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道草教育のゆくえ?新設された同志社小学校の現場より? 増田晶文
第3回 きょうしつは、まちがうところだ
 同志社小学校はこの4月で開校2年目、1年生から4年生までの編成となった。
 高松伸が手掛けた校舎は2階建ての低層建築で、赤レンガとグレーの混じったタイル貼りが基調色だ。レンガ色は同志社大の外観をシンボライズしており、今出川キャンパスにあるクラーク記念館や礼拝堂など5棟の重要文化財もすべてレンガづくりとなっている。
 建物を上に伸ばさず、平面に展開したゆったり感は大人でも印象的だから、小さな子どもたちにとっては尚さらだろう。入り母屋造りの一番上(切妻)を取り去った部分といえばいいのか、そこが屋上で芝が養生中だった。鈴木直人校長は「芝が生え揃ったら子どもたちに開放したいですねえ」と語っていた。
 建物の外見は方形だが、階段やパティオ、図書館など、内部のいたるところに緩やかな曲線が生かされている。教室や廊下の一隅には、「デン」と名付けられた小さな円形劇場のようなスペースを設けた。子どもたちの隠れ家になるし、歌や作文の発表の場としても使われている。校内は大きな窓が大胆に採用され、ふんだんに陽光が差し込む。岩倉忠在地遺跡の上に立つ小学校ということで、廊下の一部が硬質ガラスになっており、竪穴住居跡の一部が見られるようになっているのもおもしろい。
 私学、大学附属、同志社という〝前置詞〟に、好悪含めて独特の雰囲気が立ち込めるのは仕方がない。確かめはしなかったが、投じた財も公立校よりはずっと多額に違いない。だからこそ、鈴木校長のみならず、この小学校設立にかかわった者の多くが、「鼻持ちならないエスタブリッシュメント」の軸に傾かぬよう慎重に取組んでいる。
 ただ、私が留意したのは、そういうことよりも、同志社小学校の学び舎のそこかしこに、どのような「既成の小学校にない教育」の匂いや気配が漂っているかだった。器や意匠の目新しさ、贅を尽くしているかより、「道草教育」を標榜するこの小学校が、ひいては鈴木校長や教師たちが、どのような「中身」を盛り込もうとしているかだ。

ウクレレを抱えた先生

 同志社小学校の授業は礼拝から始まる。
 校内のチャペルには、日替わりで集まる学年が決められ、他の児童は教室の大型モニターに映し出される映像を見ながら祈りに参加する。この日は1年生だった。
 「心を落ち着け、目をつむってオルガンを聴きましょう」
 宗教の時間を担当する中川好幸教諭が言うと、子どもたちは一斉に瞼を合わせた。平然と黙想にひたる大人びた子よりも、ギュッと閉じた睫毛のあたりがピクピクしている子が多いことに何となく安堵を覚えた。やがて子どもたちは『こどもさんびか』を開き、大きな声で賛美歌を唱和し始めた。同志社小学校では入学式の際に、児童1人に1冊ずつ『こどもさんびか』を手渡す。
 鈴木校長は言う。
 「4月の頃は大変ですけど、ひと月もしたら静かになります。いえ、静かにしましょうとは言いますが、怒鳴ったりはしません。子どもの感受性が、賛美歌を手にチャペルや講堂へ入ったとき、どんな態度を取ればいいのかをキャッチしてくれるんです」
 礼拝のメインは奥野博行副校長の話だった。教諭たちが交代で担当するのだという。奥野副校長は、戦禍で義足を余儀なくされた彼の実父にことよせ、健常者が身障者の心を理解できるか、一所懸命に生きるとはどういうことか??を語った。人間の心の営みの核心を衝く重いテーマだ。短い講話ではあったが、児童はしわぶきすらせず聴き入っていた。思わず私が「おりこうさんだなあ」と漏らすと、鈴木校長はうれしそうに、しかし声を出さずに笑った。
 そのまま私は1年生の後について教室に向かい、中川教諭の宗教の時間を参観した。彼はなかなかユニークな経歴の持ち主だ。同志社大の英文科を出て、京都の公立高校の英語教師となったがコピーライターに転職する。仕事の関係でニューヨークに渡ったところで、「キリスト教に触れ、洗礼を受けた」。帰国後、同志社国際高校で英語担当として教壇に立ち、その合間をぬって母校の神学部に通って牧師の資格を得た。
 「う?ん、年若い頃じゃなくて30歳近くになってキリスト者となった理由ですか……なんでやったんやろ? いや、まあ自分のことやけど難しいなあ」
 彼はしきりと照れて真相は話してくれなかった。だが、高校教師を辞し小学校へ移ったことには一点の後悔もないと断言した。
 「高校生を教えるのも大変やけど、小学生はもっと大変です。でも、小学生は打てば響くというんかな、イヤなことはイヤって言うてくれる素直さがあるから、教えていておもしろいです」
 中川先生はウクレレを携えている。賛美歌の伴奏をこれで行うのだ。ついさっきの、オルガンの荘厳さとは違って、少し間延びした、とぼけているけど朗らかな音色が教室を満たす。子どもたちも楽しげに大声で賛美歌を歌っている。黒板の上に「きょうしつは、まちがうところだ」と張り紙してあるのも、ユーモラスであると同時に、とても深いメッセージではないか。
 授業の中心は、「自分の苦手なことを書き出す」ことだった。それを「学期末にもう一回見直して、どれだけ苦手を克服できたかを調べる」につなげる。これは、「がんばった自分を褒めてあげる」こと、「ゆるす」ことへと導かれていく。
 「先生は整理整頓が苦手やから、それ、書いとくわ」
 あちこちから、「私は7つある」「僕なんか14個やぞ」と競い合う声が返ってくる。中川先生は、「こらこら、苦手なことがぎょうさんあるのを自慢して、どないすんねん」とつっこみながら授業は進んだ。再び彼がウクレレを弾く。
 「はーい、みんなええかあ。『今日のパンを 今日この日に』って歌詞の意味を考えてみます??今日のことを、とりあえずしっかりやる。明日のことを思い煩わない。毎日、毎日が新しい日なんやで」
 男児が手を挙げた。
 「先生、夜に、明日はええ日で、うまいこと行きますようにってお祈りするのはアカンの?」
 「それ、えーなー。それはええことですよ」
 ボロンとウクレレが鳴る。
 「賛美歌は言います。罪をゆるしてください。私たちもゆるしあいます??この教室に罪のない人はいますか? ウソをつきたくなくても、ついてしまうこと、あるよなあ。人にやさしくしたいのに、なんでか知らんけど意地悪してしもたり。そんなことありませんか?」
 児童たちは「ある、ある」「ウソついたことのない人なんておれへんわ」と返答する。先生は、かまびすしい声々を聞き分けるかのように、手を広げて耳に当てた。
 「人は自分の思うようにできないもんです。だから神様に祈るんです。祈ってゆるしてもらうんです。ゆるされた人はうれしい。絶対にゆるさへんと言われたら、どない?」
 哀しい、いやや、耐えられへん! と再び返事がこだまする。
 「そうやなー。私たちもゆるしあいます??賛美歌の言葉、これ大切やなー」

