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オランダ史の語る、オランダ領東インドの日本軍占領とインドネシアの独立 近藤紀子
第6回 シャフリルの失墜とスカルノの台頭
蘭王国と共和国の政治的せめぎあい

 蘭国がわが民族の自決を認める用意があるならば、蘭国との話し合いに応じようと発表したシャフリルと、ファン・モークは非公式に話し合った。ファン・モークは、シャフリルは共和国内で発言力が弱いので、譲歩はできない立場にあると踏んで、次の構想を出した。すなわち中部ジャワに武力介入し共和国過激派を倒し、安全地帯を設け、シャフリルの穏健派と交渉に入る、というものだった。マウントバッテンも同じ意向だった。ネルーの国民会議派の必勝が予想される来たる3月中旬のインドの州議会選挙の前に、英・英印部隊を政治的にも軍事的にも泥沼の様相を深めてきている蘭印から撤退させねばと考えていた。無責任な蘭軍人の行動に苛立ちながら、長く駐屯すればする程、英・英印軍の士気を挫くことになる。だが英国が品位をもって撤退していくためには、蘭と共和国の交渉の妥結が必要だった。西部ジャワの一部に武力行使をし安全地域を設定すれば、協定は成立しようとマウントバッテンも踏んだ。
 12月27日にスヘルメルホールン首相らの蘭政府代表団は英首相を別邸に訪ね、英国の武力介入案等を打診した。ところがその席上、クリスチソン司令官が中部及び東部ジャワの日本兵の武装解除と英軍に引渡す業務を共和国軍に依頼したとの報がバタヴィアから入った(これは英国が共和国軍を承認したことを意味した)。そのうえさらに蘭政府が知らなかったことがまだあった。それは、英国は西部ジャワでの武力行使案をやめて、バタヴィアだけの限定作戦に切替えたことだった。因みに、「パウンス作戦」名のこの作戦は、両国首相が会談中に実行されて、英・英印軍はバタヴィア市内と周辺の村落を徹底的に洗って武装した現地人を摘発したので、街はかなり平穏を取戻した。
 約束が違うとの蘭国の苦情に、アトリー首相は、蘭国と責任あるインドネシア人指導者との交渉を可能にすることと、戦争捕虜と被抑留者救助だけが英国の任務であると答え、ベヴィン外相は、わが軍をその後すぐに撤退させたいので、3月までにシャフリルと交渉を始めるようにと言明した。
 そこで蘭政府は、英蘭関係の好転を図ろうと、英蘭関係に影を落としている軍部トップのヘルフリフ(海軍)とファン・オイエン(陸軍)を本国に呼戻し、その後任にピンケ海軍少将とスポール陸軍少将を任命した。英国も蘭国に親善の意を表して、クリスチソンを昇進させ、その後釜にモンタグ・ストップフォード陸軍中将を、そして早期交渉妥結のために、腕利きの外交官クラーク・カーをバタヴィアに派遣した。
 かなり安全になったバタヴィアで蘭国と共和国は交渉に入れると見たマウントバッテンは、3月からわが軍を撤退させる故、蘭軍による引継ぎを許可するとスポール蘭司令官に伝えた。こうして3月9日に、最初の蘭部隊である蘭陸軍U-旅団が上陸し、バタヴィア外郭の英軍の陣地を引継いだ。
 撤退の準備態勢に入った英国は、早期の交渉開始を要望したが、2月10日付の蘭提案は共和国が目指す完全独立とは似ても似つかないものだったから、シャフリルは攻撃の矢面に立たされ(特に連合戦闘党からの圧力)、23日に辞職を余儀なくされた。共和国はその3日後に議会を開き、スカルノは、プムダ党と回教マズミ党からも入閣させるとの前提条件をシャフリルに承諾させ、彼を首相に再任命して、完全独立を基本線に交渉を進めるよう取り計らった。スカルノはまた、タン・マラカらは共和国を危険に陥れると判断し、マゲラン軍警に逮捕させ刑務所に送り込んだ。こうして共和国はスカルノの手腕で交渉に入れる態勢を整えた。
 クラーク・カー卿を座長に3月13日に開かれた第1回英・蘭・共和国交渉で、シャフリルは2月10日付蘭提案への共和国の回答を出した。すなわち「共和国は建国に際し、この地を知り尽くしている蘭国との協働を高く評価しているが、それは同等の地位に立った協働でなければならない。共和国は、蘭国が共和国をイ群島の主権者として承認することと蘭部隊のここからの撤退を要求する。これが満たされるならば、蘭国と共和国は特定の期間、連邦関係を結んで、この連邦が外交と防衛を受持つ」。
 シャフリル提案は両者の継続協働への道を大きく開いていたが、そのためには、蘭国は蘭印の主権を放棄しなければならない。しかし、それはできない相談だった。かといって、他に代案がなかったから、これを全面的に拒否するわけにもいかなかった。その折しも、ファン・モークに難局打開への道が開けた。3月6日に、仏国とベトナム民主共和国ホーチミン主席とが協定を締結して、仏国が仏連合下のインドシナ連邦の一つの国としてベトナム民主共和国を承認するのと交換に、ホーチミンは仏軍のトンキンへの進駐を受諾した。ここぞとばかり、ファン・モークは本国政府と相談もなしに、「蘭国は共和国のジャワとスマトラにおける事実上の権威を承認する。共和国は蘭国連合(蘭本国、スリナム、蘭領西印、イ連邦からなる)を構成するイ連邦自由国家の結成に協力する」という案を作成し、3月30日の会談に臨んだ。
 ファン・モーク提案はシャフリルには魅力がなくもなかった。蘭国が正式協定で共和国を承認することを、完全独立への一歩と見たからだった。会談後ファン・モークは、双方の見解は非常な歩み寄りを見せたと声明を発表するとともに、当妥協案を本国政府に提示するために、スーワンディ法務相らの共和国代表団と蘭国に向かった。ところが蘭政府は、「交渉の目的は、共和国は蘭王国の構成国の一つであるイ連邦のジャワを代表する(スマトラはその限りにあらず)自治国である、という協定にもっていくことにある」と、バタヴィア妥協案を拒否したので、蘭国での蘭・共和国会談は何らの歩み寄りも見せないままに4月24日に終了した。

