Web草思
オランダ史の語る、オランダ領東インドの日本軍占領とインドネシアの独立 近藤紀子
第4回 急転するジャワの政情
状況の変化を認識できなかった蘭国

 革命が実際には目的に向かって突き進んでいることを最初に理解したのはマウントバッテンだった。彼がその判断の根拠としたのは、蘭印現地に入った連合国軍戦争捕虜及び被抑留者救出班からの、「ガス及び発電事業、郵便、鉄道を手中に収めている共和国の要人らと交渉して初めて事が運んだ」という共和国の強力な存在を示す情報と、ローレンス・ファン・デル・ポスト中佐がマウントバッテンの妻エドウィナを通して流した情報だった。
 南ア出身のファン・デル・ポストは英陸軍情報官で戦時をジャワの日本軍捕虜収容所で過ごした。エドウィナは9月末に蘭印の捕虜収容所・民間人抑留所を訪ねた時、巡洋艦カムバーランド上でファン・デル・ポストから、民族主義は戦時に大きく成長して、日本の指導下で十分に武装した現地の軍隊が結成されていると見られるという話を聞いた。その後、スマラン訪問の際に、エドウィナはファン・デル・ポストの判断が当たっていることを自分の目で見て納得し、その情報を夫に伝えたという。ちなみに、ファン・モークらは、共和国は日本がつくったもので、現地民の支持は期待できないとマウントバッテンに報告していたのである。
 蘭印にも人民の広い支持を受けた力強い民族主義運動が起こっていると判断したマウントバッテンは、戦後処理方針に変更を加えた。大々的な武力行使は植民地戦争を招くことになり、救出すべき捕虜や被抑留者を危険に陥れることになると考えて、彼らの救出を日本軍の移送と共に戦後処理の第一順位とし、蘭権威の復帰に関しては、蘭国がスカルノらと話し合って自身でするべきであると決めた。それ故、英軍によるジャワの占領はバタヴィアとスラバヤだけに限定し、ジャワ占領作戦司令官に、ビルマで大成功を収めたクリスチソン陸軍中将を任命した。
 新方針を決定したその翌日にマウントバッテンは、蘭印政庁のファン・デル・プラスにシンガポールに出向くよう要請し、英戦争相も同席する中で、新方針を説明した。驚いたファン・デル・プラスはこれに反論したが、マウントバッテンは、「蘭権威復帰への唯一の方法は、英国がビルマのアウン・サンとしたように、スカルノらと話し合ってみることです」と提案する。これにたいして、「そのような用意は蘭政府にはありません」とファン・デル・プラス。するとマウントバッテンは、「あなた方はそのようにして蘭印を失うことを、私は断言しますよ」と後々まで記憶に残る言葉を発した。そして、「もし、蘭国がしないというのなら、クリスチソンがスカルノと話し合いを始めるようにするが、蘭国は英国の軍事支援が得られるなどと期待しないでくれたまえ」と付け足した。
 ここまでいわれれば、ファン・デル・プラスは、スカルノらと交渉する許可をファン・モークに申請するよりほかなかった。9月29日に英・英印軍1個大隊がバタヴィアに上陸した。クリスチソン司令官は大隊を限定地域に駐屯させ、それ以外の地域の民政は共和国当局が受け持つと発表した。暗黙のうちに共和国を承認したクリスチソンのこの言明は、ジャワの実情をよく見通した賢明なものだった。大隊のジャワ上陸への現地民の反対運動を未然に防がなければならなかったからである。尽きるところ、ジャワの権威は共和国政府にあったからである。
 いうまでもなく、蘭政府は英国とは違った見解を持っていた。スヘルメルホールン内閣は緊急閣議を開き、30日に、「日本人の道具であり、ファシズムに共鳴し完全な日和見主義者であるスカルノとは交渉の用意はない」との激しい語調の政府声明を出した。
 英国は7月26日以来アトリーを首相にした労働党内閣が実権を握っていたが、大英帝国及び他の植民地宗主国の存続に関しては、驚くほど保守的な考えを持っていた。アトリーは、英印には早期に自治領ステイトスを与えるべきだが、他の英領植民地は大英帝国の一員のまま置かねばならないとしたし、労働組合委員長を歴任したことのあるベヴィン外相も、他の植民地宗主国がその植民地を継続保持することが大英帝国の存続を意味すると考えていた。
 この間、英外務省は、蘭印の実情をよりよく把握するために、東南アジア司令部スタッフの外交官デニングに状況分析を求めた。デニングは、「民族主義運動はまだ取るに足らない規模だが、短見な蘭政策は英国を窮地に追いやり、終局的にはアジアで西欧の最期を招くことになろう。それ故、蘭国の戯言に耳を貸さないで、英国が率先して処理することが最も重要である」と助言した。
 この結果英国内閣防衛委員会は10月10日に初めて蘭印問題を討議した。武力介入は、英国は英印、ビルマ、マラッカの民族主義者と交渉を進めていた折であったから、スカルノらに不審を抱かれよう。そうかといって、スカルノらの願いをそのまま受け入れることは、英国の弱さの証拠と受け取られよう。いずれにしても英国は不利な立場に立たされる。結局、蘭国が早期に共和国と政治協定を結ぶ以外に解決策はないという結論に達して、英政府は、マウントバッテンが唯一の解決策としてすでに出していた方策を全面的に後押しすることになった。

