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オランダ史の語る、オランダ領東インドの日本軍占領とインドネシアの独立 近藤紀子
最終回 統一インドネシア共和国の成立
第二次蘭・イ戦争

 蘭軍部は10月にすでに、ジョグジャの共和国権力を一掃する「クラーイ作戦」に最後の仕上げをして、進軍準備はできていた。政府内ではすぐに武力行使をとの意見が強かったが、ドゥレース首相の決断で、政府は交渉に入ることにした(あくまでも、共和国に「重い」蘭・イ連合を受諾させることにあった)。また、主権イ連邦の設立に備えて、10月末に「過渡期のインドネシア統治規定」という緊急法案を議会で通過させた。この法律制定の目的は、これによって「重い」蘭・イ連合に持っていくことにあった。蘭政府案を持って、スティカー外相ら代表団は11月末にカリウランでハッタらと会談したが、ハッタは、暫定連邦政府での従属的地位に甘んじるつもりはないと述べ、蘭国王代理に権威を持たせることも共和国軍の廃止をも拒否した。
 武力行使以外に手はないとみた蘭代表団の態度に、コクランは「再び治安活動の危険があろうものなら、米国は癇癪玉を破裂させよう」と圧力をかけたので、12月4日にバタヴィアで再会談した。ハッタは、共和国は事実上の権威を放棄しないと述べてから、主権イ連邦設立までの間のイ群島の蘭国の宗主権については、これを実際に行使しないと協定なり文書に規定してから、共和国は理論上でのみこれを承認すると付け加えた。情況は第一次戦前に逆戻りして、両者は再度の戦争は避けられない事態となったことを認識したのだった。
 蘭政府の姿勢は行政的手腕に欠けた非論理的なものだった。蘭国製の東インドネシアと西ボルネオ(蘭国製のイ連邦構成国は「連邦協議会」の名で団結した)が共和国との直接交渉を買って出たのに、蘭国はそれを不躾にも拒否して、連邦協議会との関係を駄目にしたばかりでなく、武力行使は現地の反西欧感情を強めるだけとの米国務長官の警告も無視して、米国との関係も危険に晒した。
 蘭国が共同体の相互関係など物ともしなかったのは、安保理が12月15日から一ヶ月程クリスマス休会に入るので、武力行使を16日に開始すれば、年内には終って暫定連邦政府ができていようから、安保理再開の1月半ばには全てが片付いていて、国際共同体は新秩序を承認するだろうと蘭政府は踏んだからだった。こうして、蘭政府は13日に、ドゥレース首相の、現地人民を守るという蘭国の天職ゆえに武力行使は避けられないとの表明で、再度の武力行使を決定した。
 ところが、その翌日に、蘭政府はハッタがコクランと協議後に作成した、共和国が譲歩するという書簡を受け取った。だが、交渉再開への糸口なしと見た蘭政府は、21日まで進軍開始をのばして、18日の10時までに回答を願うというメモを付けて、蘭提案同意への再考慮の機会を与えるという最後通牒をベール国王代理を通してコクランに送った。それは共和国の全面降伏要求でしかなかったから、コクランはそのような最後通牒でハッタを煩わすことはしなかった。
 蘭政府は18日に、19日午前零時進軍開始をベールに通達し、長期戦に入ると成功は定かでない戦いに8万の兵力を送り込んだ。
 スポール司令官は、共和国政府を落とすために、まずジョグジャ近郊のマグーオ飛行場の空爆から始めた。パラシュート二個中隊はたやすく飛行場を手中にして、空輸部隊がそこに着陸し、それから7キロ離れたジョグジャに進軍した。一方ジョグジャの共和国政府は緊急会議を開き、「スディルマンらの軍部はジョグジャを後にする。政治指導者は蘭部隊の到着を待って、逮捕される」という決定をした。
 こうして、スカルノ、ハッタらの政治指導者はジョグジャ入りした蘭軍に逮捕され、自宅監禁となった。ジョグジャ以外の中部ジャワの地でも、21日にスラカルタ、マゲラン、ウォノソボ(西からのウォノソボへの進軍は、シリワンギ師団分隊の反撃を受けて難儀したが、蘭軍の空爆でシリワンギ師団が退去したので、ウォノソボに進軍できた)を占領して、進軍は首尾よくいったと蘭国はみなした。東部ジャワでは、進撃はバリケードと通行不可能な悪路のために非常な遅れをとった。ジャワ北岸ツーバンに上陸した海軍の旅団は、1日でマディウンに進軍し、これを占領するという作戦だったが、6日間もかかるというほどの遅延をしてしまった。蘭軍の遅々とした進軍テンポの隙を狙って、共和国軍は系統的に農園企業や市町村を破壊した。それは「破壊の宴」の感があったという。
 スマトラでは、蘭軍は東スマトラから上陸して、石油産地のジャンビや港湾市べンクレーンを占領した。

