような気持ちになってくる。冬の曇り空の下のパリはとても静かだ。掃除機の音しかしない。ルームメイクの音はしだいに近づいてきており、やがて順番が回ってくるのは確実だった。
西瓜子はそわそわし始め、近くにカフェがあったからカフェオレを飲みに行こうとか、あたしひとりでルーヴルを見に行ってくる、などと言いだした。要はルームメイクの人と顔を合わせるのが億劫らしい。行き先を考えつづけたまま西瓜子はずっと部屋にいた。
ドアをノックして入ってきたのは、インド人──なのかどうか知らないが、顔立ちが整っていて褐色の肌をした若い女の子だった。そういえば朝、食堂にいたのを見かけた。われわれが薄暗い室内にいるのを見てやや驚いたようだった。
彼女が部屋を掃除している間、私と西瓜子は外廊下にいた。このホテルは全室ともドアが中庭に向かって開くようになっている。ホテルというよりは集合住宅のような印象である。ルームメイクはのんびりと行なわれ、われわれは欄干に頬杖をついて中庭の冬の緑を眺めていた。
「まだ足痛い?」西瓜子が訊いた。
「うん。痛いな」左足首を少し回してみてから私は言った。「歩くとたぶんもっと痛い」
「じゃあもう帰ろうよ」
「帰る、ってどこに?」
「だって足が痛いんじゃどうしようもないじゃない」
「……明日、病院に行くよ。今日は日曜だから」
「プラハ、見たいの?」
「ああ、そうだな。見たいよ」
「そっか。そんなにパリが嫌いなのね」
「…………」
「いいよ、べつに。パリはあたしが来たがってたんだから」
ルームメイクが済むとわれわれは、真新しいシーツのベッドに寝そべり、フランス語のテレビ放送を見た。何を言っているのかはよくわからないが、どういった番組が放映されているのかは、わからないこともない。
「おれはね、旅の神さまを恨むよ」ふと私は言った。「せっかくのパリで何もこんなふうにしなくたってさ」
「じゃあ、あたしはあなたを恨むことにする」テレビの画面を瞬きもせずに見つめながら西瓜子は言った。
すっかり夜になった。
夕飯はルームサービスを取ることにした。フロントに電話をかけると、それはやっていない、と言われた。説明はなかった。
旅行鞄からカロリーメイトを取り出して食べ、買い置きしておいたペットボトルの水を飲み、昨日〈MONOPRIX〉で買ってそのままにしていた肉の缶詰を開けて食べた。
たしかにちっともパリっぽくない。ここがパリではない場所でも不思議はない。だがここから歩いて帰ることはできない──足が痛いから、ではなく。
1991年3月23日(土)
「あたしね、オカザキくんといっしょにヨーロッパに行けたらいいなって思う」寒い上野公園のベンチで西瓜子が言った。「そのことをときどき思い描いてる」
「行ってどうするんだ?」
「キッチンの付いたアパートを借りて暮らすの。それだけでいい」
「でも暮らすって言ったって、どうやって?」私は言った。「今だって金がなくて困ってるのに」
「だからそれを考えてる」
「…………」
寒くて気持ち悪くなってきた、と西瓜子が言うので、どこか安くて暖かいところへ行くためにわれわれはベンチを立った。私はまだたったの22歳だ。
1989年3月23日(木)
大学へ入学手続きをしに行った。第2外国語のご希望は? と尋ねられたので、いくらか迷ってから、中国語、と答えた。中国語ですね? それでよろしいですね? 後から変更はできませんから、などと執拗に問い質すので自分自身を怪しむ心持ちになりかけたが、いいです、中国語で、と返事をした。
手続きは折りたたみ式の会議机を並べて行なわれていたが、私のすぐ隣りでは、目が細く鼻の穴の黒い男が、第2ではなく第1外国語をフランス語に指定していた。
「失礼ですが、フランス語についてどの程度ご経験が……」
いくぶん疑わしげに係員が尋ねると男は言下に応じた。
「まったくわかりません」
「そうなると、第1ではなく第2外国語になさった方が……」
「かまいません」
「…………」
なかなか無謀で楽しい男もいるものである。
私は中国語を学んで、漢文で詩が書けるようになれればいいな、と考えていた。
漢詩人──そう呼ばれてみたいと思っていたのだ。
次回更新予定日 12月14日
