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家族というもの──昔の家族、今の家族 岡野薫子
最終回 モノの豊かさ、心の空しさ
 最近になって、家族々々と、殊更にとりたてていわれるようになった。家族のぬくもりを強調する番組が、テレビドラマやコマーシャルに登場する。こうした現象はおそらく、家族の絆の弱まりへの漠然とした不安からきているのだろう。同じように、“高齢化”や“少子化”が現代社会の大きな問題になっていて、どちらも「家族」の在り方と密接なかかわりあいをもっている。それにしても、経済的な援助で少子化をなくそうという国の案は、あまりにも短絡しすぎている。“少子化”の根はそんな単純なものではない。何よりも、それは、“育てる心”をなくした人々の心のなかにあるのだから。
 生命の尊さを口ではいいながら、その生きている実感の乏しさは、これまでの時代になかったものである。様々な原因のなかで最も大きいのが、映像による擬似体験で、どこまでがほんものか、嘘と真実の境界が、日常的に区別できなくなってくるところに、ぞっとする恐ろしさがある。
 チャップリンは、映画『モダン・タイムス』のなかで、人間が機械を使う筈が逆に機械に使われて、ついにはその部品にされてしまう恐ろしさを喜劇にしていた。
 現在の社会では、相手の正体が目に見えないものであるだけに一層複雑怪奇であり、いつのまにか生命感そのものまでが蝕まれてしまう。
 そうしたなかでおこってきた「家族革命」は、「今の世の中は家族に依存しなくても生きていくことができる」という安易な発想に基づいている。これまで家族のなかで主に女性が主体となって行なってきたことが、商品化されたり、あるいは公共施設のなかに役割が移されたりするようになったからだというのである。だが、この言葉は誤解を招きやすい。女性が主体となって行なってきたことは、単にそのように代用できるものだけではないからである。
 いつも家の中を綺麗に、気持のよい空間にしておく。心をこめてつくった手料理を家族のみんなに食べてもらう。そうした幸せや喜びは、「家事労働」という言葉におきかえられた途端に、味気ないものとなり、忽ち魅力を失う。そして、現在、家事労働や育児から解放されて自由になりたいと願う人たちは大多数を占めている。
 私たちの生活が快適に便利になったという反面、人間をひどい億劫がりにさせてしまったこともまた事実である。億劫がりは怠惰と結びつき、人間本来の生き生きとした姿からは遠去かる。更に、物の豊かさは心の豊かさに結びつくどころか、ともすれば空しさの方へ向ってしまう。モノにこめられた相手の気持すら見えにくくなるようなところがある。
 高齢者は、長年の間蓄えたモノたちに囲まれて暮らしているが、こうしたモノたちも、或る意味では家族同然の親しい存在である。その一つ一つには、本人しか知らない思い出がしみついて、単なるモノではなくなっている。当人が生きている間、モノたちもまた生きつづける。
 最近は、家族のいない独居老人がふえてきて、死後のモノの処分に困っている遺族が大勢いる。昔の形見分けは故人を偲ぶよすがにもなったものだが、今はよほどの高価な品でもない限り、ほしがる者はいない。それに目をつけて遺品処理専門の会社までできた。発案の当事者によれば、“天国への引越し”の手伝いをする会社だそうだ。
 実際、離れて住んでいた家族が死ぬと、その遺品整理は相当厄介な現実問題となる。母が他界した時、私は、母の家に詰まっていた家財道具一切を、一旦、当時借りていたわが家に運び入れた。心情的にも、二世帯分を一世帯分に減らすことは俄かにできかねたのである。
 「核家族」といい、また「一代限りの家族」といわれるなかでおこってきた矛盾は、拾いあげればきりがない。モノがあふれている分、人間ひとの心は冷えて、生き方までがぞんざいになりかねない。
 ドキュメンタリー映画『終りよければすべてよし』(羽田澄子監督、自由工房制作)は、「高齢化がますます進む今日、自分や家族がどこでどのように亡くなるかということに不安を持っている方は多いのではないでしょうか」という監督の言葉の通り、人生終末期のケアがテーマである。「人が安らかな死を迎えられるようになるにはいったいどのような仕組みが必要なのか」日本をはじめスウェーデンやオーストラリアにも取材し、その施設や在宅介護への取り組みを紹介している。そこには、家族の愛情と、理解のある医師に見守られて、自宅で人生最後の時を迎える幸せな高齢者の姿が映しだされる。
 家族に見守られながら自宅で死ぬ。昔はこれが当り前の庶民の姿であった。“赤ひげ先生”のような、長屋暮らしの人々の家を往診してくれる医者もいた。私が子どものころ個人病院の玄関先に「往診中」の札が掛っているのを、街なかでよく見かけたものである。ところが今は、それが幸せな限られた一部の人たちの特権ででもあるかのように目に映る。
 いったい、マンション住まいの独居老人のところをまわってくれるような奇特な医師は、今の世にいるのだろうか。私が現在住んでいるマンションも、30年近くの歳月を経て、独り暮らしの、しかも年寄りの女性ばかりが多くなった。Iさんは80歳を過ぎ、最近、最愛の夫に先立たれてひとりぼっちになった。病身で、娘の家族は遠く海外で暮らしている。??となれば、さぞかし心細かろうと思うのだが、彼女の表情はいつも明るい。家族との連絡が心の支えになっていることはいうまでもない。介護保険を利用し、病気と上手につきあいながら、自立の生活を送っている。区から派遣のケア・マネージャーが、定期的に自宅に様子を見にきてくれるそうだ。
 以前、“なかよし村”という高齢者ばかりの村ができたというニュースが報道された。つまりは“疑似家族”という、互いの必要から生まれた共同体である。しかし、年齢だけの共通点で集まった人たちの関係は、果してうまくいったのだろうか。
 人生最後の時をどう迎えるか。実際には誰にも予測はできない。
 現代の老人は、孤独に耐える??というよりは、孤独を楽しむゆとりを、自分で身につけておかなくてはならないだろう。このことは、これまでの、若いころからの生き方に大きく関わってくる。
 今や「家族」の問題は日本だけでなく、広く、国際社会でもとりあげられている。第19回東京国際女性映画祭では、「高齢社会、少子化問題なども視野に入れ、広い意味においての家族をテーマにした作品を中心に」10か国の女性監督による映画が上映された。先にあげた羽田澄子監督『終りよければすべてよし』も、この時に発表された。スウェーデン映画『ダブルシフト??パパの子育て奮闘記』(マリア・エッセーン監督)は、男性の育児休暇を扱っていた。不慣れなパパの育児は危険がいっぱいで、私はその奮闘ぶりに、笑ってばかりもいられなかった。また、完全な一個人として自立したというシングル・マザーの生き方をテーマにした韓国のドキュメンタリー映画『ショッキング・ファミリー』(キョンスン監督)にも疑問を感じてしまった。そこに描かれているのは、女性の男性化した姿であり、人間本来の自然な姿とはおよそ質の異なる生き方であった。
 男と女という性差がある以上、家族のなかでの役割分担は当然あって不思議はない。女性がそのことを卑下する必要はないし、卑下すること自体、女性差別につながりかねない。「役割分担のどこが悪いのでしょうか」と、時間があれば、私は監督に聞いてみたかった。しかし、会場での発言者は男性さえもが、「彼女の生き方に勇気を与えられた」というのであった。
 シングル・マザーが産んだ子どものその後について質問した人もいた。そうした幼い子どもたちは海外養子にだされることが多いらしい。その直接の理由は、いったい何なのだろう? また、その子たちは成長すると実の親を探し始めるそうだ。異国の養い親に育てられた彼らの幼年時代は、果して幸せだっただろうか。
 かつて家族制度に縛られていた男女差別の時代。個人個人が自由に家族の在り方を選べるようになった現在の時代。どちらもあまりに極端すぎる。
 ラッセルは、「親であることの、昔の単純な喜びは、独身女性が獲得した新しい自由のおかげで母になるのをためらう瞬間に失われた」と、いっている。そして、『幸福論』の第12章「愛情」のなかで、次のように述べる。

