Web草思
文学的なジャーナル Journal Imagined 岡崎祥久
第1回
1996年1月7日(日)

 朝の9時になって目覚めた。ようやくだ。昨夜はなかなか入眠できなかった。外は冬晴れのいい天気だ。太陽と反対側の空が異様に青いと感じられる。
 洗濯機を回しながら絵を描いた。描き損じの素描に彩色してみるものの、どうも画材がしっくりこない。
 12時半ごろアパートを出ると、高円寺駅で通勤定期を買った。バイトは明日からだが、定期券を今日から発効させて新宿に出た。
 私は黒くて長いステンカラーのコートを着てうつむいて歩いている。
 世界堂でアクリル絵具を5本買った。画材は種類が多いうえ、それぞれに特性や相性があるから、組み合わせに苦労する。だが画材の研究に時間を費やすことは避けた方がよい。周到なサンプルを作成しても、それは作品ではない。何かを成し遂げた高揚感は得られるとしてもだ。
 歩行者天国の新宿通りを歩いていると、僕は今手相の勉強をしています、と言いながら近づいてきた若い男が、私の手相を見たがった。私は掌を開かず、歩調もゆるめなかった。これは──あれだ、あなたのためにお祈りさせてください、と手をかざしてくるのと同じぐらい無作法だ。
 西武新宿ブックセンターに行くつもりで地下街サブナードを歩いていると、光沢のあるグレーのスカート・スーツを着た若い女が、すみませんが社会人さんでしょうか? と問いかけながら寄り添ってきた。たぶん違うと思う、と私は立ち止まらずに答えた。では何をしてらっしゃいますか? となおも尋ねてくるので、おれは何もできてない、と言った。女は怪訝そうな顔をし、それ以上は何も訊こうとしなかった。
 余計な受け答えをしていたら、何のために本屋へ行くのか忘れた。
 そして急にピロシキが食べたくなり、伊勢丹会館のペチカまで逆戻りした。セットメニューがまだ終わってなくて助かった。ピロシキ・セットを出してもらった──
 ピロシキとボルシチ、それにロシア紅茶だ。今日はロシア人のウェイトレスはいない。

 夜、西瓜子に電話を入れたが留守だった。デフォルトの応答メッセージが流れている──
 だから、本当に西瓜子の電話なのかどうか疑えないこともない。私の黒電話には番号が表示されない。何も言い残さずに切った。電話線のモジュラージャックを抜いて素早く入浴した。
 さて、休暇は終わった。明日からはアルバイトだ。労働だ。ふたたび私は朝6時起床の生ける屍となろう。

1996年1月6日(土)

 ほぼ一日中、だらだらと過ごした。
 夜、15分ほどテレビを見た──テレビを点けるほど退屈していたのかと思うとおかしい。
 交通事故を扱った番組を放映していた。小説の中ではなぜか、死の原因が“交通事故”だと、えらく興醒めになる。私の祖母は自転車にぶつけられて晩年を台無しにされた。長い入院暮らしの末に死んだが、死に際には誰も間に合わなかった。
 入浴したついでに風呂掃除をしたら湯中りした。頭がクラクラする。こんなプラ製のユニットバスごときで!
 夜中の3時過ぎ、急に目が覚めた。それからしばらく眠れずに輾転としていた。体から熱を逃せない感じ。ロフトで寝ている自分が愚者のように思えた。

1993年3月27日(土)

 百瀬充作に電話をかけたが、どうやら寝起きだったらしい。悪いことをした(背後には丸戸充子の声も聞こえる)。14時ごろそちらへ行くから、と告げた。
 13時30分にオートバイで出発した。町田から綱島までの道順は、それほど難しいわけではないから、地図帳がなくとも迷うことはなかった。14時を過ぎて到着した。
 三人で近所の不二家レストランに入って昼食を摂り、それから百瀬くんの部屋へ行った。前にも来たことがあるが、あれはたしか冬の深夜だった。いっしょの講義が済んだ後、三人で電車に乗って来たのだ。綱島駅からこの1DKのマンションまで、息を白くしながら川沿いの道を歩いたのを覚えている。
 あのとき、印象だけで話をされると困る、と百瀬くんが言ったのを覚えているが、何について話していたのかは忘れてしまった。彼の特質についての指摘だったかもしれない。
 三人でいるときわれわれは、まれに音楽をかけることがあるとはいえ、いつでもたんたんと会話だけをしている。話をしているだけで楽しいというのは、じつに楽しいことだ。
 19時を過ぎると、百瀬くんと丸戸さんに別れを告げ、ふたたびオートバイにまたがった。今夜は家に帰って家族とともに食卓につかねばならない。奮発して寿司を取ることになっているのだ。
 あああ! おれはなんてうっかり者なんだ!──フルフェイスのメットをかぶってオートバイに乗っていたから、本当にこのとおり声に出して言ったが、聞いていたやつは誰もいない。
 百瀬くんに昼飯代を渡すのを忘れた。レストランのレジ前で金のやりとりをするのを億劫がって、部屋に行ってから払うよ、などと言っていたら忘れてしまった。忘れたということを覚えておかなくちゃならん。
 家に戻ってみると、寿司は既に届けられていた。私がやっと大学を終えたお祝いだ。しかし終えるには終えたが、この先どうなるのかについては……うんまあ、今は考えないことにしよう。大学院受験には失敗したし、就職先も見つからなかった。このうえ将来のことを考えだしたら、まず間違いなく絶望的な気分になる
 私の部屋の黒電話宛てに、ヒラバヤシから電話──カタギリとタチキの近況を聞いた。軽傷で済んだタチキは既に帰国したが、入院中のカタギリも、ひとまず命は取り留めたらしい。二人は卒業旅行をしにアメリカへ行って、レンタカーで大陸横断中に猛スピードでひっくり返った。カタギリのいる病院の住所を聞いて書き取っておいた。エアメール用の封筒が必要だ。
 電話といえば──西瓜子から連絡は来るだろうか? いや、連絡が来るだけじゃダメだ。彼女が私の心を引き受けてくれなければ。私はこんなにも西瓜子を愛したいと願っているのだから……。
 でもあれだな、ダメかもしれないな。
 彼女といっしょにいると、ミネラルウォーターのプールで泳いでいるかのような、もったいないほどの爽快感があるんだが、どうしても、私が泳ぎ終えた後は、水が汚れているように思ってしまう。

西瓜子:ニシ・ウリコではない。基本的には「ニカコ」だが、場合によっては「スイカちゃん」ないしは「ウォーターメロンちゃん」と読んでもよい。

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