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オランダ史の語る、オランダ領東インドの日本軍占領とインドネシアの独立 近藤紀子
第9回 「インドネシア」となった蘭印
戦争

 蘭軍はすでに20日に戦闘を開始し、戦略要所のバイテンゾルフ近郊のクラチャック発電所やラムペガンの鉄道トンネル等をうまく手中にし、バタヴィアでは、共和国行政機関の建物を占領、共和国シンパと見られる者たちを逮捕、留置した。西部ジャワでは、ジャワの西の共和国駐屯部隊をジョグジャの本営から切り離すために、バタヴィアからチリボンへ、そこから中部ジャワのツガル、プカロンガン(北岸)とチラチャップ(南岸)へ幹線道路沿いに進軍するという作戦をおこなったが、これも上首尾にいった(歩兵部隊の数組が鉄道に乗込んでクラワンでチタルム川に掛かかっている鉄橋を巧妙に手中にし、チリボンに進軍した。チリボンへはバンドンからも進軍を開始し、チャアテル峠では猛反撃を受けて苦戦したが、こちらもチリボンに入って、チリボンは23日に蘭軍の手に落ちた)。
 話は逸れるが、中部ジャワ進軍のくだりには別の記述があるので紹介したい。ハン・ビン・シォン氏(日本軍占領時と蘭・イ戦争時の歴史に詳しい人)が書いてくれた:1947年7月の第1次対共和国戦争開始の時点では、蘭国はバタヴィア、バイテンゾルフ、バンドンを結ぶ狭い帯状の地域と、スマラン及びスラバヤ周辺地域といったジャワの限られた地域を占領していただけだった。第一次戦作戦の一つは、W-旅団がバンドンからチリボン、ツガル、プカロンガンを経てスマラン方向に突撃していき、スマランからプカロンガンに進軍してくる部隊と落ち合うというものだった。W-旅団の突撃は、大した反撃も受けず順調にいったが、ツガル近くのチョマルという所で突然激しい反撃を受け一昼夜進軍を阻まれた。激戦の末敵を打破ったが、蘭旅団がそこで目にしたのは、12人の日本人の戦死体だった。12人で約4千人の蘭旅団の進軍を一日阻止したのだった。これはチョマルの村民が今もなお語り伝えている話である。蘭国史料編纂はこの話に一言も触れていないとのハン氏の言葉だった。
 東部ジャワでは、スラバヤ周辺で猛反撃を受け、悪路に沿っての進軍は困難を極めたが、21日にスラバヤ南部を占領。その間、海軍が首尾よく上陸して、バニュワンギ、シツボンド、プロボリンゴが占領できた。スマトラでも、メダン周辺の農園企業、パダン(西岸)周辺のかなりの地帯、パレムバン近くの油田地帯等を占領した。
 このように、蘭軍は予想外の成功を収めた。だが内陸地帯を攻撃の的から外した幹線沿いの作戦は、共和国軍にゲリラ戦への温床を作ってやったことになって、共和国軍はなおかつ健在だった。また、諸外国の反応は蘭国に厳しいものだった。ベヴィン英外相は、蘭国の決定には非常に不愉快にさせられたと言明、キルラーン特別弁務官は、欧亜関係を危険にさらしたと警告した。豪州(港湾労働者が蘭船ボイコットをし共和国独立を支持、政府もイ民族の自決を支持)は、英・米がこの紛争に手を出さないのを見て、7月30日に国連憲章39条(安全保障理事会は、平和に対する脅威、平和の破壊又は侵略行為の存在を決定し、並びに、国際の平和及び安全を維持し又は回復するために、勧告をし、又は第41条及び第42条に従っていかなる措置をとるかを決定する)に則って当紛争を国連安全保障理事会(以下、安保理)に提起した。インドのネール首相も7月28日に国連憲章34条に則って、蘭国の行為は国際平和と安全を脅かすものであるか否かの調査を要請した(34条は、外交的、軍事的処置を講じる、という39条ほどは深入りしていない)。
 こうして蘭国は国連の被告席に座ることになった。それまで傍観的な姿勢を取ってきた米国は、アジアの世論に、米国は植民地利益の擁護者だと書かれないためにも何か手を打たざるを得なくなった。そこでマーシャル国務長官は、当紛争の国連での仲裁を避けるためには、米国が仲介の労を取るのが最善策だと考え、蘭政府をその方向に説得した。
 米国が仲介に入ったことで、ニューヨーク州ロングアイランドのレイクサクセス村(国連本部があった)での安保理で蘭国は救われた。米国の説得で豪州が39条要請を引っ込めたので、8月1日に賛成8票、棄権3票で採択された決議で、安保理は両者に即時敵対行為の停止と、紛争の平和的方法での解決を喚起しただけだった。ちなみに、これは安保理で採決された最初の決議だった。

