Web草思
家族というもの──昔の家族、今の家族 岡野薫子
第1回 子ども時代の家
 私が子どものころ、“家族合わせ”という遊びがあった。一家族五人づつ十世帯分の絵カードには、各々、会社員・商店主・軍人等々、世帯主の職業が判るような絵が描かれている。家族構成は、両親に子ども三人、もしくは両親と祖父母に赤んぼうが一人。遊び方は、配られたカードのなかの足りない家族のメンバーを自分が不要のカードと交換し、一家をまとめるのを競う。ほしいカードを持っていそうな相手に当りをつけて、「○○家のお父さんを下さい」などといったりする。
 わが家は、父が早くに他界しての母ひとり子ひとりの家庭で、私は幼いころから賑やかな家族に人一倍憬れているようなところがあった。家族合わせはいっとき架空の世界で、そんな私の望みを叶えてくれた。「家族」というこの形は、いつの時代になっても変わらないだろうと、私は信じていた。都会で“核家族”という言葉がいわれはじめても、「家族」の基本だけは変わらないと思っていた。
 ところが、今やその基本はぐらつきはじめた。
 巣立っていかない(いけない)成人の子どもが、結婚をしないまま親と同居しているなどということは、これまで普通では考えられないことだった。しかし、見まわすと、まるでそれが当り前のように、現在、あちこちに、そうした家族がいる。文明の発達ともあいまって、一人暮らしの気楽さに慣れ、結果として晩婚化が進み、そのままいつになっても結婚しない男女がふえてしまったのである。私が若いころ自分の将来に描いていた理想の家族とはあまりにも差がありすぎる。
 家族をめぐる陰惨な事件もあとを絶たない。昔と違って「家」に縛られず、個々に自由な家族の形をもち得たというのに、この現象はいったいどうしたことなのだろう。家族制度に縛られなくなって、本来の人間の姿が現われた結果が、この現実ということなのか。「家族」という血のつながりは、良い結びつきをもたなくなると、一層やりきれない事態を招いてしまう。
 「家族革命」「家族の崩壊」そんな言葉も目につくようになった。昔との大きな違いは、今は一世代限りの家族ということである。

 夫婦家族制とは、結婚によって家族が形成され、子どもを生み育て、すべての子どもたちは適当な時期に親元から離れて自らの家族を形成すると同時に、親のほうは再び夫婦だけとなり、どちらか一方の死によってその家族は終焉するというパターンを描く。
(岩上真珠「近代家族の形成と展開」『家族革命』弘文堂)

 世代間のつながりとか永続性とか、そういったものは度外視され、家族とはいうものの、現代のそれはあまりにも刹那的だ。
 現代イギリスを代表する思想家、バートランド・ラッセル(1872?1970)は、『幸福論』(安藤貞雄訳・岩波文庫)のなかの「家族」の章で、次のように述べている。

 ……特に青年時代が過ぎてから、この世で幸福になるためには、自分のことをまもなく一生を終える孤立した個人として感じるだけでなく、最初の胚種から遠い未知の将来へとどまることなく流れていく生命の流れの一部だ、と感じることが必要である。

 ボーヴォワールも、その著書『人間について』(青柳瑞穂訳・新潮文庫)のなかで述べる。

 ……一世代は、自分の番が来て消えるためにしか他の時代に続かないというこのコースの際限のない性質しか、もしもわれわれが考えないとすれば、このコースに加わることはいかにも空しいことのように思われます。

