Web草思
贋作天国ニッポン 大宮知信
最終回 最終的に価値を決めるのは自分の感性
彫刻の複製は贋作か

 贋作というと絵画を想像するが、案外多いのが彫刻。代々木のある画商が戦後の人物彫刻を代表する彫刻家のブロンズ像でだまされた体験を語る。
 「その先生の作品を仕入れたんですが、鑑定書がなかったから先生にみてもらって本物だというお墨付きをいただいたんです。ところがそれは後で鋳造したものだということが判明した。要するにコピーです。先生もかなりお年を召しているから本物だと思って鑑定書を書いてしまった。彫刻は絵みたいに描いたものじゃないし同じものを鋳造するんだから、そんなの見たってわかりませんよ」
 彫刻も大家クラスになると安くても数百万、大作だと何千万円もする。あまり知られていないが、実は彫刻の偽物はかなり多いといわれている。画商がいう。
 「うちのお客さんで、ロダンをつかまされた人がいる。人物像だったけど、何百万円ですからね。ロダンを安く買ったよなんて喜んでましたけど、古く見えるように薬品でちょっと時代をつけたコピーなんです。そういうのは素人じゃわかんないですよ。ああいうブロンズなんかは何体もできるから怖いですよね」
 彫刻作品は何体か作った後オリジナルの原体は壊してしまう。ところがそのブロンズから型をとってまた新しいブロンズ像を何十体も作ってしまうのだ。コピーだから模刻(本物をひきうつして彫ること)ではない。複製の複製である。ギリシャ彫刻の石膏像のようなもので、要するにレプリカである。そういうコピーのブロンズはビデオが何回もダビングを繰り返すと画質が悪くなるのと一緒で、だんだん粗雑なものになってくる。そうなってきて初めてこれは変だ、おかしいということになる。そういう“作品”は美術業界では本物とはいわないが、しかし、贋作であると決めつけることもできないのではないか。

偽物のニセモノが出回る

 偽物のニセモノが出回ることも珍しくない。
 贋作といえばすぐに思い浮かぶのが有名な「永仁の壺」事件。愛知県の東春日井郡志段味しだみ村のある窯跡から鎌倉時代末期の年号を示す“永仁”の文字が入っている壺が発見された。この時代の陶芸品は極めて数が少なく、日本美術の歴史をさぐるうえで貴重な資料として1960年に重要文化財に指定された。ところが、この「永仁の壺」は実は瀬戸の陶芸家・加藤唐九郎が作った偽物だったことが明らかとなり、大騒ぎとなった事件である。これを重文に指定した文部官僚は失脚したが、偽物を作った唐九郎はこの事件で陶芸の権威として名を馳せた。
 唐九郎が作った永仁の壺は二つあるといわれる。そのうちの一つは事件から二十数年後、唐九郎の作品を保管、展示する「翆松園陶芸記念館」に里帰りした。これを契機にもう一つの壺の行方に関心が高まり、地元の新聞社に「うちのが問題の壺ではないか」という問い合わせが殺到した。
 新聞社のほうで調べてみると、いずれも唐九郎作にそっくりだが、唐九郎以外の陶芸家が制作した“偽物の偽物”だった。この壺は瀬戸周辺の陶工たちが作ったもので、とくに陶磁器の模造品作りの名人だった加藤宇助(故人)という陶芸家はろくろによる手作りでは注文に追いつかないため、型を作っての流し込み手法で大量生産していた。宇助の他にも“永仁の壺”を作った焼き物師は何人かいて、結局4000個以上の“偽永仁の壺”が出回ったという。世に贋作事件は数々あれど、かくも大量に贋作のニセモノが出回ったのは永仁の壺ぐらいだろう。
 前回もちょっと触れた世紀の贋作絵師トム・キーティング。彼はルノワール、ドガ、レンブラント、ゴヤなど世界的に有名な画家の作品はほとんど描いていた。その方法はまさに芸術ともいうべきもので、例えばレンブラントのデッサンを模写するときは、拾ったクルミを十時間も煮つめてインクを作ったり、古い紙にアヒルの羽毛ペンを使うという凝りようだった。トムがどれだけ優秀な贋作者だったかという証拠は、トムの贋作の、そのまた偽物が登場するようになったという事実を紹介するだけで十分だろう。イギリスの加藤唐九郎みたいな人だった。

学び真似る伝統文化

 歌川広重の《東海道五拾三次》といえば子供でも知っている有名な作品だが、その元絵は司馬江漢しばこうかんの作品だったという説がある。1994年に江漢の筆とされる《東海道五拾三次》を発見したというコレクターが現れてマスコミでも話題になったのでご記憶の人もいるかもしれない。広重の代表作《東海道五拾三次》は江漢作《東海道五拾三次》を模写し版画にしたというのである。もしそれが本当だとしたら美術教科書を書き換えるような話だ。
 江漢は広重より約50年前に活躍した絵師。もともとは浮世絵だが、日本で最初に銅版画を始めたことや最初の油絵(泥絵)を始めた画家としてよく知られている。度々東海道に旅行しており、スケッチを数多く残している。
 確かに写真で見る限り、江漢の肉筆《東海道五拾三次》と広重の版画《東海道五拾三次》は極めてよく似ている。瓜二つといってもいい。この江漢の《東海道五拾三次》も後世の作であるとか、広重の《東海道五拾三次》を模写したものであるという専門家もいるが、真相はわからない。しかし、よく似た江漢作があるからといって、ただちに広重が江漢の作品を盗作したということはいえない。
 日本の伝統文化は何々流という形で先人の教えと技術と感性を継承していく。武道も茶道もしかり、絵画も狩野派、円山派という形で、師匠とまったく同じものを描いても盗作とか贋作という感覚はなく、学び真似るのは次の世代へ引き継ぐための重要な手段だった。それが江戸の文化であり「流派」である。
 江漢は古美術愛好家の人気が高く収集しているコレクターも多いが、偽物が多いことでも有名だ。「江漢に江漢なし」という言葉がある。巷間に江漢なしをもじったもので、贋物ばかり出回っていて本物は滅多に出てこないという意味だ。
 ケッサクなことに、その江漢自身が師匠である鈴木春信の偽物を描いている。江漢は錦絵の創始者として知られる春信に入門して春重と名乗り、春信の死後、自作の錦絵に師匠「春信」の落款を入れて発表したが、偽物であることをだれにも見破られなかったと後に告白している。200年も経ってから今度はその江漢の偽物が氾濫することになるとは、なんたる歴史の皮肉。