バタヴィアの反逆児と共和国粉砕へのシステム

 だが、ファン・モークは戦争をこれで終らせるつもりは毛頭なかった。行政の施行もできないといった状況に鑑み、共和国政府の抹消が必須だと考えて本国政府に圧力を掛けたが効果がなく、自身の責任において「カトー作戦」の名で8月22日にジョグジャ進軍開始を決めた。閣議はこれを否決したが、ベール首相は倒閣を覚悟のうえで、23日進軍の許可を与えることに決め、ファン・モークは開始を23日に延した。ところが、22日に米政府が介入してきて、「戦いの続行はパンドラの箱を開けるようなもの。安保理が制裁を加えても、米国は反対しないが、履行義務を申し付ける仲裁の代りに、居中調停案を安保理に提出してもいい」と説得、同日に調停決議案を提出した(11月1日に採択)。米国の尽力に感銘した蘭政府は、米決議案でいくことにして、ファン・モークにその旨を連絡した。
 一方、共和国は安保理決議を受諾して、スカルノはラジオ放送で、8月5日午前零時より戦闘停止に入るよう告げた。また、14日に安保理に招待されて、「戦いを仕掛けた蘭国の責任を追及し、履行責任を申し付ける安保理の仲裁による解決を要請する」という格調高い演説をしたシャフリルは、25日に再度安保理の仲裁裁定を要請したが、安保理は米国の調停決議案に従って、シャフリルらを失望させた。しかし当紛争が安保理の協議事項に入り、共和国が紛争当事国として国際舞台で承認されたことには大きな意味があったから、共和国は意を強くした。
 その間、ワシントンに米国務長官を訪ねたファン・モークは、米提案の調停委員会(以下、調停委)を通して紛争を解決する方が良いと判断して、それまでの尖塔続行案を引っ込めた。そして当委員会の構成メンバーに、蘭国はベルギーを、共和国は豪州を推薦した。豪州は三番目のメンバーに英国を望んだが、英国は蘭・共和国紛争に再度関係するのは御免被ると拒否したので、米国にその椅子が回って、蘭国はこれ幸いとほくそ笑むのだった。
 また、ファン・モークは、共和国政府がインドネシア人官吏の蘭人との協働を禁止した結果、行詰り状態にあった占領地域の行政を軌道に乗せようと、内政関係高官の一人にインドネシア人のウィジョヨアツモジョを任命した。ウィジョヨアツモジョは、50人程の王侯官吏を招待し、西部ジャワ人民による行政施行を検討するためにバンドンで会議を開いた(10月)。そして西部ジャワ暫時自治組織設立への準備を進めるという当会議の決定は、ファン・モークを喜ばせた。ジャワに共和国に拮抗できる親蘭の西部ジャワ国が成立すれば、共和国の求心力は急速に衰えようと踏んだからだ。スマトラでも同じ工作を巡らした。スマトラ東岸のマライ少数民族と自治統治者は共和国よりサルタンによる統治を望んで、7月31日(1947)にメダンで東スマトラ特別領設立委員会が会合を開き、特別領ステイトス授与への請願書を蘭印政庁に出した。当委員会は封建勢力と組んでいたため人民の支持は殆ど得られないものだったが、反共和国運動の盛り上りを目論んで、ファン・モークはこれを将来の東スマトラ特別領暫定議会として承認した。こうして、ジャワにつづいてスマトラでもイ連邦構成国作りを始めた。

