Web草思
オランダ史の語る、オランダ領東インドの日本軍占領とインドネシアの独立 近藤紀子
第2回 インドネシアの独立準備
日本軍占領の衝撃

 ファン・モークら豪州亡命組の蘭印現地情報の出所は、日本軍放送と蘭印から逃れてきた人々の体験談だけだったから、蘭印の状況は雲をつかむようなものだった。上陸当初、日本軍は解放軍並みの歓迎を受けたが、直ちに弾圧の占領政権を築いて、結果的には何十万人(出所不明?訳者)という現地民犠牲者を出したのだったが、そうした事態は豪州亡命組の知る由もなかった。
 日本の占領政策の目的の一つは、蘭国の存在を完全に締め出すことだった。総督をはじめ各省の長、内政官吏、警察署高官、教師、医師、裁判官、弁護士といった行政エリートの抑留を皮切りに、日本軍はバタヴィアをジャカルタと改名、公共の場でのオランダ語使用禁止、街路名や店名を日本語表記に、銅像等の蘭国を象徴するすべてのものを除去、日本国旗の掲揚と日本軍歩哨への御辞儀の義務づけ、紀元暦と東京時間の採用といった一連の排蘭対策を講じてから、総仕上げとして、オランダ人(以下、蘭人)を一人残らず保護地域と呼ばれた民間人抑留所に入れた。ということは、蘭印の蘭人の誰もが、豪州亡命組と同じく、抑留所外の出来事は知る術もなかったということになる。
 街頭から蘭国のすべてが消え去ったからといって、現地民は自由になったわけではなく、彼らには貧困、空腹、弾圧が待ち構えていた。日本軍政は1943年10月からジャワの農村で何百万人もの労務者徴集をして、飛行場、道路、鉄道路線の敷設工事や採炭労働に動員した。労働環境は概して非常に悪く低賃金で、日本人現場監督は容赦なかったから、何十万人もの労務者が栄養失調や病気で死亡した。また、軍用米政策が現地民に悲惨さをもたらした。1943年からジャワの各地方行政は、軍政へ規定量の米を供出することが義務づけられたので、規定供出量をこなすために、各地方行政は他地方へ米の出荷を禁止した結果、米取引市場がなくなり、米を他者に依存する地方は飢饉を来たした。現地人口7000万人のうちの250万人が軍政の犠牲となったと見られている。
 軍政はまた、現地民族主義運動にほとんど関心を示さなかった。日本政府は真珠湾攻撃前にすでに、「占領地域の既存の行政機構をそのまま活用すること。現地民族主義運動への早まった支援は避けねばならぬ」という占領政策を決めていた。これは換言すれば、既存の封建的権力機構を利用し、民族主義運動を弾圧した西欧植民地統治政策とそう違わなかったということになる。王侯官吏を倒す目的で結成された幾つかの民族主義運動委員会の廃止、3月14日のジャワ人を高官職に任命しないとの公表、3月20日のジャワにおける全政治運動の禁止等の政策がそれを明示していよう。
 そして、軍政はジャワ人王侯官吏をそのポストに留任させ、それまで蘭人の就いていた役職を自分たちが引き継いだ(地方長官と、ジャカルタ、スマラン、スラバヤ、バンドンの四都市の市長に日本人を任命した)。しかし日本人(官僚)は経験不足だったから、ジャワ人地方副長官が実際には影響力があったが、日本軍占領時に地方副長官と副長官補佐の更迭が七十回もあったことからして、彼らの地位はそう確かなものではなかったといえる。自らの役職を確保しようと、軍政の要望通りに米や労務者の供給をしたので、王侯官吏は人民の反感を買うことになって、威信を失った。
 外島地域??ジャワ以外のインドネシア群島(以下、イ群島)??においても状況は同じであった。

日本、インドネシア独立の容認へ