八方塞の蘭国

 蘭政府は、安保理の休会中に決行すれば問題なしと踏んで、武力行使に出たのだったが、それは誤算だったことがすぐに判明した。米国は、有能な指導者たち(共産主義反乱を鎮圧した)の共和国に進撃するとは何事かと、豪州と一緒に戦争初日の19日に休会に入っていた安保理を緊急招集した。22日のパリでの緊急会議で、ファン・ロイエン蘭国連代表は進軍の正当性を納得させようとしたが、成功せず、24日に、敵対行為の即刻停止と共和国閣僚と他の政治犯の速やかな釈放を要求したジェサップ米国連代表提出の決議案が可決され、28日には、共和国閣僚の即時釈放と各総領事が監視のもと停戦実行という二つの新決議が可決された。これを受諾する以外に選択の余地がなかった蘭政府は、29日に、ジャワとスマトラでの戦闘を終え、政治活動をしないという条件付きで共和国閣僚の監禁を解くという政府声明を安保理で明らかにした??自宅監禁を解かれた共和国指導者の中で、プラパットに送られたスカルノ、シャフリル、サリムは半島を自由に歩き回れて比較的恵まれていたが、ハッタらはバンカ島の中心地ムントックから10キロ離れた鉄条網に囲まれた建物に移されて、行動範囲は二室に限られていた。それにもかかわらず、蘭国は、ハッタらには全くの自由が許されていると言明した。1月15日にハッタらを訪れたコクランらは、現実にはそうではないのを見て、蘭国は約束履行をしない国だと相場が決ってしまった??。
 もう一つの誤算は、東インドネシアとパスンダン(旧称西部ジャワ)の政府が戦争に抗議して総辞職し、前者は、イ連邦では共和国要人との協働を希望すると言明し、後者は共和国のジョグジャへの復帰とそこからの蘭軍撤退を要求したことだった。イ連邦は共和国なしでは成立しないということだったから、大きな見込み違いといえる。また、再度の戦争を仕掛けた蘭国を嫌悪したコクランは、蘭国に安保理決議の遵守を命じるよう米国務省に働きかけた。国務省はコクランの意を汲んで、ジェサップ米国連代表にその旨を告げて、1月12日(1949)に自ら「草案」を作り安保理の構成国に配布した。その中でジェサップは蘭国にこう要請した。「敵対行為の停止、全共和国捕虜の即時釈放、共和国政府のジョグジャへの復帰と権威の回復を認め、3月15日までに暫定連邦政府の設立、10月1日までに連邦議会の総選挙を行ない、1950年4月1日までにイ群島の主権をイ連邦に委譲する。同時に、調停委をこれよりインドネシア関係国連委員会(以下、イ関係国連委)とし、安保理を代表して当紛争解決に当たり、共和国への即刻返還地域、蘭軍の治安維持担当地域等を多数決により決定する」本米国草案が議決されれば、蘭国は戦争で獲得したものの放棄と、選挙への同意と、共和国派が圧倒的多数を占めるだろう選挙後の政府に主権委譲を余儀なくされる。
 そこで蘭国は、この決議案が採択されないよう、「蘭国は、最終の実りを見ないために過去350年間インドネシアの発展を指導してきたのではない」と安保理で申し立てたが、武力行使の事実の前には、これらの言葉は空虚に響いただけで、この決議案は28日に採択された。2月初旬に米国から西ヨーロッパ経由でインドネシアに帰ったコクランは、蘭国でドゥレース首相らに会い、1月28日付け安保理決議に同意するよう要請したが、蘭政府はこれを聞き流しただけでなく、「早急にイ連邦政府へ主権委譲をした後、蘭・イ連合の設立に着手し、連合の正式設立までの間は、蘭国王代理が幾つかの重要な権限を持つ」という過激な案を打ち出し、主権委譲を早める件と連合の基本線について、共和国政府とイ関係国連委を招待して会談することにした。
 しかしスカルノらは、28日付安保理決議を知っていたので、「蘭国は共和国を武器で踏みにじっておきながら、共和国の協力を求めるとは虫がよすぎる。ジョグジャへの復帰と権威の回復がなされてからでないと、蘭国との交渉には応じない」という見解のもと、会談はお流れになって、蘭国の思惑通りにはいかなかった。
 軍事的にも、軍部は共和国軍のゲリラ戦の底力を余りにも見くびりすぎた。ナスティオン作戦参謀長は1月と2月に共和国軍を再編成した。その際、各村長に、各自の地域の共和国軍に民兵・ガイド・食糧・隠れ場所等を提供し全面的に協力するよう指令を出して、共和国軍を総ゲリラ戦体制に入らせた。