単純な子供じみた感傷

 10月27日(1947)に調停委の米国のグラハム、豪州のカァービイ、ベルギーのファン・ゼーランドがバタヴィアに着いた。ホテルに入った委員たちはファン・モークに迎えられ、その足で市内に滞在中のガニ共和国副首相のもとを訪れた。まず会談場所の選定で両者は揉めた。ガニは、蘭国占領地以外の中立の外国の地で行いたいと主張したが蘭国がそれに反対。調停委は米国船上でと提案して、両者が受諾した。船のタンジュン・プリオク入港を待つ間、調停委は停戦を軌道に乗せようと、両者に働きかけた。
 12月2日にレンヴィル号が入港した。だがこの船は代表団全員を収容できなかったばかりでなく、ゆだる様に暑い後方甲板が会談の場だったりして、交渉のできる雰囲気でもなかった。シャリフディン首相、シャフリルらの重鎮からなる共和国代表団とは対照的に、蘭国は本国政府からではなく(国家委は10月13日に解散)、ファン・モークらの高官からなっていた。その上、ファン・モークは東インドネシアと東スマトラ暫定議会の代表をも参加させ、国内事情の形に持っていった。調停委はリ協定を出発点に、交渉を軌道に乗せようとしたが、15日?19日の会談で、両者のリ協定の見解にはなおも大きな違いがあることが明確になっただけだった。そしてレンヴィル会談に前後して起った幾つかの出来事は両者の関係を好転させはしなかった。政治的には、ファン・モークが西部ジャワ国設立を目指して第二回西部ジャワ会議を開き将来のステイトスについて話し合って、共和国に圧力を掛けたこと等があった。軍事的には、両者の残虐行為が後を絶たなかった(中でも、9日に、クラワン王侯領のラワゲデ村を地下抵抗運動の中心と睨んで攻め入った蘭軍が、村民の誰一人武器を所持していないのを承知で150人も殺害し、拘束した20人を尋問後処刑した事件は衝撃の至りだ)。
 戦争再開の気配が濃厚になってきたのを憂慮した米国務省は、グラハムに強硬な態度に出るよう通達して、グラハムらは両国合意への基本線をなす次の政治原則を盛り込んだクリスマス・メッセージを出した。
 「蘭国はジャワ、スマトラ、マドゥラのイ連邦構成国作りを即座に停止し、3ヶ月以内に蘭占領地に共和国行政を戻し、蘭軍は3ヶ月以内に戦前の位置迄撤退し、1年以内に自由選挙を行なう」。これを受取ったファン・モークらは、グラハムはイ革命を米国の対英独立闘争と同じと見て、単純な子供じみた感傷でこの紛争を解決しようとしており、委員には不適任だ、と急にグラハムを攻撃しだした。
 共和国は30日にこれを受諾したが、蘭国は1月2日(1948)にこれへの反対案を出した。調停委、つまりグラハムは蘭の反対案で困難な立場に立たされたが、蘭の反提案に新たに6原則を加えた新提案(以下、グラハム新提案)を作り、戦争の危機を避けようとした。新提案の重要点は、共和国はイ連邦の一つの構成国と称し、蘭占領地で1年以内に人民投票を実施するという規定だった。蘭国はこれも拒否する態度に出たが、マーシャルが蘭国がこれを受諾するか否かに蘭国へのマーシャルプラン援助がかかっていると圧力を掛けたので、蘭国は1月11日に受諾した。
 それからグラハムらはグラハム新提案を持ってジョグジャに向い、四日間の緊迫した折衝の末、共和国にこれを受諾させることに成功した。その際グラハムは、イ連邦の正式設立までの共和国のステイトスは現状維持であることと、蘭占領地での人民投票が必ず履行されるよう監視することを共和国に約束した。人民投票によって、蘭国に奪い取られた地域が血を流さずに帰ってくる……共和国のスローガンは「弾丸から投票券」へと変った。1月17日(1948)に両者はレンヴィル号上で協定に調印した。
 この日、船上の米国旗は元米海軍長官のジョセフ・ダニエルスの死を悼んで半旗になっていた。これを良くない前兆ととった者がいたという。共和国は当協定でファン・モーク境界線後方の蘭軍が占領しなかった内陸地も蘭国地域として認められて、ぐっと耐えねばならなかったが、一年以内の人民投票に非常な期待をかけてこの協定を解釈した。蘭国は、イ群島の蘭国の宗主権が再確認されたと取って、またもや双方夫々の解釈をしたのだった。

