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オランダ史の語る、オランダ領東インドの日本軍占領とインドネシアの独立 近藤紀子
第1回 蘭印の降服
はじめに

 大分以前のことになるが、日蘭修好四百周年記念の年(2000年)に、オランダ戦争資料研究所の企画・主催する「オランダ人、日本人、インドネシア人??日本のオランダ領東インド占領の記憶??」展がオランダと日本で開催された。その展示会を巡って、東京外国語大学の佐藤弘幸教授は氏の論文『操作された記憶??戦勝国民の記憶「オランダ戦争展」をめぐって??』の中で、当戦争展が日本軍占領の約三年半だけをカバーしていることを指摘してこう述べている。「このように……期間を限定することは、最初から展示の内容を大きく制約することになる。なぜなら、この期間日本人は占領軍として強大な権力を振ってきたのに対して、オランダ人は強制収容所の中で全く自由を奪われていて、日本人とオランダ人の力関係は圧倒的に日本人の方に優位に傾いていたからである。……オランダ人がこの期間の記憶をもとに展示を構成しようとすれば、当然日本人の加害者性を大きくクローズ・アップすることになる。……オランダ戦争被害者団体の意向を大幅に受け入れる形で作ったことはまちがいないだろう。……特定の政治目的に意図的に奉仕した結果としか言いようがない……」
 これは実に的を射た指摘だと思っていた折も折、私はある晩餐会で会った日本事情通のオランダ人から耳寄りな話を聞いた。それはこうだった。「天皇、皇后両陛下のオランダ公式訪問を成功裡に終らせるためには、オランダ領東インド(現インドネシア。以下、蘭印)で日本軍抑留所を体験した対日戦争被害者団体の協力が必要でした。過激な反日デモのあった昭和天皇オランダ訪問時(1971年)の二の舞を踏んではならないという配慮から、あの戦争展もオランダ人の犠牲者身分を強調する日本軍占領時と期間を限定して戦争被害者団体の気持を和らげるようにしたのです」。2000年5月の両陛下の訪蘭は成功裡に終って、マスコミは日蘭両国外交のなした快挙だったと報じていた。戦争の過去故に、ベアトリックス女王は1996年から両陛下公式招待の準備にとりかかったとも報じていたから、前述の日本事情通オランダ人の言葉を私なりに解釈すると、戦争資料研究所は政府方針の片棒を担いで当戦争展を企画・開催したということになろうが、それが本当のところだったのだろう。
 6月30日(2001年)付「新ロッテルダム貿易新聞」に、インドネシア独立闘争を主題にした映画『ムルデカ(独立)』の製作・脚本を手掛けた加瀬英明氏のオランダ人特派員によるインタビューが載っていた。若干引用してみよう

 「『ムルデカ』を見たら、オランダ人は唖然としよう。ここには、日本降伏後に蘭印を再征服しようとした悪のオランダ軍を相手に戦う日本軍人らの雄々しい姿が描かれているからだ。加瀬氏は当映画製作の目的を、『日本に民族主義を育てることにあって、わが国は完全軍備をするべきであり、青少年を国防に従事するよう仕向けなければならない。そのためには、敗戦以来日本人に植え付けられてきた、第二次大戦で連合国は正しかったが日本は悪かったというマゾヒズム的な日本人像に終止符を打ち、日本国の誇りを取り戻すことが必要です。この映画はあくまでもフィクションですが、おおよそ2000人の日本軍人がスカルノの共和国軍に従軍して独立のために戦いました。アジアの解放に燃える理想主義者の日本軍人がいたことをこの映画を通して提示したかったのです』と語った。フィクションの名の下に、ここでは善の日本人像が浮彫りにされているようだ。」