オートメーション作家が贋作を生む

 贋作が出回るたびに大騒ぎをするが、贋作を忌み嫌う前にむしろ本物と称される芸術のほうに疑問を向けるべきだろう。なぜ大家の作品というだけで無条件に有り難がるのか。オリジナル信仰と贋作はコインの裏表である。
 文化勲章受章者の画家の贋作が氾濫して美術市場が大混乱に陥ったことがある。偽絵が描きやすい作家と描きにくい作家がいる。この画家は同じ絵を大量に描いていて、典型的な偽物を描きやすい画風だった。類型的な絵を大量に描く作家は“オートメーション作家”といわれることもあり、贋作を作りやすい。ちょっと絵心のある人だったら比較的簡単に絵柄を真似できるのだ。
 偽物だから単純に質が悪いとはいえない。本物をしのぐ贋作が作られる場合だってある。こんな話がある。銀座に店を構える画商が、ある画家に文化勲章を受章しているある大家の作品を見せた。偽物と本物を二つ並べてどっちが本物かと聞いたら、その画家は即座に偽物のほうを選んだ。理由を聞いたら、偽物のほうを指して「こっちのほうがずっと深みがある」と答えた。
 有名になるといい加減に描くようになり、キャンバスを何枚も並べてぱっぱと“オートメーション”式に量産する。こういう絵は本物であっても芸術作品としての価値は低い。絵に対する愛情があるのかないのか、そういう作家は同じ絵ばっかり描いている。例えば富士山とか阿蘇山とか、ワンパターンのワンカラーだ。えてしてそういう絵描きが「独自の画風を確立した」とかなんとかいわれて高く評価され、文化勲章をもらったりする。そんな画家の本物より、むしろ一生懸命描く偽作者の作品のほうが深みがあるのは当然のことなのだ。

オリジナル信仰がある限り

 なぜオリジナルでなければならないかという根本的な疑問がある。昔はそもそも作者の名前をあまり気にしなかった。とくに工芸品などはそうだった。偽物かどうとかというより、だれが作ったのかわからないけど出来がいいほうがいいよということである。いまはオリジナリティとか作家性、つまりだれが作ったのかという作者の名前が非常に大事にされる。サインがオリジナルとは違うということがわかっただけで、その作品が怪しげなものになるというのも考えてみれば不思議な話だ。
 オリジナルという概念は近代以降に出てきたものだ。一品制作としてのオリジナルが尊ばれるようになり、必然的に贋作が生み出されるようになった。現代はカメラやビデオ、複写機など複製文化の時代であり、生活そのものが複製抜きにはあり得ない。もともと芸術は、現実(対象物)を模写することから出発した。絵画には複製機能があり、写真や印刷の役割を果たしていたのである。
 芸術はオリジナルで、一品制作だから価値があるのだという常識に対して、本物、偽物と区別する価値体系、オリジナルだけを至上の価値とする考え方を見直すべきだという専門家もいる。オリジナルを模写することによってパロディにするということだってある。ポップアートのハイパーリアリズムは、例えば缶ビールなら缶ビールを本物そっくりに模写する芸術。もともと芸術にはコピーという機能があり、実在するものを模写するということから始まった。何が何でも本物でなければというオリジナル信仰がある限り贋作はなくならない。

偽物に寛容な国民

 徳島県鳴門市に偽物を展示する美術館がある。大塚製薬グループが総事業費400億円をかけて建設した大塚国際美術館だ。絵画を陶板に焼き付ける技術を使って名画の複製を作り、《モナリザ》をはじめ、レンブラント、ベラスケス、モネやゴッホなど印象派の作品、ピカソの《ゲルニカ》まで、古代から現代に至る西洋美術の変遷が美術史的に理解できるように展示されている。
 壁や天井にミケランジェロの《最後の審判》や《天地創造》が原寸大で再現されているから迫力があり、本物を見ているような錯覚に陥る。入館料が3150円と一般の美術館と比べるとかなり高いが、連日多くの観光客でにぎわっている。
 いまの若者は偽物のブランド商品を「なんちゃってブランド」といって偽物であることを承知で身に着ける。偽物であろうと何であろうと、いいものはいい。骨董の世界に「写し」という言葉がある。古い時代の名画や焼き物に似せて作ったもので、そういう写しを楽しむ人もいる。もともと日本人は偽物に寛容だ。
 偽物があるから本物がある。本物の価値を高めるために偽物が存在するといってもいい。高価なものだから真贋が気になるのは仕方がないことかもしれないが、あまり気にしすぎるのもどうかと思う。何を見ても「これは本物だろうか偽物だろうか」といちいち気にしていたら、芸術を楽しむどころではなくなる。
 手に入れた美術品が本物かどうか、最後は自分の感性が判断する。鑑定士の意見を採り入れるか入れないかも自分が決める。偽物にだまされて悔しい思いをしたくなかったら自分がいいと思うものを買えということだろう。
(了)
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