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オランダ史の語る、オランダ領東インドの日本軍占領とインドネシアの独立 近藤紀子
第3回 日本降服と独立宣言
日本の降伏とマウントバッテン卿の登場

 広島と長崎に投下された原爆は、多数の犠牲者を出し甚大な被害をもたらしただけでなく、アメリカ合衆国(以下、米国)が主導権を握る世界新体制の誕生を告げた。つまり、戦後の最強国は植民地主義に原則的な嫌悪を抱いていたことで、大西洋憲章の内容やローズヴェルト大統領の「フランスは百年間もインドシナを搾取してきた。インドシナ人民には以後、より権利が与えられてしかるべきだ」といった発言がそのことを明示している。
 とはいえ、米国にはソ連邦への脅威が募りつつあったから、当分は植民地体制保持の方がよいと考えたのだった。しかし第二次世界大戦と日本軍による東南アジア占領は植民地体制の土台を徹底的に破壊して、植民地国家の存続は不可能になっていた(日本軍にあっけなく粉砕された西欧植民地宗主国は、その威信を取り返しがつかないほど喪失し、戦後は多くの譲歩や約束をせざるを得なくなった。日本の東南アジア占領は民族主義運動に大きな自信を与えた一方、社会的、経済的混乱をもたらし、現地民を排外抵抗運動へと追いやった)。ちなみに、植民地社会の近代化は第二次世界大戦の勃発のかなり前から始まっていて、植民地国家の存続は不可能になってきていたから、その意味では、第二次大戦は変化の触媒であったが原因ではなかったといえる。
 長崎の被爆の翌日に、御前会議は連合国軍が要求する全面降伏を受諾すると発表した。ローヘマン蘭海外領土相は豪州のファン・モークに祝電を送り、ハーグで交戦評議会の特別会合を招集した。蘭国は直ぐには蘭印の権力を受け継げる態勢になかったから、評議会のメンバーは吉報にもかかわらず沈んでいた。さしあたって使えるのは17個大隊だけで、それも輸送船に事欠き、すぐ蘭印に行くことができなかった。また、同じ理由で、蘭印民政(NICA。解放地域の行政を暫時的に行う連合国軍司令部下の組織)も派遣できなかったからだ。
 豪州のファン・モークも、蘭印に復帰した際の人と物資の欠乏を考えると気が重かったが、ともかく、8月15日に蘭印の同胞に日本降伏を告げて次のようなラジオ放送を行った。「日本の敗北は君ら皆の解放を意味しよう。蘭印は間もなく蘭国のもとに戻ってこよう。われわれは早期に諸君らに合流し、再建という困難な仕事に取り掛かるつもりである」。何と楽観的な見方であったことか。
 8月15日はまた、蘭印がポツダム会談の結果、英国のマウントバッテン(ヴィクトリア女王の曾孫、1943年8月にチャーチル首相によって東南アジア連合国軍最高司令官に任命)指揮の東南アジア司令部下に入った日でもあった。つまり、蘭印からの日本軍の撤退と蘭権力の復帰は英国の責任となった。
 9月初旬にマウントバッテンはセイロンの連合国軍司令部で蘭印の戦後処理計画を立てた。9月末に2個旅団がバタヴィアに、10月にはスラバヤに、11月にはスマトラのメダン、パダン、パレムバンに上陸、それから内陸の戦略要地を占領し、イ群島の治安を図り、蘭人の復帰を待つというものだった。この計画に従うと、日本の降伏と英軍のバタヴィア入りとの間に何週間かの空白ができることになるが、連合国軍は日本降伏時に、占領地域の現状維持(ステイトス・クゥオ)を日本軍最高司令部に通達してあったので、このことが問題を引き起こそうとは誰も予想だにしなかった。それ故、ファン・モークは連合国軍司令部でマウントバッテンに面談した際に、いかにして蘭印行政の再建を行うかに話の焦点を絞った。