 蘭印の歴史は、戦前三百年間のオランダ(以下、蘭国)による植民地支配時代、戦中三年半の日本軍占領時、1945年8月17日のインドネシア共和国(以下、共和国)の独立宣言から1949年12月のインドネシア連邦共和国(以下、イ連邦共和国)に主権委譲がされるまでの蘭国が武力で独立闘争を弾圧した治安活動時という三つの時代区分に分けられる。これに従うと、「オランダ戦争展」は日本軍占領時に、『ムルデカ』は治安活動時に入れられるが、すでに述べたように、二つとも政治目的に使われたようであって、蘭印史の両時期をわれわれに率直に語ってくれたわけではなかった。
 さて、それでは蘭国の史書は日本軍占領時と治安活動時をどのように記述しているのだろうか。
 両時期は蘭史料編纂の穴とも見られてきた。日本軍占領時については、蘭国ではよく分っていないというのが本当のところか、記述不十分で余りよくないという話を耳にする。
 治安活動時に関しては、数年前に当時の首相のコック氏がインドネシア政府に謝罪したところ、「謝罪して頂かなくても結構です」とたっぷり皮肉った返答が来たというエピソードもある蘭国史の暗黒の頁である故に、今までぼかし手法で記述されてきて、全容を明らかにすることを避けてきたからであろう。
 最近、この両時期を扱った、たいへん重みのある史書が出版された。『東インドとの別離──アジアに於ける蘭王国の没落』(ファン・デン・ドゥール著、2000年、プロメテゥス社、アムステルダム、475頁)がそれで、膨大な史料を基に鋭い洞察力と力強い論拠を駆使し、適切な引用文を豊富に入れて書き上げた本書は、重要な主題を扱った重要な作品だと評判になっている。因みに、当年四十二歳の著者は「治安活動」に「蘭・インドネシア戦争」という言葉を適用した最初の歴史家でもある。若い世代の歴史家たちは冷静に自国の歴史を見、実情を率直に書くようになったということだろうが、この勇断の書を、その記述にそってかなり細かく追ってみたので紹介してみよう。なお、著者の諒解をとっての紹介であることをお断りしておく。また、日本側の両時期の記述と比較してみるのも面白いと思われる(日本占領時についていえば、本書は記述不十分の感があるので、その意味でも比較対照は有意義だと思われる)。
「史料編纂は、同時代に過去を清算して、その勘定書の辻褄が合うようにするための道具ではなく、過去を理解するための手段である。ある出来事に誰にもっぱら罪があるのかということよりも、何が起り、なぜその事が起り得たのかが問題であるからだ」という定義を私は読んだことがある。書き替え、書き加えていくことに史料編纂の意義がある。同じ事項でありながら、本書の記述とは異なった記述を読まれた方、あるいは体験された方もいよう。そういった方々からの反響を期待したい。
 それでは、太平洋戦争の初めのくだりから読んでいこう。

蘭印の統治は蘭王国の天職だった

 (蘭本国はその時すでにナチス・ドイツの手に落ちて、ウィルヘルミナ女王と政府はロンドンに亡命した。蘭印はまだ戦火に巻き込まれていなかった。)  1941年12月7日(アメリカ時間)の日本の真珠湾攻撃によって太平洋も第二次大戦の舞台になり、翌年の1月には蘭印の一部はすでに日本軍部隊によって占領された。シンガポールの陥落(2月15日)とジャワ沖海戦での連合国軍の敗北(2月27日)は蘭印の運命を定め、日本軍は2月28日の夜半に、大した反撃も受けずにジャワ北岸の四カ所から上陸して蘭印軍を絶望的な状況に追い詰めた。
 マゲランでは、街頭はあっという間に日の丸の小旗で埋って、現地民は“侵略者らを熱狂的に”迎え入れ一緒にお祭り騒ぎを始めたという(蘭印のいずこでも同じような例がみられた)。そして3月8日に蘭印は降伏した。「7日有余にして日本軍は早くもジャワを手中に収めた」と通信社アネタの記者バウウェルは日記に記している。
 蘭印の降伏に先立って、ロンドンの蘭亡命政府は、蘭印総督(=国王代理)ファン・スタルケンボルフ・スタックハゥエルは、総督の亡命は蘭印放棄を意味することになるし、現地民を守るという蘭国の天職のためにも、行政高官共々ジャワに留まるべしと決めた。同時に、戦時の蘭印の利益を促進するために、10人の要人を安全なオーストラリア(以下、豪州)に亡命させることにして、ファン・モーク(1894年中部ジャワのスマラン生まれ、蘭印経済局長、1941年11月に植民地相、1942年1月に蘭印副総裁)にその人選を要請した。要人グループは蘭印評議会のファン・デル・プラスとスージョノ、教育局長のジャヤディニングラットらであった。最終的には、ファン・モークや海軍司令官ヘルフリフ、陸軍将校のスポールらも対日本戦継続のために豪州に逃れた。民族主義指導者のスカルノ、ハッタ、シャフリルは日本軍占領下の蘭印に留まることになった。


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