日本兵と蘭人の抑留者移送に秩序を示した共和国

 一方、共和国政府は、ジャワの治安を図って権威を提示する必要に迫られて、1月9日(1946年)に英国と「共和国軍が共和国保護抑留所内の蘭人捕虜・被抑留者をバタヴィアに安全移送する」との合意に達し、英軍のトラックと武器で装備した約1000人の共和国兵特別部隊を編成し移送を行った。1月末から始められた移送は、4月末に英国が輸送機を提供して、やっと軌道に乗ったが、4万5千人の捕虜・被抑留者と3万5千人の日本兵をジャワの内陸部からバタヴィアに移すのに1947年5月末までかかった。こうして共和国は8万人もの蘭人と日本兵を安全に移送して、ジャワの治安は予想以上によいと世界に明示したのだった。
 その間、共和国政府の鎮圧活動にもかかわらず、なおかつ勢い盛んな過激派は、タン・マラカの留置に報復して、武力でスラカルタ王侯領の権力を握った(6月1日)。このような状況下で、シャフリルは蘭国との交渉を再開すべく17日にファン・モークに、「蘭国が共和国をイ群島の主権者として承認することを要求する」を中心とした新提案(3月13日提案とほぼ同じ)を送った。これは‘7月3日事件’と称されたシャフリル誘拐事件の契機となった。事の次第は、交渉経過が蘭国朝刊紙『ツラウ』に漏れて、『ツラウ』がこれを掲載したので、革命過激派は、蘭提案の蘭国によるジャワとスマトラだけの権威の承認に、シャフリルが同意したことと理解して、彼に裏切り者の汚名を着せた。
 シャフリルは27日にスラカルタ訪問中に軍人グループに誘拐され、ススフナン領主の別邸に囚われた。スカルノはジャワに非常事態を布き、シャフリルの即時釈放を要求した。奇妙なことに、シャフリルはすぐに釈放になって、誘拐者たちは逮捕されたが、7月2日に早くも釈放された。そして、その翌日、スカルノに内閣の大幅な入替えを陳情に行ったところを誘拐者たちは逮捕されて、権力の座に就こうとした軍人らと革命過激派の試みは失敗に終わった。7月3日事件はスカルノに共和国の権力をほしいままにさせて、10月2日にスカルノ支持者が大半を占める第三次シャフリル内閣が成立して、シャフリルは従来通り、対蘭交渉を続けることになった。


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