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オランダ史の語る、オランダ領東インドの日本軍占領とインドネシアの独立 近藤紀子
第8回 蘭国の武力行使
リンガジャティと植民地の平和的解消への機会

 11月11日に蘭国家委はリンガジャティへ出発した。バタヴィアからチリボンまでの飛行艇での旅は順調に行ったが、チリボン沖に停泊中の駆逐艦ブランケルツに乗船しチリボン港に入港の際には、蘭人官吏が共和国側と交渉をして、やっと共和国の小船の後についていくことで入港が許された。チリボンから華僑の百万長者クウェ氏の豪邸(会談のために提供してくれた)のある高原の地リンガジャティに向かった。スヘルメルホールンはスカルノとハッタから強烈な印象を受けたようで“スカルノは、人民が受諾できる交渉結果へと運ぶことを常に念頭に置いた、人を魅了せずにはおかない非凡な能力の持主で、ハッタは理知的で客観的に物事を判断する西欧的な政治家だ”と述べている。
 共和国は「蘭・イ連合は二つの完全主権国からなり、蘭国王を連合の長とするのは、拒否する。イ連邦の一つの自治国という従属的地位は、希望しない」との見解を出し、蘭国は、「蘭・イ連合下の蘭国とイ連邦は国防と外交は各自で行い、経済及び文化分野だけを連合を通してやるということで、戦前の蘭王国に戻ることではないが、必ず蘭国王を連合の長にしたい。共和国はイ連邦の構成国であり、自ら外交関係は持てない」との見解だったから、両者間には大きな見解の相違があった。ところが12日夕刻の再交渉で、両者は意外に早く歩み寄りをみせた。
 この時、シャフリルは頭痛がひどくて欠席していた。スヘルメルホールンは、事前にファン・モークと約束したイ連邦を“主権イ連邦”とするという案をスカルノに提示すると、スカルノはただちにこれに同意して、主権イ連邦が早期に設立されるということであれば、蘭提案の他の項目も受諾する用意があると言った。こうしてリンガジャティ協定(以下、リ協定)が成立した。協定にはこう記されていた:蘭政府は共和国のジャワ、マドゥラ、スマトラにおける事実上の権威行使を承認し、ここの蘭軍・連合国軍占領地域は徐々に共和国に併合される。蘭国と共和国は協働して1949年1月1日までに主権イ連邦(旧蘭印全域、暫定的に共和国、ボルネオ、東インドネシアを構成国とする)を成立させる。共通の利益追求のために、蘭国王を長とする蘭・イ連合を設立する。その間、両者間に相違が生じた場合は、仲裁を通す。
 リ協定はスカルノには論理的な駒の進め方だった。イ連邦の主権獲得は、イ群島人口の80%は共和国が権威を持つことになる地域に住んでいるから、共和国が主権を得ることになり、平和的方法で完全独立に至ることができるとスカルノは踏んだからだ。しかし、蘭本国では、植民地主義を信奉する者たちが反リ協定運動を起こした。蘭・イ連合が蘭王国の継続ではなかったところに反対の理由があった。11月22日には元海外領土相のウェルテル、最高裁長官ドナー等の著名人が、“蘭印の7千万人の蘭国民の権利の保護と福祉に政府は責任がある。蘭国憲法に反するリ協定に賛成すべきでない”との書簡を政府に送ったし、30万人が署名した嘆願書を女王に提出したりもした。
 外国の反応は肯定的だった。ベヴィン英外相は喜ばしい事だと述べ、米国は、本最終規定(と米国は理解した)に満足していると表明した。しかし蘭政府は、戦後の世界情勢が変容したことは理解できても、蘭印との別離は何が何でもできないと、国家委(三人は政府の要請で一時帰国していた)の説明文書と政府宣言文書を添付して、リ協定に着付けをして(裸〔原形〕のリ協定に着付けをして=飾って、というほどの意味)、これに限って受諾することにした。
 説明文書には何頁も複雑な文章が書き連ねてあったが、言いたいことは、蘭・イ連合は蘭王国の継続であり、外交も国防も連合がする、にあって、“連合の長の蘭国王のイ連邦での権威についての問いは、蘭政府は考慮中である”と曖昧に記していることからして、イ連邦に主権を与える考えは毛頭なかったようだ。政府宣言文の主旨は、「蘭国の天職たる蘭王国内の全民族の保全を守り続ける」にあった。