新島襄ならどう考えたか

 教室を出た中川先生と並んで話した。先生を追いかけてきた子どもたちが退散するまで、少し時間がかかった。
 同志社はキリスト教、それもプロテスタントと縁が深い。創立者の新島襄が江戸末期に国禁を犯して渡米し、そこでプロテスタントとしての素地を固めたからだ。とはいえ、同志社は教義や教条を押し付け、絶対視するミッションスクールではない。そのテイストは「キリスト教主義」と呼ばれ、新島の精神に収斂されている。
 「新島先生はキリスト教を通じて愛を表現し、豊かな心や人間性、良心を育てたかったんと違いますか」
 中川先生は良く通る声で話す。
 「新島先生ってごっつい自由人やし、かなりのアウトローやと思うんです」
 そういえば鈴木校長も、新島への親愛の情をあふれさせながら語っていた。
 「新島って人は、広い世界に出て行ってみたい、もっと自由になりたいって思ったからこそ海外へ出ていきました。これ、実に冒険心に富んでいて夢の大きな話です。けれど反面から見ると、相当のオッチョコチョイだし、鉄砲玉みたいなところのある人だった。ケッタイな人ですよ」
 中川先生は言葉を継いだ。
 「新島先生は、自由人、アウトローやったからこそ個人を枠に嵌めなかった。ひとりひとりの個性が大事やと知ってたんやないですか」
 新島は、寺院や神社がひしめく京都で、〝耶蘇教〟の英学校を設立した。これは1875(明治8)年のことだから、いくら文明開化の花咲きつつある時代とはいえ、かなり無謀なことだった。事実、同志社と新島は誤解され、多くの批難と中傷を浴びた。
 彼の真摯さは激烈なパフォーマンスとなって噴出することもあった。生徒が学校当局の決定に反発し授業を欠席した際、教え子ではなく自らの左掌を鞭打って責めたのはその好例だ。同志社は慢性的な資金不足に喘いだが、彼は決して屈しなかった。新島は官立ではなく私立の大学を設立する大志を抱いた。新島は夢と理想を携えて全国を奔走し、その途上に病んで47歳の若さで逝去する。新島は確かにピュアで一途だった。だが、鈴木校長や中川先生がいうように、少々無謀だしエキセントリックなところもある。しかし、それだからこそ強烈に人間臭い。こういうところを含め、彼あるいは彼のスピリッツは同志社で敬愛され続けている。死後120年近くを経ても、新島は近しい存在だ。
 中川先生はしごくまじめな顔になった。
 「自身が伝道者でもあった、新島先生なら、こんなときにどう考えるんかなあって僕もよく問い直します」
 小学生が「ゆるす」を身近な問題と捉え、考えるきっかけを得るとしたら??偏差値教育で得る知識より、ずっと根深く力強いものを植えることができるはずだ。それを同志社小学校では「道草教育」とか「人間力育成」と呼んでいる。