 消えるために??ではなく、次代に引き継ぐために??という考え方は大切である。生命の流れを感じていればこそ、人は幸せになれる。実現しなかった自分の夢を、わが子や孫を通して実現させることの可能性も見えてくるからである。
 昔の日本の家族制度では、縦につながった祖先と子孫をつなぐ間に自分の世代をもっていた。子どもの巣立ちは家族の離散を意味してはいなかった。親は死ぬまで、結婚した長男夫婦と同じ家にいて、適当な時期に家督を譲り自分は隠居という形をとる。それはそれで、動物とは違った人間社会の特性でもあった。ところが今では、殆どの成人の巣立ちは核家族の誕生を意味するようになり、子どもは親と離れて、遠く??時には海外に住んでいたりする。
 「家」を中心にした昔の家族制度がなくなった今、それだけ一人一人の生き方が、老年者にも改めて問われる時代となったのである。
 これまでは「家族」という拠り所のおかげで、年老いた親たちは落ちついていられた。殊更に死を意識して恐れることもなかったし、わが子に対して必要以上の遠慮や気兼ねをすることもなかった。制度的にも家族の永続性は強調されていたからで、財産があってもなくても、この方式に変わりはなかった。
 ただ、個人の自由が抑圧された極端な長男優先の社会であり、極端な女性蔑視の差別社会であった。戦後になって、そこからようやく解放されたが、今度は「家族」そのものがバラバラになり、以前よりも一層利己的な、人間としての弱さや醜さが露呈されるようになった。
 戦前・戦中・戦後・現在??と、長い年月を経て、往時の様々な断片的な事柄は、互いに強い結びつきをもって私の胸に思いだされてくる。さながら、経糸たていと緯糸よこいとの交錯から生まれた織りものの模様のように、今の私は全体を見わたすことができる。若いころはとてもこうはいかなかった。これこそ老年期の特権というものだろう。映画『野いちご』(イングマール・ベルイマン制作)で主人公のボールイ博士が回想する場面と同じである。ボールイ博士は幻影のなかで、自分の過去と向き合う。そして、当時遭遇した出来事の真実の意味を、年老いた今になって知る。

 「家族」は最少単位の社会であり、まさに千差万別だ。通常は表に現われてこない様々なドラマがそこには秘められている。「家族」というつながりは微妙である。「家族」の意味するところは懐かしさであり、同時に煩わしさでもある。「家族」は、その時その時で、同じ家族のメンバー(個人)に、プラスに働いたりマイナスに働いたりする。しかも、「家族」は、私たちが生きていくための重要な基盤であり、このことをヌキにして、個人というものは成り立たない。
 ここでは、私自身が熟知している自分の家族のことを主な例にひきながら話してみようと思う。

 幼いころから、私が人一倍家族の団欒に憬れていたことは、冒頭でも述べた通りだが、生き方として私が選んだのは仕事人生だった。選ぶというよりは、経済的にそうせざるを得なかったからで、気がついてみたら仕事の面白さからぬけられなくなっていた。今となっては、そのことに運命的??いや宿命的なものさえ感じている。
 私の童話の師である坪田譲治氏は、生前、「仕事も大事だが、子孫をのこすことも同じくらい大事だ」と、よくいわれていた。その双方が車の両輪のようでなくては駄目だというのである。
 「家庭と仕事の両立は、あなたならできると思うわ」と、結婚をすすめる職場の女友だちもいた。当時、私はまだ若かったし、健康そのものだった。また、生来の子ども好きで、仕事だけでなく家庭的な面をもっていることを、彼女は認めていたのだろう。しかし、仕事と家庭の両立は、とても私には自信がなかった。どちらも中途半端になってしまいそうな気がした。
 「どんな女性でも夫と小さな子どもがいたら、フルタイムの職業を続けつつ、同時によき家庭人であることはできない」と、人類学者のアシュレー・モンタギューは断言したが、その言葉の通りだと、若かったころの私は考えていた。実をいうと、今だって基本的にこの考え方は変わらない。
 ともあれ、私が仕事を捨ててまで結婚する気になれなかったことは事実だし、伴侶にふさわしいと思えるような男性にも、運わるく出会えなかった。自分でも不思議なことは、わが子はほしかったのに、その前段階である“結婚”には殆ど関心がなかったことである。“家庭”というものは、特定の男性と結婚して初めて築かれるものなのに、そういう図式は現実的なイメージとして浮かんでこない。結婚式も結婚衣裳も、私には何となく空々しいものとして目に映った。わが家に両親の結婚式の写真はなかったから、そんなことも或いは微妙に影響していたかもしれない。