一方、蘭軍は、蘭印行政がジャワ農村地帯で完全に統括力を失っていたので、攻撃すべき共和国軍の陣が皆目見当が付かなかった。そこでスポール司令官は1月末に特別部隊を投入してゲリラ掃討作戦にでたが、これもそう効果があったわけではなかった(特別部隊長には1848年11月から、かの残虐なウェステルリング大尉に替ってファン・ベーク中佐がなっていた)。それというのも、共和国軍が難儀していたのは、共和国内の戦いが主たるものだった。すなわち、東部ジャワでは、タン・マラカが反旗をひるがえしたので、共和国軍はタン・マラカ軍をも倒さねばならなかった。西部ジャワでは、シリワンギ師団が共和国地域に撤退後もこの地に居残った「インドネシアに独立イスラム国」のダルル・イスラム軍が、第二次戦で帰ってきたシリワンギ師団を攻撃したので、シリワンギ師団はまず彼らを鎮圧しなければならなかった。
 ちなみに、第二次戦時の蘭軍の戦死者数は1275人で、これは戦争前の3年間に出た戦死者数にほぼ匹敵する。このことは、第二次戦が蘭軍にいかに不利だったかを示していよう(一番の被害者は現地人民であって、ある出典によると、死者15万人を数え、多くは蘭軍の空爆と砲弾による犠牲者だったという)。そして蘭軍の数々の卑劣な行為にもかかわらず、共和国軍は全農村村落の支援を受けて、兵力に事欠かず、3月1日には共和国軍の健全さを誇示するために、数千人のインドネシア兵がラティフ大佐とスハルト大佐(後の大統領)の指揮下にジョグジャを数時間にわたって占領した。
 政治的にも軍事的にも行詰りに来た蘭政府は3月初旬に、1月28日付安保理決議を受諾することにした。ファン・ロイエン蘭国連代表はイ関係国連委に「円卓会議(イ連邦への宗主権の無条件委譲を検討する)に先立つ準備過程として、蘭国と共和国の会談をインドネシアで設けたい」と要請して、会談は4月14日にバタヴィアで開かれた(蘭国はファン・ロイエンが、共和国はルームが団長)。共和国の、ジョグジャに復帰し、それから他項目について話し合いに応じるとの見解に対し、蘭国は、ジョグジャ復帰は停戦の履行と円卓会議参加への条件とするとしたので、会談は進展しなかった。
 しかしコクランは蘭国が初めて妥協への姿勢を見せたと判断して、是が非でも交渉妥結へと、25日にバタヴィアの米領事館でハッタとファン・ロイエンだけの非公式会談を設けた。この席上、ハッタは、蘭国がジャワとスマトラにイ連邦の構成国を作ろうとする事実が気がかりではあるが、ジョグジャに復帰後、停戦の履行と円卓会議への参加を自分が保証すると言明し、ファン・ロイエンは、蘭国は構成国を作るつもりはないと確約するとともに、ジョグジャだけでなくその周辺地帯も返還する用意があるとさらに譲歩した。5月5日には、両代表団はルーム言明(停戦、治安回復への協働及び共和国の円卓会議への参加をスカルノとハッタが保証する)とファン・ロイエン言明(共和国政府のジョグジャへの復帰、敵対行為の停止、全政治犯の釈放、構成国作りを見合わせる)に同意して、7日に双方の言明が発表され、ファン・ロイエン/ルーム協定の名で歴史に記されることになった。本協定がきっかけとなって、自分の意見を無視されたベールは直ちに辞任して、その後任に蘭印育ちの極度に保守的なローフィンクが就いた。
 スポール司令官は、「信用のおけない共和国の若造らの個人的保証をもとにひどい譲歩をして」と決め付け、悶々とするうちに5月25日に心臓発作で死去した。
 こうして、蘭政府は最終的にイ群島の宗主権のイ連邦への委譲へと向かった。6月22日に両代表団は、「共和国政府のジョグジャ復帰、8月11日午前零時に全敵対行為の停止、円卓会議の開催」という妥協に達して、同30日にジョグジャから撤退した蘭軍はサルタン・ハメンクブオノにジョグジャの権威を返還。7月6日にスカルノやハッタらは人民の熱狂的な歓迎を受けてジョグジャに復帰。同10日には、遡る数ヶ月間を山間部の村々を担架で運ばれ陣頭指揮を執ってきたスディルマン最高司令官の帰還があった。

