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オランダ史の語る、オランダ領東インドの日本軍占領とインドネシアの独立 近藤紀子
第5回 シャフリルとスカルノの権力争い
ファン・モークの新方針とシャフリルの『我らが闘争』

 中部ジャワとスラバヤでの英国対共和国戦をきっかけに、ファン・モークは、ジャワの再占領は一時見合わせて外島地域の再占領を第一にするという新方針を編み出した。その際、ファン・モークは側近のイデンブルフとファン・デル・プラス、アチェの戦いでベテランとなったスヒリング蘭印軍部隊長に意見を聞いた。「ジャワ民衆の大方が一揆に参加して植民地権威の復帰を拒んだことからして、権威復帰を武力で解決することは最早不可能だ」というのが3人の見解だった。さらに、スヒリングは自己の体験から割り出して「ジャワの再占領には、3年間の歳月と完全武装のよく訓練を受けた5個師団、つまり7万5千から10万の兵力が必要で、それはわれらが植民地支配の歴史にその類をみない大型戦争ということになるから、蘭国民がそのような高額の負担をしないことは明瞭だ」とも付け加えた。
 そうすると、蘭国に残された唯一の方法は共和国との交渉であり、同時に外島地域の蘭権威を早急に復活し、経済的に外島地域にまったく依存している共和国に対する蘭国の交渉での立場を強くするという結論が出された。この結論をもとにして、ファン・モークは新構想(イ連邦形態、ジャワの権威は共和国に、外島地域の権威は蘭国に、共和国はイ連邦下の自治国)を打ち出し、11月25日に本国政府に提示した。
 ジャワ暴動はまた、スカルノの地位を弱めもした。スカルノが英国の要請で仲裁役に出たことをバタヴィアの革命過激分子らは快く思わなかった。そこで彼らは、戦前すでに有能な民族主義指導者として名を成し、戦時に日本軍政との協働を原則的に拒否したことを理由にシャフリルを担ぎ出した。スカルノの地位を弱める動きは10月7日にバタヴィアで、共和国議会が議会のステイタス改正を要求して始まった。スカルノはこの要求を受諾して、大臣は今後、大統領にではなく議会に責務を宣誓することとなった。16日に、シャフリルを議長にした執行委員会(内閣とも言える)が設立され、権力の交代があった。シャフリルは11月10日に出したパンフレット『我らが闘争』の中で「日本軍政に協力した者らは民族革命・我らが闘争の裏切り者である。イ民族主義は民主主義社会革命であり、政府機関を民主化し、農村の封建制は排除せねばならぬ。我らが闘争の最終目的は世界から資本主義と帝国主義をなくすことにあるが、世界強大国の米国が外交路線を望む故に、共和国の対外政策は米国路線によるべきであって、武力行使の軍部の要求は拒否せねばならぬ」等と主張した。
 しかし『我らが闘争』は何らの影響も与えなかったし、シャフリルとスカルノの権力争いにジャワ民衆は気が付きもしなかった。14日にシャフリルを首相にし、日本軍政で手を汚した者は一人も入っていない内閣が誕生した。だがこの内閣は、プムダ組織、スカルノ派、回教派からは誰も入閣していなかったことと軍部との関係の緊迫化で、共和国内での支持は得られなかった。
 このようにシャフリルの地位は早くもぐらついてきたうえに、彼が19日に正規共和国軍をバタヴィアから撤退させたので、この時とばかりに、蘭印軍軍人が共和国要人に嫌がらせをし、1月2日(1946年)には2回にわたってシャフリルの家を襲撃した。英軍が介入して大事に至らなかったが、蘭軍人の蛮行に怒ったマウントバッテンはヘルフリフ蘭司令官に、このような事件が二度と起らぬよう対策を講じよと指令した。そうではあったが、万全を期してシャフリル以外の共和国政府のメンバーは1月4日に中部ジャワのサルタン領の首都ジョグジャへ移って、共和国の首都はジョグジャに遷都された。
 ここには正規共和国軍の本営があったが、英・英印軍人も蘭印軍人もいなかったので、スカルノは中部ジャワの民衆の間に入って、「女王のいた旧時代と違って、誰もが電気が使え、車、自転車が持てる」といった簡単明瞭なメッセージを発して思う存分革命を説いて回り、民衆の心を掴んでいった。同様の革命精神が1月3日のプールオケルトの人民会議をも支配していた。ここで、マルクス主義者タン・マラカは、大農園企業や工業施設の接収、共和国抑留所内の蘭人被抑留者を人質に使う、完全独立を目指す、全外国兵力のイ群島からの撤退等の7つのプログラムの下に結集すべしと提案した。
 1月15、16日にスラカルタで第2回人民会議が開かれたが、奇妙なことに、政治指導者は皆欠席で、最高司令官のスディルマンだけが出席していた。タン・マラカは団結した人民戦線の結成を説いて、それを連合戦闘党と全会一致で命名した。これはシャフリルの外交路線への不満が高じた結果であったが、シャフリルも完全独立を期していたし、タン・マラカも超軍事力の敵に対する無意味な流血を警告していたので、両者の違いは、政治指導者が軍部にかける比重にあったと云えよう。それで納得のいくのは、スラカルタ人民会議にスディルマンは出席し、連合戦闘党の創立に関与したことだった。


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