共和国内の分裂とファン・モークの連邦構成国作り

 レンヴィル協定はシャリフディン内閣を総辞職に追いやった(シャリフディンは協定調印時に、各政党の当協定への支持を確信していたのだが、自身の社会党のシャフリル派、回教イ人民党、イ国民党がこれに反対したので、23日に総辞職を余儀なくされた)。その後首相に就任したハッタはすぐさまレンヴィル協定を実行に移し、2月末には3万5千の兵力を蘭占領地から共和国地域に撤退させた。ハッタの執った重要政策の一つは必要に迫られての緊縮財政だった。そのために数多くの民兵軍を解散させ俊英の正規軍を作って軍隊の合理化を図ると共に、シリワンギ師団指揮官のナスティオンを共和国軍の鍵を握る作戦参謀長に任命した。また、対蘭政策を変更して、インドネシア人官吏を蘭占領地の行政や蘭側主催の会議に参加させたり、蘭国製の東インドネシアを承認したりして、人民の共和国へのシンパ票を集め、近い将来の人民投票に備えた。
 一方ファン・モークはレンヴィル協定に違反しようがお構いなく、イ連邦構成国作りを続け、東スマトラ、西部ジャワ、マドゥラを国として承認して、共和国を苛立たせた。そのうえ3月18日に再開の蘭・共和国交渉で蘭側は、「共和国は外交関係は持てず、その軍隊を廃止しイ連邦の構成国になる」という以前の要求を共和国に対して固執したので、両者の関係は好転する筈がなかった。
 この間、米調停委員は元在バタヴィア米総領事のドゥボイスになっていた。ドゥボイスは就任当初は、共和国に蘭要求を受諾するよう働きかけたが、進展が見られないままに交渉が1ヶ月半経過した5月初旬に、クリッティリー、スカルノ、ハッタらと蘭占領地からの避難民を収容したディエン高地等を視察してから、その見解を変えていった。蘭海軍の港湾封鎖で悲惨のどん底にある共和国に、軍隊の廃止を要求するとは不条理の極み、再び戦争を招くことになるとドゥボイスは憂慮した。ドゥボイスの態度の変化を敏感に感じ取ったファン・モークは、共和国との交渉を楽観しなくなった。そこで、再度の武力行使に入る前にイ連邦の形を整えておこうと、蘭印政庁が承認した13の国や地方の長を、連邦の政治構造について話し合うためにバンドンに招待した。この通称バンドン会議(5月27日開会)には、共和国は招待されていなかったから、ドゥボイスらは、ファン・モークらは共和国の要求を何一つ受諾するつもりがない証拠だと結論を出した。
 ドゥボイスの脳裏には避難民の悲惨な姿が焼付いて離れなかった。「バタヴィアでは毎晩高級酒の栓が抜かれる退廃的な蘭人の生活があるというのに。是非、交渉妥結に」と決意を固めたドゥボイスはクリッティリーと検討後、12月に新提案を出した。その核心は、「共和国をジャワ、マドゥラ、スマトラ人民の唯一の代表とする。早期に立憲議会選挙を行ない、議会は大統領を選び、大統領は首相を任命し、暫定連邦政府を作る」にあった。共和国はこれを歓迎したが、蘭側は考慮の余地なしと拒否して、6月16日に交渉を中止した。