恨みと悔みの傷跡

 8月23日からハーグで蘭国(ファン・マールセフェーン海外領土相が団長)、共和国(ハッタが団長)、イ関係国連委(コクランが主役)、連邦協議会(西ボルネオのハミット二世が団長。連邦協議会の元首らはすでに7月と8月に共和国と連邦の新政治形態について話し合って、共和国とはかなりの妥協線に達していた)が参加して円卓会議が開催された(ドゥレース蘭首相が議長)。
 協議項目の第一は蘭・イ連合についてであって、10月13日にやっと妥協に達した。「連合は蘭王国とイ連邦という二つの独立主権国家が同格の平等関係で協働していく組織であり、蘭国王は象徴的役割を果たす」という形態が規定された。これは、スヘルメルホールンとスカルノが1946年11月にリンガジャティで妥協に達した連合の形であると言える。それなのに蘭国は、蘭国の望む形態ではないとして、戦争を仕掛け死と悲惨さをもたらしたのだった。第二は、蘭印の負債はイ連邦が引き継ぐとういう件である。イ代表団は、1942年以後の蘭国負債(対共和国戦争への出費)を引き継ぐのを拒否したので、コクランが、蘭国はイ連邦に20億ギルダーの負債免除をするとの提案をしたが、ドゥレースが辞職すると脅したので、コクランはこの提案を引っ込めた。するとハッタが、負債を部分的に免除してもらえないならば、すぐにもインドネシアを共産主義者に引き渡すと出たので、コクランを座長に小委員会で検討後、「イ連邦はすべての内政財務義務を果たし、蘭国は連邦に約20億ギルダー(注──東京外国語大学論集第62号(2001)ではここで「約」がつく──近藤)の負債免除をする」という妥協が成立した。これは蘭首相には非常に重荷だったので、閣議でコクランへの不満を口にしたと云う。
 第三のニューギニア(現イリアンジャヤ)の将来のステイトスについても、両者の見解は離れていた。ファン・ロイエン/ルーム協定には、完全宗主権のイ連邦への無条件委譲とあるために、当然イ連邦に入るが、ここの確保は経済的に有利だと踏んだ蘭海外領土相は、マラリア撲滅に国庫が萎む程お金が掛かる、不毛地帯であるから入植には不適当だといった反対意見を無視して、蘭国による統治続行を円卓会議の協議項目に取り入れておいた。そしてニューギニアを西欧大国の行政下に置いた方が安全だと見た豪州が、暫定的に蘭行政下に置き、一年後に改めて検討するとの譲歩案を出して、イ代表団はためらいがちではあったが、賛成して、円卓会議はとにかく、11月2日に成功裡に閉幕した。
 12月6日、7日、8日に、主権委譲法案が下院に掛けられた。法案に反対の議員が、アジアにはびこる悪魔の権力に蘭印を渡したと政府を攻撃したりして、議会は異様な雰囲気に包まれていたが、賛成71票、反対29票で下院を通過(9日)、上院も19日に通過して同日に法制定された。共和国でも議会(1947年初頭の会議を最後に長らく開かれなかったので、議員集めに苦労した)が、14日にハーグ協定に賛成した。
 主権委譲調印式は12月27日にアムステルダムのダム広場王宮で質素に執り行われた。ハッタが挨拶の辞を述べた後、ユリアナ蘭女王と両国首相が主権委譲公文書に調印した。「傷つけられ、切り裂かれ、恨みと悔みの傷跡に覆われてはいますが、今やわれわれは隣り合わせになりました」というユリアナ女王の言葉をもって、対立の年月に終りが告げられた。
 一方、バタヴィアの国王広場王宮では、ローフィンク国王代理とイ連邦共和国を代表してサルタン・ハメンクブオノが、多くの招待者と共に調印式の模様を伝えるラジオ放送に耳を傾けていた。そして調印式が終った時、ローフィンクはイ群島の権威をハメンクブオノに委譲し、蘭国歌演奏の中を蘭国旗が最終的に下ろされ、インドネシア・ラヤ演奏の中を紅白旗が高揚されて儀式は終った。ローフィンクはその足で、今は独立インドネシアの国土となった地を後にするために、ケマジョラン飛行場に急いだ。