 軍政は自ら設立した運動組織を通して民衆に近づき軍政の宣伝に努めもした。日本軍宣伝班によるAAA運動(アジアの光、アジアの保護者、アジアの指導者)がその例で(これには民族主義指導者は関係しなかった)、都市だけでなく農村でも宣伝活動をしたが、軍政が期待した効果は得られず、10月(1942年)に当運動のインドネシア人会長が公金横領の容疑で逮捕された後、早々に解散された。
 AAA運動の遅々とした進行ぶりを見て、人民の支持を得るためには民族主義運動の指導者を味方にしなければと考えた軍政は、7月(1942年)にスカルノをスマトラ島からジャカルタに移した。スカルノは日・独・伊が大戦に勝つと確信し、軍政と深く広く協力していこうと決心したという。このことが、蘭人にはスカルノは敵国日本への協力者だと見えた所以であろう。
 民主主義インドネシアを目指したシャフリルとハッタとは対照的に、スカルノは独立を第一義として、日本の独裁政権を気に入っていた。因みに、ハッタもその後、日本の演じる影絵芝居にお付合いすれば、われらの将来があろうと考え、軍政との協力に踏み切った。スカルノは、ハッタと共に軍政の顧問にはなったが、各省からの質問に答えるだけという地位を不満とし、軍政を人民に売り込む用意があるが、民族主義指導者による運動をその手段にしてのことだが、と交渉を始めて、軍政とスカルノとの何カ月もの綱引きごっこの後、3月9日(1943年)に「人民の力の中心」運動が、ジャカルタのイカダ広場に集った10万人もの聴衆に「日本との協働は、この地に日章旗が翻った日からわれらが抱いていた願いだった」とのスカルノの言葉をもって発足した。
 その一カ月程前にスカルノ、ハッタらは無念やる方ない打撃を受けたばかりだったから、彼らの当運動にかける期待は大きかった。
 その打撃というのは、1月末に、東条英機首相が衆議院で「ビルマとフィリピンにはある種の独立が与えられようが、ジャワ等のイ群島にはこのステイトスは見合わせる」と表明したことだった。スカルノは、このように協力的なわれわれになぜ独立が授けられないのかと涙ぐんだという。そして結論から先に言えば、人民の力の中心運動はスカルノらが期待した結果をもたらさなかった。軍政は彼らを忙しくさせておいて、民族主義運動が大集団化しないよう防ぐ手段として当組織を利用したに過ぎなかったからだ。それにスカルノらは軍政の宣伝に終始したが、宣伝手段のラジオに事欠き宣伝内容が伝わらなかったから、人民を説得できるわけがなかった。2月(1944年)に当組織が解散された時、ジャワ全体に10の分室事務所があっただけだった。その上、軍政はスカルノらを信用せず、重要な大組織(1943年初頭に警防団と青年団という警備補佐と労働提供の団体を設立)は自分達で指導した。因みに、1945年には警防団員は130万人、青年団員は70万人を数えた。つまり、大戦の終り頃には、約200万のジャワ人が民兵として訓練され、日本精神を叩き込まれたことになる。
 太平洋戦争勃発の六カ月後に、日本海軍はミッドウェイ沖で航空母艦四隻、巡洋艦一隻を失って、戦況は逆転し日本の敗色は濃くなっていったが、日本が占領地域の防衛にと戦略変更したのはそれから一年経てのことだった。そのために、1943年に地域防衛軍(ジャワのペタ=郷土防衛義勇軍等)の編成を決めて、10月からバイテンゾルフで士官候補生の訓練を、12月から義勇兵募集を始めた。軍服と食糧の割当量に惹かれて、ジャワの多くの若者が押し掛けて、8月(1945年)にはペタは3万6000人にも膨れ上がった。
