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オランダ史の語る、オランダ領東インドの日本軍占領とインドネシアの独立 近藤紀子
第7回 混乱する蘭・イ連合
スマトラ島における革命

 独立宣言の報が何週間か後に入った外島地域では、革命はいかに進展したのだろうか。
 スマトラ北端のアチェでは、現状に不満をもつ回教聖職者とプムダ組織が12月(1945)初旬に革命を掲げてピディエで暴動を起こし、アチェ地方長官を辞任に追い込んで、地元イ人民委員会が実権を握った。そして革命暴徒は王侯の家に押し入り略奪し、彼らを片っ端から殺害した(ピディエの25人の王侯の長の中、二人だけがこの大虐殺を生き延びたというから、凄まじい暴動だった)。その後、2月(1946)末にアチェ東部から人民戦闘軍が進軍を開始し3月に首都クタ・ラジャを占領すると共に、全アチェの王侯官吏を留置して、アチェ革命は完成した。革命は3月にスマトラ東岸に飛び火し、第26英印軍師団のメダンやその周辺への進駐(10月10日より)が切っ掛けとなって、暴動は激化、過激派プムダらは蘭人や親蘭の同胞を殺害したり、日本軍からできるだけ沢山の武器を奪い取ろうとした。そして武器をめぐって、メダン南東の地ツビンチンギは大惨事の舞台と化した。プムダらが武器引渡し交渉の際に、人質に取った日本人官吏らとデンマーク人宣教師を殺害したことから、日本軍は12月13日に残虐な報復行為に出た。ツビンチンギを包囲し4日間にわたって2千人から5千人の村民を殺し、見せしめのために数十本の杭に刺した打首を街道沿いに晒した。
 この事件から、共和国指導者は当分の間、外国駐屯軍に反抗するのは禁物だと判断して、過激派プムダにもそれを納得させた。スマトラ連合戦闘党等の過激派はそれ故に、攻撃の矛先を封建勢力に向けて、東岸のサルタンや王侯の中には共和国側に付いた者もいたのに、彼らは誰も彼も蘭権威の復帰を支持していると決め付け、3月3日にクーデターを起こし封建勢力を根こそぎにした。スマトラ西岸のパダンやブキチンギでは、独立宣言後に、共和国派行政が素早く主導権を握り、6月25日に村議会選挙を行なって、封建勢力の地元有力者を権力の座から下ろすことに成功した。このように、封建勢力が台座から落とされたということは、言いかえれば、蘭権威の復帰は最早望めないということだったから、スマトラの革命は、強力な共和国行政が布けたわけではなかったが、完全だったと言えよう。

ボルネオと大東の情勢

 ボルネオと大東(セレベス、バリ、モルッカ諸島の東部の島々)は豪州軍が蘭印民政と一緒に戦後処理に当った。南及び東ボルネオでは、共和国が任命した現地人官吏が蘭印民政と協働したので、反蘭の動きはほとんどなかった。だが貧困に喘ぐ人民は、「輸出入組織」が戦前のままの傲慢な態度で事に当ったのも原因となって、共和国支持に走ったし、重要都市バンジャルマシン周辺の知識人・中産階級の95%は共和国シンパだった。そのうえ蘭権威の復帰に使える封建勢力はいなかったから(東ボルネオの彼らの社会的地位は弱かったし、西ボルネオでは、日本軍が原住民の長とその家族をほとんど殺してしまった故に)、問題は大きかった。
 モルッカ諸島では(豪州軍と蘭印民政を大歓迎した)、9月22日に首都アムボンで蘭印民政が引継ぎをした時、共和国支持層は極めて薄く回教徒だけと判明した結果、アムボン人を行政の重要職に就けて、戦前の社会体制が比較的早く復活できた。
 セレべスには、反蘭の力強い革命運動が起った。日本軍政末期に、地元の王侯と西洋教育を受けた民族主義者が一緒に「建国への人民血液源」名の民族主義運動を結成して、独立宣言後にスカルノによって全セレベス知事に任命されたラツランギを実質上の長とした。慎重なラツランギは、外国駐屯軍と問題を起したくないとの配慮から、8月24日の首都マカッサル赴任と同時に共和国派行政を布くような愚かなことはしなかったので、その1カ月後に入った豪州軍と蘭印民政は、この分なら蘭権威復帰は簡単だと思った。しかしすぐに、アムボン人軍人からなる蘭印軍対プムダ等の小競合いが始まって、スマラン‐スラバヤ戦の報が入ってくると、プムダらは蘭印民政の事務所、蘭印軍の陣地、復帰してきた蘭人を襲撃して、騒動は激化した。4月5日にラツランギ知事と民族主義指導者らは逮捕されたが、これが革命運動の最期ではなかった。