スカルノら独立宣言を発する

 スカルノは日本降伏の報に接した時、喉元を絞めつけられる思いだったという。最早、秩序正しい権力委譲ができなくなってしまったからだ。軍政の協力で独立を、という方針に反対してきたプムダらは、この際一方的に独立宣言をすべきだと、代表のウィカナに指示し、彼は15日夜にスカルノを訪ねた。ウィカナはスカルノのお気に入りの弟子だったが、この時の二人は冷戦状態にあったのだろう、「独立宣言なしでは、明日にも流血の惨事が起ころう。親蘭の疑いのある者を片っ端から殺そう」と息巻くウィカナに、そんなことをするならいの一番にこの俺を殺せ、とスカルノは激怒した。仲裁に駆け付けたハッタもウィカナを説得できず、プムダらは16日早朝にスカルノとハッタをレンガスデン‐クロックのぺタの兵舎に監禁して、一揆を起こそうとしたが、実現しなかった。
 この間、前田提督はジャカルタで、「独立宣言があっても、(日本は)これを阻止する行為に出ないだろう」と発表した。前田がこの約束をしたのは、ジャカルタが極度に不穏な空気に包まれていたからで、現地指導者が正式の権力を持っていれば、軍政の権威喪失に伴う流血の小競り合いを防ぎ、治安維持ができると考えたからだった。16日夕、プムダらに釈放されてジャカルタに戻ったスカルノとハッタは短いが力の籠った独立宣言文を書き上げて、17日朝、スカルノがそれを自宅前で読み上げた。「我らインドネシア人民はここに、インドネシアの独立を宣言する。権力委譲等に関する事項は、整然とした方法でできるだけ早期に施行されよう。ジャカルタ、17‐8‐'05(紀元2605年─近藤注)、インドネシア人民の名において、スカルノ・ハッタ」。
 そして独立準備委員会は18日に、ライデン大学卒業の法律家スーポモの草案による憲法を制定し、スカルノを大統領、ハッタを副大統領に選んだ。19日には8州が新設され(従来の地方は各州下に置かれて、地方長官にはインドネシア人を任命)、22日には、暫時的に国会の役割を果たす137名のメンバーからなるインドネシア人民中央委員会(以下、共和国議会)が設立された。
 軍事面では、17日に日本軍がぺタ等の防衛軍(数にして約2万5000人)を解散させたので、共和国は自身の統一軍隊を持つことは難しくなった。このため、元ぺタ義勇兵や元蘭印軍インドネシア人軍人らを動員して、22日に人民治安組織を市町村単位で設立した。また、スカルノとハッタは共和国の権威を早期に浸透させるために、30日に、ジャワとマドゥラの王侯官吏との協定に漕ぎ着けて、信頼の印として、彼らを西部、中部、東部ジャワの州知事に任命し、9月5日には、各市町村に人民委員会(地元知名人、民族主義運動の士、プムダからなる)を設けた。こうして、共和国の名はジャワ及びマドゥラ全体に知れ渡った。そのことは、スラカルタのススフナン王侯領やジョグジャカルタ(以下、ジョグジャ)のサルタン、中部ジャワの4人の王が共和国に忠誠を誓ったことからしても明瞭である。