カトリック国民党の方針

 本国政府はどちらかと言うと、蘭・イ連合の設立に力を注ぎ、その準備に着手して、2月(1948)に9人の上・下院議員からなる委員会を発足させ、3月1日の閣議で蘭・イ連合設立草案を規定した(連合は、外交・軍事・財政・経済・文化分野で、連合内閣が決定し、連合総会が監査するという形態をなす)。つまり、この形態は、二つの主権国家の協働体制(リ協定に規定)とはかけ離れていた。7月にカトリック国民党、労働党、自由民主国民党、キリスト教歴史連合の連立内閣が成立して、カトリック国民党党首のロメは自党のサッセンを海外領土相に就かせると共に、ファン・モークが政府草案の蘭国王の権威を大きくした蘭・イ連合(以下、‘重い’蘭・イ連合)にそって共和国と交渉しないと踏んで、ファン・モークの交替を提案した。
 首相に就任早々の労働党のドゥレース首相は、1942年来の蘭印政策の第一人者であるファン・モークを交替させるのは微妙な項目であったから、ユリアナ女王載冠式に出席するよう帰国を要請し、その時にこの件を切出そうと決めていた。ところが、微妙な事とは考えなかったのだろう、新海外領土相のサッセンは、「政府はイ群島の国王代理を交替する所存であり、貴殿が他の高い重要なポストを受諾することを強く要請する」という弁護士文書まがいの小書簡をファン・モークに書き送って、政府の意向を伝えた。ファン・モークが深く傷つけられたことは言うまでもない。仕事半ばにして、蘭印を去らねばならぬと思うと無念でもあった。
 こうして、7月の総選挙の結果、蘭印政庁の長がファン・モークからベールに、海外領土相にカトリック国民党のサッセンがなって(同党の方針に従い)、蘭政府は‘重い’蘭・イ連合設立を目指し再度の戦争もやむを得ないという政策でいくことになった。だが、蘭・共和国紛争の成行きは東南アジア情勢にも係わっていた。

冷戦は東南アジアにも及ぶ

 東南アジアに於ける冷戦は、ゴム農園企業と錫鉱山があったマラヤ連邦ペェラ州北部のスンゲイ・シプット村で始まったといえよう(1948年6月16日の、ゴム農園企業エルフィルでの三人の中国人青年による英国人管理人射殺事件、及びスンゲイ・シプット農園企業での12人の武装中国人による2人の英国人管理人殺害事件)。しかし突然このような事態が生じたわけではなく、マラヤはすでに長いこと不穏な状態にあった(1946年1月にシンガポールでマラヤ共産党が主導する労組のゼネスト。ゴム農園企業や錫鉱山労働者のスト。マラヤ共産党の対英国ゲリラ戦の開始等)。また、2月(1948)にカルカッタで開催された共産主義者の自由独立闘争東南アジア青年学生会議やビルマ共産党過激派の政府農業政策の革新を旗印にした武装蜂起があった(1948年3月)。こうした一連の出来事は、ソ連が指導して東南アジアを共産圏に巻込もうしているかのように見えたが、実際には、主にその地域社会の各種の問題に起因したものだった。しかし米中央情報局は9月(1948)に、ソ連は扇動者、プロパガンダ、地元共産党を通して植民地の民族主義運動に積極的援助をしているとトルーマン大統領に報告した。
 いずれにせよ、在プラハ共和国代表のスリプノが5月22日(1948)にソ連と領事友好関係を結んだのを、観測筋は偶然の成行きとは見なかった。対蘭紛争に米国の支援を願う共和国政府は、このことで困った立場に置かれて、スリプノをジョグジャに呼び戻した。スリプノは8月11日にジョグジャ入りした。その時彼に同伴していたのはベテラン民族主義運動の士ムーソ(コミンテルン本部で働く)だった。スラバヤで同じ屋根の下にいた同志のムーソをスカルノは歓迎したが、ムーソの本国への帰郷は共和国政策を革新路線に乗せるためだったから、再会の喜びは直ぐに悩みへと変っていった。
 9月上旬にムーソの共産党はジャワ各地で革命を説いて回り、民衆に熱狂的に受けて、バタヴィアの米領事館はこの動きに憂慮せざるをえなくなった。そして9月18日にマディウン共産党が反乱を起し当市の権力を握ったことをきっかけに、ムーソは共産革命を遂行しようとした。
 反乱の報にムーソら共産党執行部はマディウンに急行し、待機態勢に入った。素早く反乱鎮圧に出たスカルノはラジオ放送で「親愛なる人民よ、諸君は自由インドネシアへの希望を壊そうとしているムーソらか、全能の神の助けでわれらの共和国を独立へと導いているスカルノとハッタかのどちらかに決める試練に立たされている」と人民に訴えた。その1時間半後に、ムーソもラジオ放送で「スカルノとハッタは日本占領時には売国奴、労務者と補助兵の売買業者だった。2百万人の犠牲者が出たのは2人の責任。今は米資本主義にイ群島を売ろうとしている」とアジ演説をして対抗した。
 だが反乱軍は、スカルノが送ったシリワンギ師団に太刀打ちできず、マディウンを出て山間部でゲリラ戦に出たが、スカルノを信奉する内陸農村人口の支持が得られなかったので、ムーソは10月31日に戦死し、シャリフディン(前首相)は12月1日に逮捕されて、共産主義革命は本格的に始まる前に息切れてしまった。