 両親は、大恋愛の末に周囲の反対をおしきっての結婚だった。母は23歳、父は22歳でまだ大学生だった。
 「あなたがお腹にいるというのに、結婚はだめだって親戚じゅうで反対したのよ」と、母はいっていた。その理由というのは、両人ふたりが従姉弟どうしだったためである。
 当時の社会は、男は30歳、女は25歳になるまで父母の同意を得なければならず、同意がなければ婚姻届けは受理されなかった。結婚が認められなくて若いふたりが心中することも珍しくない時代だった。親たちが決めた縁談なら、もっとずっと若くても結婚することはできたのだから矛盾している。
 私の両親は、子どもの目から見ても、実に仲のよい夫婦であった。父は毎日定まった時刻に会社から帰宅する。残業はしない代り、家に仕事を持ち帰ることはよくあった。一歳年上の母はまめまめしく家事をこなし、それが嬉しくて仕方がないといったふうだった。両親の役割分担は決まっていたが、子煩悩の父は母に代わって、こまごまと幼い私の面倒をみた。
 家は広い芝生の庭のある、当時流行りの文化住宅だった。父は、たった一と間の洋室を、来客用の応接室としてではなく、休日に家族で過すための部屋にした。この部屋は、子どもの私にとって、空想をはばたかせる絶好の空間となった。
 私の記憶のなかに、部屋いっぱいにつなげたレールを走る電気機関車や連結車、青や赤に点滅するシグナルが浮びあがる。父が休日をつかって仕上げた模型の列車だ。また、父がつくった電気蓄音機でレコードをかけて楽しむ私たち親子の姿も見えてくる。
 わが家はまるで、社会から切りはなされた別世界のようだった。
 サラリーマンである父の給料だけでは、これだけのゆとりある生活は生まれない。それを可能にしたのは、郷里の母親(私にとっては祖母に当る人)の遺産の家作から生みだされる収入だった。

 蓮沼の家は、六歳から八歳まで、たった三年間しか住むことのできなかった家だったが、その間の記憶は、私の心の原風景として、大きな部分を占めている。その家は、私がもの心ついてから初めて、はっきりと“家族”を意識した場所でもある。両親と子どもと揃っての“家庭生活”を、私は、その後二度と経験することがなかった。それだけに、一層輝きを増して見える。いってみれば、それは“幸福の家”そのものだった。
(「幸福の家」『記憶のなかの家』時事通信社)
 父のたった一人の弟である吉司は、長男に生まれなかったというだけで、母親の遺産の恩恵にあずかることはなかった。当時、家督の単独相続制によって、嫡子だけが全てを継ぐ定まりになっていたためである(遺産相続法の改正は昭和22年)。こうした差別は、全てが「家」単位で、その存続をはかることが何よりも大事とされた時代のせいだった。否応なしの制度によって、一般的には遺産争いを封じこめてしまったようなところもある。
 長男であった私の父も、弟の存在を意識する度、自分たち家族の幸せに負いめのようなものを感じていたに違いない。
 こうした不平等な家族制度で縛られていた反面、当時の、家族をとりまく親類縁者の連携は緊密だった。京都帝大医学部に在学中の吉司の面倒をみたのは、亡くなった母親の弟である二人の叔父たちであった。叔父の一人は南洋貿易王として成功した人物で、学費をだしてやったばかりか、夏休みにはジャワに呼んでやったりした。もう一人の叔父は、休暇で帰省する彼の受け入れ手となった。
 吉司は、平素は京都の大学の寮にいたが、正月とか夏休みというと、東京の私たちの家にひょっこり姿を現わした。正月は決まって七草のころ、おくれた年始といった感じでやってくる。暮れの大晦日や正月は家族が水入らずで過す特別の日だから、兄弟でも遠慮なのだ。??かといって、冬休みは学生寮にいることもできないから、まずは上京して、東京に住む叔父のもとに身を寄せる。大家族で使用人の多いこの家では、彼の存在はさして目立たなかったことだろう。当時の吉司の日記からは、正月を共に過ごす家族のいない淋しさや疎外感が伝わってくる。そして亦、身内だけに感じられる懐しさも。