窮地のイ群島から統一インドネシア共和国に

イ連邦共和国は現実となった。主権委譲の翌日にスカルノは、われらが元首を迎える喜びに沸く国民に囲まれてジャカルタ入りをした。挨拶に立ったスカルノは、「蘭国権力が去ったからといって、われらの自由への戦いが終ったわけではない。1951年の暮れまでにはニューギニアがわれらの懐に帰ってくるよう全力を尽くす」と、ハーグ協定で1年間蘭国の行政下に置かれたニューギニアに関する決意を明らかにした。
 ニューギニア問題が取上げられる1年前の1950年初頭に、蘭・イ関係は試練に立たされた。元特別部の隊長のウェステルリングは、1948年末にパスンダン国のプレアンゲルに下りて、そこで運輸会社を経営するとともに、私設軍隊を持った政党を結成した。この私設軍隊は、ジャカルタの中央政府からパスンダンを防衛するパスンダン自衛隊で、その関係において1月23日(1950)に、ハッタ政府へのクーデターを企てたが、未遂に終った。その際、在ジャカルタ蘭人高等弁務官のヒルスフェルトは、両国間の危機を避けようと、蘭国の全面的な支援をハッタに約束したが、蘭軍部高官らがウェステルリングをシンガポールに逃亡させたので、ヒルスフェルトは立場がなくなった。ハッタらは主権委譲後のクーデターであるからと、いきり立ちはしなかったが……。
 新興独立国の形態としては、連邦制はしっくりしないと考えていたスカルノらは、当クーデター未遂事件は連邦制解消を正当化するのにもってこいだと見た。残虐行為の数々を行ったウェステルリングの私設軍隊を、パスンダン政庁がパスンダン自衛隊として黙認していたことや彼がクーデターの前後に西ボルネオのハミット二世と会談をしていたことを、スカルノは連邦制が破綻した証拠だとし、その対応策を講じた(パスンダンの首相と数人の官僚らは逮捕され、内閣の総辞職を要請し、元首はその地位を譲った)。そして中央政府は2月8日に、パスンダン政庁にその権力の国家委員会への委譲を要求した緊急法を発布し、その翌日にパスンダンは中央政府の要求に同意して、ここに中央集権の統一インドネシア共和国の第一歩が始まった。
 東ジャワ、南スマトラ、マドゥラ、ボルネオの幾つかの国が相次いでその統治権を中央政府に委譲したし、最初は統一国家に反対した東スマトラも8月17日にこれに同意した。東インドネシアでは、アンボン民族とムナド民族が統合化を拒否し、マカッサルで武装蜂起したが、共和国軍は直ちにこれを鎮圧して、東インドネシアは廃止された。こうして、スカルノは1950年8月17日に、つまり共和国独立宣言の5年目の誕生日に、統一インドネシア共和国宣言をしたのだった。
 連邦制崩壊の真の原因を、ハッタはドゥレース首相宛の書簡でこう述べた「それは心理的性格のものです。『ファン・モークの植民地創造物』と称していたものに対する抵抗が余りにも大き過ぎたのです。われわれは自分らで創案し創造した国が欲しかったのです」。