山頂のモーゼ  ※注

 蘭国はマディウン反乱を共和国に武力行使をするまたとない機会だと見た。その時本国にいたファン・モークの意見を入れて、蘭国は反乱を一緒に鎮圧することをハッタ首相に提案すると決めた。しかしハッタは、国内事情への蘭国の介入は、共和国は絶対に認容しないと言明し、その数日後に反乱を鎮圧したので、蘭国が介入の余地はなかった。
 一方、交渉は、ドゥボイスらの六月付提案を蘭国が拒否したので、行詰まりになっていた。7月には米委員の交代があって、委員には長い外交歴をもつコクランがなった。バタヴィアに赴任早々のコクランは、交渉を再開しないと、ハッタ政府は共産主義者に倒される危険性が大だと判断し、協定案作成に取りかかり、9月7日に仕上げ、マーシャル国務長官と各関係者に手渡した。長官は本提案に同意すると共に、「共産主義の圧制に対抗するために、米国はインドネシア民主主義政府を支援する用意がある」と重ねて強調した。マーシャル国務長官がここで民主主義政府という言葉を使っているのは特異だが、何れにしても、米国は共産主義の進出があったために、共和国側に傾いたといえよう。
 コクラン提案は、1949年1月までに連邦議会選挙を行う、暫定連邦政府及び平等関係に立つ二つの主権国家によって構成の蘭・イ連合設立、連邦軍は共和国軍から編成する、等の内容だった。蘭政府は、蘭国の希望が一つも考慮されていないとして、米国務長官と直接交渉をと、スティカー外相を米国に送ったが、これも効果はなかった。長官は一時間足らずの冷淡な応対をして、アジア民族主義は、米国がフィリピンに取った政策(自由意志でフィリピンに独立を与えた)を蘭国は見習うべきだと厭味を言ったうえに、夜の晩餐会では、マーシャル国務長官は3時間もご機嫌で過して、スティカーに当て付けがましくしただけでなく、その後の話合いはロヴェツ次官にさせた。次官は、共和国の共産主義の脅威への戦いを支援するためにも、コクラン提案の早期受諾が望まれる、と米国の見解を明らかにした。
 共和国政府は共産主義者の反乱を鎮圧したうえに、条件付きではあったがコクラン提案を受諾して、米国に非常な好印象を与えたが、蘭国は「共和国の停戦侵害、テロの継続、その他の破壊活動」と銘うつ表を添えた書簡を提出し、コクラン提案を拒否して、米国を苛立たせた。コクランは、このように石頭の蘭人相手では、武力衝突は避けられないようだとマーシャルに電報を発したが、それだけは避けたかった。ちなみに、コクランの会談相手はベールに変っていた。
 ベールのバタヴィア到着(11月3日)の前日に、ファン・モークはラジオ放送を通して彼の蘭印に別れを告げた「蘭国とインドネシア(蘭印の正式名は1948年9月20日から「インドネシア」となっていた)の協働には計知れない価値がある。両者は将来も強い絆に結ばれて大きく成長していく。われわれはニーボウ山頂にいる。約束の地にはまだ行き着いていないが、それはもう目前に見えている」。
 
※ 注 ニーボウ山頂からモーゼが死の直前に約束の地カナーンを遥かに見たという話。


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