まえがき
1984年以来、私の手元には大小さまざまなメモが蓄積されている。
多くのメモがそうであるように、私のメモもまた、雑多な紙に書き付けられている──いわゆるメモ用紙や情報カードをはじめとして、裏白紙、紙ナプキン、ちぎった紙片など。
メモはすべて、日常生活の中での覚え書きである──つまり、買い物のリストだったり、当座のスケジュールだったり、書き留めておかねばならないと思った何かである。
私のメモはだから、たとえば、こんな感じである。
こうした紙片が、1984年以来、捨てられもせずに溜め込まれているが、メモを読み返すことで私は、その日ごとの出来事や考え事を、ありありと思い浮かべることができる……少なくとも、メモがないよりは、ありありと。
しかしなぜ1984年以来なのかはわからない。それ以前はメモを取る習慣がなかったのかもしれないし、取ったメモを保存しておく習慣がなかったのかもしれない。1984年の私は、15〜16歳という年齢であった。
私の取るメモには、たいてい日付が入っている──というより、メモに限らず物に日付を入れるのが好きなのだが、これは、私が育った家庭の癖を受け継いでいるのだと思う。たとえば、テーブルや家電製品の裏には、購入年月日をマジックで書いておく、というのがそれである。
カレンダーであれ日記であれ、日付を用いるものは基本的に、現在から未来へと向かう性質をしている。日めくりは次々と毟り取ってゆくものだし、日記を付け始めた日の前にはページがない。後戻りはしない、ということだ。
いったん始まったものには、いずれ終わりがやってくる。多くの日記の最後は、尻切れトンボか先すぼみである。つまり、ある日を境に書かれなくなるか、頻度や分量がしだいに落ちていってフェードアウトするか。
日記のいいところは、何度でも付け始められることである──終わりにではなく、始まりの方に楽しみがある。
私は今しがた、過去の“日記”を書き起こすことを始めたところだ。
これまでに蓄積されたメモが日記の資源となるわけだが、今年38歳の私が、たとえば27歳の日のことを書き起こしてもなお、それを日記と呼びうるのかどうか。語義的には、手記や回想、ことによると自叙伝かもしれない。が、語感としてはやはり“日記=ジャーナル”なのだという気がする。
それに、もしかすると38歳の私の方が、27歳の日のことを、27歳の私よりも公正に書けるかもしれない──そう考えると、なんだか浮き浮きしてくる。鬱陶しいだけだと思っていた日々が、実はこのうえなくユーモラスであったかもしれないのだ。
あるいは日常というのは、ずっと後になってからでなければ、何があったか(という以上に、何がなかったか)わかることができないものなのかもしれない。
段ボール箱の中に蓄積された過去は、自然の地層のようには累重していない。新旧がないまぜになっている。そしてその分だけ、私の頭の中の小さな世界と相似している。
この〈文学的なジャーナル〉を書き起こすにあたり、私が本箱から出してきて手元に置いたのは、以下の4冊である──
● 『構想された真実』ホッファー
● 『言葉』サルトル
● 『スローターハウス5』ヴォネガット
● 『夢の書』バロウズ
私のジャーナルの何が“文学的”なのかについては、書き起こしてゆく間に、うまく言い含めることができればいいと思う。
2006年9月吉日
附記──
もしも私が“今日”の日記を書いたら、それは私がジャーナルを書き終える終了の印である。
もしも私が“今日”の日記を書いたら、それは私がジャーナルを書き終える終了の印である。
次回更新予定日 11月16日