マリノ会議

 ファン・モークは前回の会談の失敗後、ボルネオと大東に親蘭のイ連邦構成国を作り、これをモデルに、共和国も連邦構成国になるよう説得するという新政策を打出した。彼はそこで、蘭国に忠誠を誓う島々の会議を7月16日に開催した。会場の高原地マリノ(セレベス島)の礼拝堂に集まった39名の代表は、いうまでもなくほとんどが伝統勢力で、彼らは色彩豊かな装束を着けて会場を埋めていた。大方は、「蘭王国との協働を継続保持するイ連邦を形成し、その連邦の構成国として、大東国(後に東インドネシアと改称)を設ける」というファン・モーク提案に賛成した。
 マリノ会議の結果にファン・モークは有頂天だったが、ヨンクマン海外領土相は生温い反応を示しただけだった。そのうえマリノ会議は激烈な反蘭運動を招き、ボルネオと大東に却って騒動をもたらした。特に南セレベスでは、民族主義者や「インドネシア・プムダ」の反蘭活動で王侯は窮地に追込まれ、自ら彼らを取締まる許可を蘭印当局に要求した一方、地方長官は「インドネシア・プムダ」の禁止を検察庁長官に要請して、この組織は禁止されたが、その後、幾つかの抵抗組織は「セレベス人民奉献軍」を結成し排蘭テロに出、暴動は激化して、地方長官は11月に政庁に戦時体制公布を要請した。ファン・モークは公布を出し、100人有余の兵力からなるテロ撲滅特別部隊(ウェステルリング大尉の指揮下)を送った。
 ウェステルリング(1945年9月に落下傘でメダンに降下)は、現地民を蘭側につかせるには、テロ行為の疑いのある者は、その場で、しかも他の村民の目前で銃殺するのが一番効果的だという確信の下に、村から村へと進軍し、5000人あまりの南セレベス人民を殺害した(村民を10人ほど並ばせ、誰が騒動を企てているか言えと任意の村民に命令し、恐怖に駆られた村民が最初に目に入った人を指差すと、その者を含む全員を射殺した。それから次の10人と、この動作を3回繰返し、罪もない30人もの死体を後にして次の村に入っていった)。
 蘭行政がウェステルリングに残虐行為を自由にやらせたということは、蘭国はテロ行使でしか権威維持ができなかったということであって、マリノ会議の世界と南セレベスの現実とは月とスッポンの違いがあった。
 12月にデンパサル(バリ島)で続マリノ会議が開催されて、東インドネシア国創立を議論した。そして同24日に東インドネシアは南セレベス代表のナジャムーディンを首相に、バリ王侯のアナ・アグンを内相に、マカッサルのジャワ銀行のハメリンクを蔵相にして誕生、ファン・モークのイ連邦は形成の第一歩を踏出したのだった。

そちらでは事実のもとに、こちらでは原則のもとに生きる

 蘭本国には、7月3日(1946)にカトリック国民党と労働党の連立内閣が誕生して、戦時を日本軍抑留所で送ったヨンクマンが海外領土相になった。ファン・モークは自身のイ連邦実現のために、政府に蘭印への政府代表団の派遣を要請した。蘭印問題の最終決定権は海外領土相にあったから、政府に現地に登場してもらいたいという理由からだった。こうして9月14日に、スヘルメルホールン、ファン・ポル、ドゥ・ブールの国家委員会(以下、国家委)が交渉妥結を目指してバタヴィアに出発した。
 蘭国家委・共和国交渉が東南アジア特別委員キルラーン卿を座長に開かれた。会談項目にある停戦では、シャフリルは蘭兵力派遣の完全停止を要求したが、最終的には、両者(一方に英・英印軍と蘭軍、他方に共和国軍)の兵力安定という観点から、約4万の英・英印軍が撤退するので、蘭国は兵力を派遣してもよいこととなった。
 10月14日に両者が調印した停戦協定は蘭国家委の気を引立たせて、英・英印軍が撤退する11月30日迄には全項目の基本協定を締結する決意を固めた。そして10月24日に国家委は、ファン・モーク案の「1948年12月1日までに蘭国王を長とする蘭・イ連合(この段階から、蘭本国とイ連邦からなる‐注近藤)を設立し、イ連邦内で共和国はジャワとスマトラの権威を持ち、蘭国はボルネオと大東の特殊責任を負う」という提案をしたところ、共和国は、蘭国王を連合の長とし、連合に影響力を持たせるのは受諾出来ないとの意見だったが、蘭側の、連合は連合構成国のある種の共同利益促進をするだけという説明で、安堵した共和国は、当案を、次回はスカルノとハッタも同席してリンガジャティで検討することを蘭側に提案した。本国政府は、影響力ある連合ではなかった故に、国家委を激しく非難したが、渋々リンガジャティ会談への許可を出した。


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