おわりに

 オランダ政府は蘭印で時期を同じくして対共和国戦争と、日本人BC級戦犯裁判の采配を振るっていたということになる。ファン・デン・ドゥールの本書から私が理解したオランダ政府の共和国への姿勢から判断するに、蘭印BC級戦犯裁判は、同じ政府がしたことであり、勝者の裁きでもあったから、日本の戦争責任を過酷に追及したことが容易に想像される。日本軍占領時を民間人抑留所で送ったオランダ人の日記等は、日本政府の援助で邦訳出版されたと聞くが、蘭印BC級戦犯裁判で死刑の宣告を受け処刑された方々の手記等は何もオランダ語に訳されていない。これではまったくの一方通行というものである。日本政府の援助がいただければ、私は喜んでこの種の手記のオランダ語出版に協力したいと考えている。
 それにしても、インドネシアの現状を見る時、現在のインドネシア政府は、スカルノ、ハッタ、シャフリルという建国の父らの努力に少しも報いていないという印象を私は受ける……。彼らも草葉の陰からさぞや無念に思っていることであろう。

追記

 本書『東インドとの別離』に関連したビッグ・ニュースがある。それは、オランダ政府の対インドネシア外交がこの8月17日に大きな転換を見せたことである。
 オランダのボッツ外相(1937年バタヴィア生まれ、戦時を母親と日本軍民間人抑留所で過ごす)は本年8月17日のインドネシア独立60周年記念式典に出席した。オランダ政府の代表が独立記念式典に出席するのは、今回が始めてのこと。オランダ政府は今まで、1949年12月の旧蘭印のインドネシア連邦共和国への主権委譲の日をインドネシアの独立の日としてきたからである。
 記念式典の前日、外相はジャカルタであらまし次のような式辞を述べた(同内容の式辞を8月15日の日本降伏記念式典でも述べた)。「私が独立60周年記念式典に出席することによって、オランダ政府はスカルノとハッタが独立宣言をした日付をインドネシアの独立の日として政治的、道義的に受け入れることを表明したい。また、政府を代表して、オランダ軍の進軍、特に1947年の進軍がもたらした数々の苦しみ・痛みに深い遺憾の意を表示したい。さらに、われわれオランダ人は、植民地支配時代、特に植民地支配時代の末期にインドネシア人民の利益と尊厳を傷つけたことを、われわれ自身に認めさせ、あなた方インドネシア人の前でも認めなければならない、個々人のオランダ人の意図としたことは必ずしも何時も悪かったというわけではなかったが……」
 オランダの権威紙『新ロッテルダム新聞・貿易新聞』は外相の式辞を次のように解説している。「外相が、オランダはインドネシア共和国の独立宣言を『受け入れる』と言ったが、オランダはこの事実を『承認する』と言っているわけではない。『受け入れる』は自身を現実に順応させることであり、『承認する』は熟考後、それまでは間違っていたと認めることである。オランダ政府はまだ『承認する』とまで言っていないのである。外相が8月17日をインドネシアの独立の日として公式に承認することは、多くのオランダ人(1万人の会員を数える蘭印派遣旧軍人連合の旧軍人たちを指す─注:近藤)には、1945年から1949年までのオランダの軍事行動を後になって間違っていたと宣言することを暗に意味するからである。このことが、今までインドネシア独立記念式典にオランダ政府の代表が列席しなかった理由である。」
 「深い遺憾の意」であり、「謝罪」ではない。ここにも言葉のニュアンスの違いがある。しかし、現在のオランダ政府が植民地支配時代末期にあった過度の行動に、歴史的観点において謝罪ができるのか、いや、謝罪しなければいけないのか。これまた疑問である。
 「われわれオランダ人は云々……」の一文だが、これこそ最高峰をいく外交辞令の模様細工である。問いは、このような大袈裟な用心深さをもって、誰を、いや、どのような利益を擁護しているのかである……。率直な承認の方がずっとよい。
 本書の著者のファン・デン・ドゥール氏はオランダ政府の今回の動きをどのように見ているのだろうか、8月17日付の『新ロッテルダム新聞・貿易新聞』中の氏とのインタビューから要約してみよう。