 昭12・1月7日
 ほんのまたたく間に月日は過ぎ去った。これで東京とお別れだ。元気でほがらかに第三学期を迎えるのだ。
 兄さんが横浜まで送ってくれる。夜の12時過ぎ。寒い冬の風の中を。申し訳けない気がした。気の毒にさえ感ずる。なんとかしてことわればよかったものを。健康を祈る。

 夜行列車で郷里・藤枝の叔父の家に帰り着いた彼は、再び、その日の終列車で京都の学生寮に向っている。やっと自分の居場所ができたというわけだ。
 ずっと後になって、私自身もまた、学生時代に、吉司と全く同じ経験をする破目になった。その時私には、正月を一緒に過す者は誰もいなかった。冬休みの学生寮からは追いだされて、どこへも行き場を失い、転々と、友人・知人の家を泊り歩いた揚げ句、九州中津の叔父の家を頼っていった。

 昭和12年の正月、弟を横浜まで送っていった父は、その年の夏、結核で死亡。吉司もまた、あとを追うようにして同じ結核で亡くなった。私が8歳、母31歳の時である。家族が幸せだった時期はあまりにも短かかった。
 郷里の家作をひき継ぐ者は、今度は子どもの私の番だった。当時、夫の遺産は妻には一切の権限が与えられていなかったためである。私はひとりっ子だったから、止むを得ず、女性でも相続権が認められたのである。但し、この場合、嫡子が未成年の場合の定まりで、親族のうちの一人(男性)が親権者となり、後見としての役目を果さなければならなかった。
 父が死んだばかりのその夜、病院近くの旅館の、子どもの私が寝ているわきで、早くも嫡子の後見人を決める親族会議が開かれていた。まるでお世継ぎでも決めるような騒ぎだが、昔は一般庶民の間でも、これが普通といえるほど、家制度は徹底していたのである。
 わが家では、私が成人になるまで、遺産の家作を郷里の叔父が預り、管理をするという約束が交わされた。この叔父は昔、私の父の後見人にもなった人で、叔父と甥の間柄でありながら、いや、むしろそのために、両人ふたりの仲はよくなかった。叔父の姉たちが私にとっての祖母たちであることから、祖母の遺産に関しては、この人の権限は強かった。
 「血縁社会」とは、新潮国語辞典によれば、「成立の基盤が血縁にあり、血族である事実・意識を精神的なつながりとする、共同体的社会形式」とある。血のかよいあう本質的にぬくもりのある関係。それでいて断ちきることのできないための憎しみもひとしお強い関係。この矛盾した関係が、双方常に危ういバランスを保っているのが血族というものなのである。
 幼くても自分は戸主なのだという意識は、知らず知らずのうちに、私のなかに芽生えていった。「あなたは戸主なんだから」と、事ある毎に母もいい、何と、門柱の表札までが私の名前に書き変えられた。女名前の“子”をとったのは、物騒だからという理由だったが、只それだけでもなかっただろう。
 一家の柱を失って、わが家は経済的に苦しくなった。こんな場合も、互いに助けあうのが、やはり親族たちだった。「家」を絶やすようなことがあってはならないからである。一族の出世頭が頼りにされることはいうまでもない。
 家作からの収入は後見人を通してわが家に送金されてくる。その収入は家計の分に当てられたから、最早、これまで父が使っていたような豊かな使い方はできなくなった。母が手内職の封筒貼りやグリコのおまけの箱詰めをする姿を、私は初めて見た。
 母子家庭は問題が多いので、進学時にとらない学校が多いと、小学校の担任教師がいったとかで、母はそのことをひどく気に病んでいた。母は、世間からバカにされまいと、以前にも増して身なりに気をつかい、わが子の成績を気にするようになった。「男の子だったらよかった」と、口ぐせのようにいい、私が虫好きの変わった子どもなのを、むしろ喜ぶようなところがあった。買い与える本にしても、科学読物や立身出世物語、また偉人伝といった類が多かった。偉人伝のなかの子どもはたいてい、貧乏な母子家庭で育っているのに、大いに励まされたものである。
 母と私は性格がまるで正反対だった。母は消極的で私は積極的、母はこわがりやで私はこわいもの知らず、母は他人の目を気にするが私は全く気にしないといったふうである。そんなふたりが、ふたりだけで暮らしているのだから、家の中は波風どころか嵐になるのもしょっちゅうである。まして最愛の夫に先立たれて神経症になっている若い母親と、反抗期の幼い娘との葛藤は、絶え間なしにおこる。しかしそこへ他人が口をはさもうものなら、母娘は忽ち一致団結した。口をはさんだ相手は私たち共同の敵になった。そのあとは後悔も加わって、ふたりは一層親密になった。
 仲直りのきっかけになるのは母が夕ごはんをつくる手伝いで、豆の莢をとったり、すり鉢のへりをおさえたり……。また、編みものの毛糸巻きも、ふたりの気持を自然にほぐしてくれた。昔は、そうした緩衝地帯の役割をするものが、身近にいくらもあった。