 ……両親にかわいがられている子供は、両親の愛情を自然のおきてとして受け入れる。両親の愛情は、子供の幸福にとって非常に重要であるけれども、子供はそのことをあまり考えない。子供が考えるのは、世界のこと、出くわす冒険のこと、おとなになった時に遭遇する一段とすばらしい冒険のことである。しかし、こういうすべての外的な興味の背後には、災難に出あえば両親の愛情によって守ってもらえるという感情がある。何かの理由で両親の愛情を与えられていない子供は、臆病で、冒険心がなくなる恐れがある。恐怖と自己に対するあわれみにみたされ、もはや、陽気な、探検の気分で世界に立ち向かうことができなくなる。そういう子供は、驚くほど幼いころから、人生だの、死だの、人間の運命だのについて黙想しはじめることがある。

 “家族の絆”とひと口にいうけれど、そのままにしておけばバラバラになる要素を、自ずと内に秘めている。それが確実に強固なものでいられるのは、夫婦の間に生まれた子どもがまだ幼いうちだけかもしれない。生物学的にも、本来そのような生命体としてしくまれているに違いない。私は最近、改めてそう思うようになった。
 子どもが成長し、成人となるころには、そろそろ家族のなかに分裂の兆が見えはじめる。しかし、彼らが結婚し、赤んぼうが誕生するころから、家族の絆は再び撚りをもどしてくる。
 両親や祖父母のもとでの、幸せな光につつまれた幼年時代が、その人の一生に想像以上の大きな影響をもたらすことはいうまでもない。私自身、身体の成長と共に性格形成の重要な幼年期を、仲のよい両親のもとで幸せのなかに送ったからこそ、その後の困難にも前向きに対処してこられた。昔を思いだす度、今も幸せな気持にもどれるのである。“動物家族”は理屈でなしに、そうした事実を私たちに見せてくれる。自然からはみでた現代の人間だけが、文明に毒されて、最も身近な家族の心まで見失ってしまったといえるだろう。
(了)

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