二つのリ協定

 共和国は、リ協定でジャワ、スマトラ、マドゥラの合法の国際的に承認された統治者として受諾され、これから形成される主権イ連邦で強力な地位に就けると踏んだのであったが、蘭国は蘭国王の権威を交渉時のそれよりもずっと大きくした、着付けをしたリ協定(以下、着付けリ協定)を共和国に提示してきた。ちなみに、共和国のリ協定の解釈は、両者がリンガジャティで達した原形協定(以下、原形リ協定)に近かった。そうではあったが、共和国政府は協定を議会に通過させるために最善を尽くした。議員の過半数は当協定に反対の回教共和国砦運動に入っていたから、スカルノは、協定反対派議員が議会で過半数を占めないように、また、外領地域からも代表が送れるように、議席数を200から514に増やし対処して、協定は3月5日に議会を通過した。一方、蘭国家委は、“着付けリ協定をリ協定とすることを義務付ける”という政府与党の動議によって、着付けリ協定で共和国と交渉を進めなければならなくなり、困難な立場に立たされた。
 「共和国はリ原形合意に限って調印する用意がある。着付けリ協定は原形合意を強姦するものだ」というスカルノ声明がすべてを説明していよう。国家委もファン・モークも、武力行使はできる段階ではなかったので、何らかの方法で、双方が協定に調印しなければならないとの見解だった。その関係で、国家委のファン・ポルは、「蘭国は着付けリ協定に署名し、共和国は原形リ協定にのみ署名する」と提案して、最終的には双方はこれを受け入れた。
 1947年3月25日に、リ協定はレイスウェイク王宮で調印された。だが協定調印は紛争を一歩も解決に近づけなかった。共和国は原形リ協定を固持し、一歩の譲歩も見せなかった。国際社会に承認され(アトリー英首相は3月31日に、共和国をジャワ、マドゥラ、スマトラの事実上の権威として承認すると言明、米国は4月5日に、スマトラ、ジャワ、マドゥラを共和国の事実上の権限範囲として承認)、国際舞台にも出、共和国は強い立場にあったから、この強硬な態度は当然だった。
 一方、蘭政府はあれこれ検討の末、5月27日に外交文書を送って、着付けリ協定の受諾を要請し、イ連邦設立までの間ファン・モークが決定的権限を持つ暫定連邦政府の設立を提案した。共和国はこれに回答し、暫定連邦政府での共和国の強力な地位、共和国の大使・領事館を置く、ジャワとスマトラの治安維持は共和国警察がする、を要求してきた。共和国のこの強引な態度に、蘭側は平和的解決をあきらめ武力行使に傾いていった。
 その間の世界情勢は、3月12日にトルーマン大統領が、自由諸国へのソ連の進出を阻止する封じ込め政策を説いた「トルーマン・ドクトリン」を打ち出した。共産主義の脅威は西欧が一番大きかったから、米国は植民地宗主国本国の経済再建を重要視した。
 しかし米国務長官マーシャルの「東南アジアの西欧プランテーションの生産再開が第一に望まれる。本国の経済再建につながるからだ。それから、民族主義者の意を汲み入れたい」との発言からもわかるように、植民地国家の利益を考慮し、民族主義者の要求をも入れ、問題を平和的に解決するのが米国の持論だったから、武力行使に向かっている蘭印情勢は米国を失望させた。
 蘭政府は平和的解決への最後の試みとして、米・英に特使を送り、着付けリ協定を共和国が受諾するよう説得してほしいと願い出た。両国はその内容の書簡を共和国に送ったが、共和国の回答は蘭国が満足するものではなかったから、蘭国は共和国に最後通牒を送った。シャフリル首相は6月19日にラジオ放送で、蘭国が共和国に戦争を仕掛ける意向であることを知り驚愕して、その取り止めを要請し、ファン・モークが決定的権限を持つ暫定連邦政府の早期設立に同意した。この大譲歩にもかかわらず、蘭政府は、27日までに着付けリ協定に同意することを願うという最後通牒を23日にシャフリルに手渡した。24日にジョグジャに来たシャフリルは、誰の支持も得られないのを知って27日に辞任した。すべての権力を自分のものにしたスカルノは、同日夕刻9時に、「共和国の事実上の権威の行使を蘭国は承認すること。暫定連邦政府への蘭王国代表の参加に共和国は異議はないが、国王代理には決定的権限はない」と回答して、蘭要求を全面的に蹴った。
 米国は、共和国が半数の暫定連邦政府を早期に設ければ、蘭印経済再建に財政援助をすると説得にかかった。蘭国は、米国の要請であったから、武力行使に出るわけにもいかず、29日に共和国に再度蘭要求への同意を求めたが、新首相のシャリフディンはこれを拒否した。7月15日にまたまた最後通牒(19日までに全共和国軍人は前線から10キロは後退すべしなど)が渡されたが、シャリフディン首相はこれを拒否する通牒を蘭側に手渡した。蘭国の援助と指導を頑なに拒否する共和国の態度に、武力行使は最早避けられないと理解したファン・モークと国家委は、武力行使を決定して、本国政府に提案した。政府はほとんど満場一致で武力行使を可決し、18日に「7月21日午前零時に『プロダクト作戦』開始」とスポール司令官に通達した。こうして蘭国は国際的に承認された共和国に戦争を仕掛けたのであった。蘭政府がこの戦争をあの当時からずっと「治安活動」と称してきているのは、かなり正当性に欠ける。当時の政府は、これはあくまでも国内事情であると示唆する意図があって、こう称したのであった。


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