??「8月17日をインドネシアの独立の日として政治的、道義的に受け入れる」ということは、つまり、インドネシアの独立は8月17日に事実上始った、と外相は明言していることになります。外相はまた、1945年から1949年までの軍事行動については、「オランダは歴史の間違えた側に立っている」と表現して、間違えた見解の、正しいとは認められない戦いであったとも言っています。このことによって外相は、1995年のベアトリックス女王のインドネシア公式訪問の際に、当時のコック首相がこの武力介入を、「徐々の植民地解消への一環である」とまことしやかに表明した、10年前のオランダ政府の戯言に訣別をつけました。
??「受け入れる」であって、「承認する」ではないのは、法律上の問題であって、「受け入れる」は自身を史実に黙って従わさせること。「承認する」はこの場合、1949年12月の主権委譲を破棄することを意味して、このことは、例えば損害賠償のクレイムなどの、必然の結果を伴うことになります。
??「謝罪」ではなく、「深い遺憾の意」の表明であることに関しては、謝罪は簡単だし、あまり意味がない。後になってからは、あの問題はこうこうこういう方法で解決すべきだったと簡単に言えますから。先達の政治家たちを否認するのは何やら安っぽい感じがします。当時の政治家たちは統一オランダ王国の関係下にあった方がインドネシアの利益のためだと真に確信していて、そのためには、インドネシア共和国を抹消する必要があった……だから、必ずしも軍事攻撃だけというわけではなく、天職意識がそれをさせたのでもあったからです。
??両国の新世代はビジネス上の関係を築いていこうとしている。それゆえに、植民地支配終焉後、55年間にわたって続いているぎくしゃくした相互関係の改善が必要で、それは今日のオランダの政治家に課された責任です。ボッツ外相は適切なトーンをもって対処していると思います。ビジネス関係の見通しはよいが、手際の悪い政治家が一人いるだけで、脆い均衡は崩れてしまいますから。

 オランダにとって、インドネシアと良き関係にあることは、特に経済面から見て、非常に重要なことである。そのためには、しっくり行っていない相互関係を改善する必要があった。インドネシア独立の日を1949年12月と固執してきた蘭印派遣旧軍人連合の旧軍人たちも80歳前後ということで、大掛かりな反対運動に出ることはなかろう。政府は未だ完全にはなされていないオランダ領東インドとの別離を更に一歩進める時は熟したと見做して、今回の外交路線を打ち出したのであろう。
 なお、インドネシア外相のウィラジュダは、「われわれは、8月17日を独立の日として承認するようにオランダ側に強要したことはない。将来に向けられた関係への道を開いている今回のオランダ側の動きを歓迎する」と抑えた調子で反応した、と新聞は報道している。


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