プムダの反蘭・反封建権力のテロ行為

 ジャワに英・英印軍が入り、蘭人が戦前の家に戻った9月末のジャワの大都市は、日本の権威が失墜の一途を辿っていたこともあって、暴力が闊歩し緊迫化していた。ジャワ人は蘭印民政員を非常に恐れていた(「蘭印民政員恐怖症」と呼ばれた)。プムダ組織は民衆のこの恐怖症を口実に、ジャワ人らが蘭印民政員を見たと言っている、と蘭人の家を捜索し、蘭印民政員だと勝手に決め付けて殺害した。こうしておよそ3500人の蘭人がプムダのテロの犠牲になったという(行方不明者を加えれば、犠牲者数は甚大だ)。
 プムダのもう一つの攻撃の的は王侯官吏だった。プムダと農民が一緒になって王侯官吏に仕掛けた暴動は、西部ジャワのバンテンと中部ジャワのプカロンガン地方の三郡において最も激しかった。その理由は、民衆は日本軍政の米供出規定等の強制政策で経済的窮地にあったのに、王侯官吏は日本人に取り入って裕福な生活をしていたことと、これらの地方の当局は共和国を承認しようとしなかったことにあった。暴動は成功して、ジャワ人地方副長官、郡長等は殺害されたり亡命を余儀なくされ、権力の座を去った(他の地方でも状態は同じだった)。革命の名によるジャワの混乱状態は、共和国が国際的に承認される日を遠ざけただけでなく、共和国政府の権威を失墜させた。
 そこで、スカルノとハッタはジャワの治安回復をしなければならないと、10月5日に、人民治安組織に代わって統一人民治安軍(以下、共和国軍)を設立し、元ぺタ将校のスディルマンを最高司令官に任命した。それでも各地に存続した民兵軍や共和国軍本営からの指令を馬耳東風に聞き流すプムダらによるテロが後を絶たなかったので、共和国政府はすでに日本軍民間人抑留所を後にした蘭人の身の安全のために(彼らが蘭権威復帰への準備に取りかかれないためにも)、彼らを共和国保護抑留所に入れることに決めた(220の抑留所に約3万5000人を抑留)。