共和国軍を甘く見た蘭国

 一方、豪州のファン・モークは、日本降伏後のジャワの事情が皆目つかめなかったにもかかわらず、8月20日に「日本軍最高司令官はスカルノを大統領、ハッタを副大統領とするイ共和国を宣言した」とローへマン蘭海外領土相に報告した。この文面は換言すれば、ファン・モークは共和国の独立宣言を、すでに負けた戦を他の方法で続けようとする日本の捨鉢的な試みだと思っていたということである。そのうえ、彼は、スカルノらは日本に協力したかどで刑罰を逃れることはできまいと確信していたので、共和国云々は、意にも介さなかった。それよりも、蘭人戦争捕虜と民間人被抑留者の救出という緊急に解決を要する問題がファン・モークらにはあった。
 しかし救出担当の連合国軍戦争捕虜及び被抑留者救出班と英・英領東印軍(以下、英印軍)の活動は9月末まで待たなければならなかったので、ともかく、8月末に民間人抑留所と捕虜収容所の上空から、「連合国軍に解放されるまでは抑留所内に留まること。その間の抑留所・収容所の護衛は日本軍に要請した」と書かれたビラを撒き、バタヴィア、マゲラン、スラバヤにラジオ、食糧、医薬品を持った部隊を降下させた。
 1945年9月15日に巡洋艦2隻(英国船カムバーランドと蘭国船ツロムプ)がバタヴィアのタンジュン・プリオクに入港した。英国船にはパターソン海軍少将が、蘭国船にはファン・デル・プラス(東南アジア司令部代表)やファン・スツラーテン(ジャワとマドゥラの蘭印民政班の長)がいた。ファン・デル・プラスは到着後直ぐに、変容した蘭印に驚愕しながら、豪州のファン・モークにこう報告した。「われわれの婦女子は抑留所で酷い扱いを受けた。街では、人は飢え、物資は欠乏し、道路・下水道・灌漑は壊れたまま、飲料水にも事欠く。プムダが共和国の意気揚々とした防衛者として権力を握って、打ち負かされた日本軍からはこれを抑える行動は期待できないが、状況は絶望的ではない」また、蘭国軍事情報局は、情報局という名の機関がたびたびすることながら、「現地人民は、日本軍政に協力したスカルノら指導者の完全独立闘争を熱狂的に支援しているという印象は受けない」との誤った結論を引き出して、ファン・モークに報告した。
 このように、ファン・デル・プラスらは大革命が目前に迫りつつあることに気が付きもしなかったが、9月19日に「インドネシア・プムダ軍」が国王広場で大集会を開いて、10万人以上もの聴衆が集まるという形で革命は姿を現した。
 集会の暴動化を恐れたスカルノは大聴衆に向かい、共和国政府を信頼し落ち着いて行動すべしと説き、高揚した聴衆をなだめ、家路につかせて、大騒動を事前に防ぐことに成功した。スカルノはこの時、民衆が革命の信頼できる担い手であることを学び取ったという。ちなみに、この日プムダ軍がこの集会を開いたのは、巡洋艦ツロムプの入港を、憎い植民地支配者が復帰してきたと見做したからだった。すでに、アムボン人と蘭印軍軍人が一緒に結成した武装組織等が、共和国支持者やインド・ヨーロッパ混血の共和国協力者を誘拐・処刑したりしていた。このように植民地の権威復活の動きが顕著になってきていたこともあって、「インドネシア・プムダ軍」をはじめ、ジャワ各地に結成された大小のプムダ組織は武装して、復帰してきた蘭人に革命の名において自己防衛戦に出たのだった。
 最初の暴力沙汰が9月19日にスラバヤで起こった。この地のオレンジ・ホテルに戦勝に沸く蘭人が赤・白・青の蘭国旗を掲揚したところ、怒ったプムダらがホテルに乱入し、旗の青の部分を引き裂き、紅白の現地旗を即製して騒ぎ立てたのだが、日本警察には暴徒を取り押えることができず、乱闘はエスカレートした。そして、その4日後に結成された「共和国プムダ」は日本軍の武器に目を付け、日本軍の建物を襲撃し武器を略奪した。するとすぐさまスラバヤに右へ倣えをして、プカランガンとジョグジャでもプムダらは血戦の末ではあったが、日本軍兵器庫を手中にした。また、内陸地からの撤退中に襲われ武器を強奪された日本軍小部隊もあったし、譲歩し武器を放棄して撤退していった部隊もあった。日本軍が共和国当局やプムダへの武器引き渡しを拒んで武器を護りぬいたのは、バンドン、スマランといった限られた所だけだった。


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