 また、ジャワ奉公会(1944年1月結成。三つの重要役職には日本人が就き、スカルノとハッタは回教団体指導者ともども顧問に過ぎなかった)のように、軍政への勤労奉仕団体が結成されて、ジャワ人民が動員された。そして、民族主義者をも日本の戦争組織に動員しようと、東条首相は6月(1943年)に、現地民に自身の地域社会行政への参加を許可すると言明し、8月から11月にかけて、地方助言理事会の設立、各省にスカルノら7人のインドネシア人参与の任命、王侯領自治権の復活、中央参議院の設立といった対策を講じた。なお、中央参議院というと、うわべは以前の人民評議会に似ているが、民主主義とは何の関係もなく、ジャワ経済を日本軍の戦闘力強化に投下する意図で設立されたものだった。このように、日本が1943年後半にとった方策は民族主義者にとって失望の極みであったが、スカルノの中央参議院議長という役職の象徴的価値は見くびってはならない。前田精海軍提督ら二、三人のジャワ軍政の顧問は、「人民が自分らの将来に独立の形があることを前提に置けるように、民族の象徴であるインドネシア・ラヤと紅白旗の使用を許可するように。そうすれば、彼らの日本への忠誠が確保できる」と政府に強硬に要請した。
 東条の後任の小磯国昭首相はこの助言に従うことにして、9月9日(1944年)に衆議院で「現地民の独立は将来是認されるだろう」と発表した。曖昧な約束だが、故意にそうしたのであって(真に独立を与えようとはほとんど誰一人考えていなかった)、こうして民族意識の高揚を図って、日本軍の防衛強化に利用しようとしたのだった。そうではあったが、次第に行政の重要職に就くインドネシア人の数が増えていった。12月に参与らはスカルノを議長に参与評議会(想像をたくましくすれば、内閣と見られる)を結成したし、ジャカルタにはインドネシア人上級官吏の養成機関ができた。また、真の独立に賛成する数少ない日本人の一人である前田は、スカルノとハッタのセレベス(現スラウェシ)、ボルネオ(現カリマンタン)等への訪問を可能にしてくれ、スカルノ自身の青年義勇軍前駆隊の結成をも認めた。
 だが、こういった軍政の方策は、困窮した人民の関与するところではなかったから、彼らは、少なくとも食糧に不足しなかった戦前の状態に帰りたいと、募る不満を軍政にぶつけて??12月(1945年)のブリタル郷土防衛義勇軍(以下、ぺタ)大隊の武装蜂起がその例??、反日の機運が強くなった。特に、ジャカルタのプムダ(青年)の過激化は、軍政には脅威だった(ジャカルタにはシャフリルの思想に傾倒しスカルノの軍政との協力を批判した医学専門学校学生の結成したグループ、日本軍宣伝班設立の「インドネシア新世代軍」、前田が結成した「独立インドネシア軍」があった。後にこの三グループは団結して「新世代委員会」を作り、過激な独立闘争の動きをみせてきた)。このような情勢から判断して、独立の実現をある程度急がねばならぬと考えた軍政は、4月末(1945年)に独立調査委員会を発足させ、その第一回会合がそれから一カ月後にあった。その席上、国家の土台をなす五原則(民族主義、博愛、民主主義、社会的正当性、一つの全能の神への信仰)がスカルノによって打ち出され、新共和国の憲法草案(大統領に大きな行政権限を与え、マラッカ、英領ボルネオ、ポルトガル領ティモールも新共和国に属する等)が作られた。この協議結果を独立調査委員会は7月16日に軍政に提出したが、軍政が独立を準備する独立準備委員会の設立を告知したのは8月7日のことだった。その二日後に、スカルノ、ハッタらはサイゴンの南方軍最高司令官の寺内寿一元帥と会談するためにサイゴンに向った。サイゴンから北へ250キロ行ったダラットで11日にスカルノの一行を迎えた病気養生中の寺内元帥は、「独立準備委員会は23名からなり、メンバー各位は来る18日に就任し、9月初めに独立宣言にもっていくことになろう」と告げた。一行は8月14日にジャカルタに帰ってきた。


「第2回 インドネシアの独立準備」トラックバックURL:
http://web.soshisha.com/mt-tb.cgi/5
草思社