植民地喪失への第一歩

 10月2日にバタヴィア入りしたファン・モークは、蘭印の戦後を初めて自身の目で見た。翻る紅白旗、あちこちに貼られた反蘭のポスター(多くは英語表記で、英・英印軍と国際報道陣にも分かるようになっていたばかりでなく、それは米独立宣言の口調そのままだった)等からして、ファン・モークは歓迎されていないことがすぐに分かった。ジャワ日本軍政は崩壊して、公共機関や地域行政は共和国が握って、民族主義は否定できない事実として力強く存在していた。そして生命の危険に晒された何万人もの蘭人被抑留者と戦争捕虜の救出という先決課題がファン・モークを待ち構えていた。
 マウントバッテンも事の重要性を認識し、10月10日にシンガポールの東南アジア司令部にファン・モークらを招請した。夕刻6時半に始められた会談で、ファン・モークは、スカルノ政府なるテロリストとは交渉はしないという意見に固執したが、最終的には、「被抑留者・戦争捕虜救出のために、兵力増強と進軍地域の拡張を英政府に申請する用意があるが、蘭国がスカルノらと交渉を始めることを条件とする」というマウントバッテン案に応じて、次の約束を取り交わした:マウントバッテンは第23英印師団をジャワに送り、バタヴィア、スラバヤの他に、バイテンゾルフ、バンドン、スマラン、マランを占領する。ファン・モ?クは蘭国政府に、彼自身で、影響力ある共和国指導者と話し合うことへの許可を願い出る。
 マウントバッテンと英政府は約束を履行して、10月15日、16日に英印グルカ兵3個大隊がバタヴィア入りし、二大隊は直ちにバイテンゾルフとバンドンに進軍した(バンドンは日本軍が堅固に警固していたこともあって、共和国軍やプムダの反撃にほとんど遭わなかった)。19日に1個大隊がスマランに入り(数日間の激戦の末にスマランは再び日本軍の手に落ちた)、そこから小分遣隊がアムバラワ‐バンジュビルとマゲランの民間人抑留所に向かった。スラバヤには25日に第49英印歩兵旅団が到着した。
 一方、蘭国はどう出たかというと、ファン・モークは、スカルノらとの話し合いを本国政府に働きかけたが、誰も耳を貸そうともしなかった。英国と約束した手前、何か手を打たざるを得なかったファン・モークは21日にデ二ングに、「政府から私がスカルノをも含む誰とでも話し合いをしてもよいとの許可を得た」と大法螺を吹いた。そこで、英国はデニングを通して今度は共和国に圧力を掛けた。
 「イ群島の宗主権は蘭国にある故に、共和国の承認はできないが、貴殿らの理想達成のために、蘭国と交渉することを薦めたい」とデニングは切り出し、目標は蘭王国の自治領を示唆した。この自治領案に対して、蘭人は信用が置けないからと、スカルノは直ちに却下したが、デニングはやっとスカルノを説得して、会合は31日にクリスチソン司令官邸で開かれた。互いの見解を交換し合った本会合はその後の交渉の基盤となった。そうこうしているうちに、ジャワの政情は急転していった。