 父の死後に移った家は、近所が近くて、いろいろな家の事情が丸見えだった。同級生の家では、反抗期の男の子が真夜中暴れて外へとびだしたり、隣りの家ではいつのまにか奥さんが入れ替っていたりとか、各々の家族が各々に問題を抱えていた。わが家だけが特別なわけではなかったのである。
 子どもが成長をするに従って、これまでの家族の枠の外へ??社会へ向けての関わりがひろがるから、必然的に、最早楽しいだけの家族ではいられなくなってくるのである。
 様々な文学作品や演劇の主題に「家族」の葛藤が屡々とりあげられるのも、不思議ではない。
 私自身は家族運に恵まれず独り身だったせいもあって、これまで、他人の家族のなかで家族同様の扱いをうけることが多かった。その度に、家庭とはこんなにも居心地のよいものなのか??と、思いつづけてきたのだったが……。
 ただ、どの家族にも至福の時期というのはあって、それは多分、その家に明るい子どもの声がひびいている間のことなのだ。
 私にも、山荘の仕事場に近所の村の子どもたちがやってきて、一緒に食事をしたり、お風呂に入れてやったり、楽しい家族の気分を味わった時期があった。しかし、それも、子どもたちが中学にいくころになると、いつしか止んだ。
 本当の家族らしい家族でまとまっていられるのは、結婚した夫婦に子どもが生まれ、その子どもがまだ幼い時期に限られる。そして、この時期が幸せだったかどうかは、その人の一生を左右するほどのものがある。私自身、青春の苦闘時代を通して、何よりも心の支えになったのが、両親と共に暮らした幸せの日々の記憶であった。
 過日、アンデルセン生誕200年記念の展覧会『アンデルセンの生涯とその作品』(逓信総合博物館)を見たおり、会場には、家族と過す時間をなによりも大切にするデンマークのライフスタイルが再現されていた。煖炉と、素朴だがあたたかみのあるテーブルや椅子、机、食器棚など。
 アンデルセンは、その生涯にわたる後援者「コリン家」に家族同様に扱われながらも真の家族として受け入れられない悲しさやコンプレックスをもっていた??と、会場のパネルに記されてあった。家族同様は家族とは違う。異分子的存在としての己は、家族団欒の席で一そう孤独感につつまれてしまう。そうした悲しさやコンプレックス、報われない恋の経験などは、「マッチ売りの少女」「人魚姫」「おやゆび姫」など、多くの作品に登場人物の姿を借りて表われてくる。
 一生を独身で通したアンデルセンは、後年、貴族の館などでクリスマスを過すようになり、童話を朗読して皆に喜ばれたが、そうしたなかでも、昔の家族の団欒を懐かしく思っていたようだ。
 「子ども時代の家」というアンデルセンの詩。

  小さな部屋、台所一つ
  それでもすべて楽しく
  イブはそこで楽しんだものだ
  王侯貴族の城さえもかなわない

草思社