スラバヤとスマランでの現地軍と英・英印軍との戦い始まる

 英国は、スラバヤで英・英印軍が窮地に陥って大きな試練に立たされた。蘭国旗掲揚事件が切っ掛けとなって、「共和国プムダ」が結成されたばかりでなく、復帰蘭人の掃討のためには、まず日本軍の一掃が先決だという認識をプムダらに植え付けた。そしてスラバヤ周辺の村落民を動員して一揆を起こすほどの大組織になった「共和国プムダ」と地元共和国軍は、10月1日朝、刀、銃、竹槍で武装した何千という村落民の陣頭指揮を取って日本軍の一掃に掛かり、数日間の激戦の末に幾つかの日本の建物を占領した。
 その時連合国軍を代表してスラバヤにいたハイエル蘭海軍大佐は、お目出度いことこの上ないが、一揆は日本人に向けられていて、蘭人の復帰とは関係がないと思い、10月3日に柴田弥一郎海軍中将と岩部重雄旅団長に、東部ジャワの全日本軍部隊を代表して彼に降伏するよう取り計らった。こうすれば、日本軍の武器は安全に連合国軍の手に渡ると大佐は考えたのだが、そうは問屋が卸さず、地元官庁が武器を「共和国プムダ」と地元共和国軍に流した。共和国が10月初旬に所有していた武器の半分はスラバヤの両組織のものだったことから、大軍事力となったことが窺える。
 こうしてスラバヤでは、地元共和国軍と「共和国プムダ」が地元官庁と共に権力の座に就いたが、次第に、革命意識にみなぎる群衆の収拾に手を焼くようになった(10月6日の、「共和国プムダ」が日本人を人民に引き渡さないで、刑務所に収容する助けをしたと怒った群衆が、ブブタン刑務所に押し入り何人かの日本人を牢から引きずり出し殺害した事件等)。
 10月25日に第49英印歩兵旅団がスラバヤ港に入った時、スラバヤは嵐の前の静けさだった。上陸は共和国の許可がないとできなかった。共和国当局から付けられた「日本軍の武装解除・移送と市の治安維持の助援のみを担当。正規共和国軍隊には武装を認める」という条件に同意してようやくスラバヤ入りした旅団(4000人の部隊)は、市南部の抑留所内の蘭人婦女子を港地区に移す等の作業をするとともに、マラバイ旅団長は留置された連合国軍戦争捕虜及び被抑留者救出スタッフの釈放を共和国軍司令官に要求した。
 しかし、こうした行動は現地の反感を買って、28日に誰も予想だにしなかった事態が起こった。
 午後4時頃、スラバヤに突然銃声が轟いて、1万から2万の正規共和国軍と「共和国プムダ」が英印旅団の陣地に攻撃を開始したのである。これにスラバヤに押し掛けた10万人もの村落民が加わって、あたかもフランス革命のようだったという。250人の英印兵士が、なす術もなく殺害されて、英印旅団の全滅は時間の問題だったし、蘭人の生命も危険に晒された。旅団長はホウソーン司令官に援軍を請うた。ホウソーンはスカルノに仲裁を依頼し、英国機でスラバヤに降り立ったスカルノはラジオ放送で戦闘停止を呼び掛けた。その結果、スラバヤは秩序を取り戻したかに見えた。ところが、まだあちこちで行われていた小競り合いを終わらせようと車で街に入った旅団長が群衆に行く手を遮られプムダに殺害されるという事件が起こった。
 旅団長の死に英国は激怒して、クリスチソン司令官は、「犯行のインドネシア人らを引き渡さなければ、英国は陸・海・空軍力とすべての近代的兵器を駆使して、彼らが全滅するまで闘う」と言明し、何隻かの軍艦や第5英印師団をスラバヤに向かわせた。スカルノは再び、スラバヤ民衆を、革命というグラス一杯の水に入れ込んだ砒素に譬えて戦闘停止を呼び掛けて、ようやく停戦にこぎつけた。
 中部ジャワも暴動の火元だった。スマランでは、10月19日に比較的小部隊の英印軍が日本軍の陣地を引き継いで(ラムペルサリ‐ソムポクとハルマヘラの女子抑留所の警護は、日本軍が続行していた)、アムバラワ周辺の抑留所の蘭人約9000人を早急にスマランに移送するために、英印グルカ兵小隊がアムバラワ‐バンジュビルに向かった。マゲランでは、避難所に仕立てた二つの病院に、被抑留者、暴動を逃れてきた中国人やアムボン人2700人を避難させ、安全強化のためにグルカ兵分遣隊を駐屯させた。
 だが、マゲランはジョグジャとスマランを結ぶ戦略的要点であったから、グルカ兵駐屯に苛立った地元共和国軍は31日に、スラバヤでの英印軍惨敗の報に乗じて、英印軍の陣地に攻撃を加えた。英国はスマランから援軍(100人の日本軍分遣隊をも含む)を送るとともに、スカルノに停戦への仲裁を願い出て、スカルノの努力で、被抑留者移送が完了し次第、英印軍はマゲランから撤退することを条件に、地元共和国軍は停戦に同意した。
 しかしスラバヤと中部ジャワで辛うじて保たれていた治安はすぐに破られた。英国は11月9日にスラバヤ当局に、武装インドネシア人は一昼夜内に英軍に降伏することという最後通告を出したが、スラバヤ側の反応がなかったので、第5英印師団は10日に、空爆と艦砲射撃に支援されてスラバヤ進軍を開始し、共和国軍と「共和国プムダ」(以下、両者を一緒にして現地軍)は英印軍の進撃を阻止しようと、村々を焼き払って応戦した。英印軍の兵器は現地軍のそれよりずっと近代的であったが、英印軍の先頭部隊は28日にやっと市の南境に達した。その間、住民の90%は瓦礫と化した街を後にしていた。
 一方、中部ジャワ英軍司令官はスラバヤ戦の勃発で、英印軍への現地軍の攻撃を予測して、19日夜半に約30台のトラックで病人の被抑留者をマゲランから避難させることにし、これは際どいところで成功したが、2500人の中国人、アムボン人等の移送は取り止めになって、彼らのうちの500人は殺害されたという。
 スマランでも18日に英印軍対現地軍の激戦が始まって、アムバラワ‐バンジュビルの抑留所は現地軍によって包囲された。スマランの抑留所は、日本軍が守り抜いたが、市の他の場所では、英印軍は空と海からの砲撃支援と村々を焼き払うことで、どうにか戦闘を続け、12月1日にアムバラワ‐スマラン間の道路を占領して、1万人以上の被抑留者のスマラン移送に成功した。蘭国は、英国は同盟国のわれわれを見捨てたと非難しているが、蘭人被抑留者救出のために英・英印兵が600人も戦死しているし、1945年末までに20万人以上もの蘭人を安全地域に移すことに成功している。根も葉もない非難ではなかろうか。


「第4回 急転するジャワの政情」トラックバックURL:
http://web.soshisha.com/mt-tb.cgi/8
草思社