英語で行われる音楽の授業

 「ター、ティティ、ター、ター、シッ、ター、ティティ、ター、ター、シッ」
 子どもたちは膝を叩きながらリズムを取る。
 「ターは四分音符、ティティは八分音符、シッは四分休符なんよ」
 江藤多恵先生を、床に座った子どもたちが取巻いている。音楽室にキーボードやギターはあるけれど机や椅子はない。教科書どころか楽器さえ持っていない。既成の音楽の授業とはずいぶん趣が異なる。しかもみんなの顔が嬉々として輝いているのが、いろんな意味でまぶしかった。
 私に限らず、音楽を愛し、人生の局面で音楽に救われた経験を持つ人は多かろう。しかし、だからといって音楽の授業が好きだった、愉しかったかというと一様に苦笑するのではないか。
 「じゃあ〝クラスルール〟をリズムにあわせて言ってみて」
 
  1. Eyes on the speaker (Ta, Ti-Ti, Ta, Ta)
  2. Hands to yourself(Ta, Ti-Ti, Ta, Ssh)
  3. Sit nicely(Ta, Ti-Ti, Ssh, Ssh)
  4. Listen(Ta, Ta, Ssh, Ssh)
  5. Participate(Ta, Ti-Ti, Ta, Ssh)

 驚いたことに、江藤先生は授業のほとんど全てを英語で押し通す。だが子どもたちは臆することなく、「Eyes on the speaker」とリズムに乗って唱和している。そういえば、英語の授業でも先生が情け容赦なく英語オンリーで授業を進めていた。もちろん小学生の英語だから、「I like an apple」という程度なのだが、教室に齟齬や当惑の気配がなかったことは興味深かった。
 ウオーミングアップともいうべきリズムの復唱が終わると、全員が仰向けになってお腹に手をあて複式呼吸を始める。
 「C(ド)、D(レ)、E(ミ)……」
 立ち上がった児童たちは、大きな口をあけ音階を追っていく。当然、声も大きくなるのだが、子どもにありがちな、調子に乗ってがなり立てているわけではない。
 「じゃあ今度はCをGに移すわよ」
 ハ長調からト長調への転調だ。江藤先生は最初の「ソ」の音をキーボードで導くと、子どもたちは待ってましたとばかりに、順々に音階を紡ぎだす。私は音楽教育に明るくないが、これは「移動ド(音名)唱法」というそうだ。日本では「ド」を固定する方法論のほうが優勢らしい??いや、そんなことより、私は子どもたちが簡単にキーを変え、その音階を口ずさみ、しかも見事に「音楽している」ことにちょっとした感動を覚えた。
 やがて授業は、音階から英語の歌詞のついたメロディーへと移った。子どもたちは踊ったり跳びあがったりして、音楽を身体でも表現しようとしている。そうやって肉体を楽器として奏でられる声が、これまた〝いい音〟ときている。教科書なんか、音楽の時間にいらないよなあ??私は独り言ちた。そのうち、頭の片隅にテレビか映画で垣間見たアメリカの音楽の授業風景が立ち上がってきた。あるいは教室全体に響くグルーヴ感が、ゴスペルを連想させる。教師からの一方通行ではなく、児童とのコール&レスポンスとでもいうべき形が成立している。さらに私は、江藤先生の流暢な発音とその発想、さらにはちょっと洋風な顔立ちに、彼女がハーフか日系アメリカ人に違いないと睨んだ。

 「いやあ、私、日本人ですよ」
 江藤先生は小さく肩をすくめた。もっとも彼女はアメリカの大学に留学してマスターの学位を取得、ニューヨークの公立校で音楽を教えていたことがある。
 「ニューヨーク時代の日本人生徒の親御さんに、同志社小学校が新設され、そこで教師を募集していますよって情報をいただいたんです」
 江藤先生は音楽ではなく英語の担当として面接を受けた。ほとんど教師の陣容が固まっていた頃だけに、採用されるのは難しいと半分以上あきらめていたそうだ。
 「ところが合格だったんです。しかも英語じゃなくて〝本職〟の音楽で」
 このことについて、鈴木校長は語った。
 「江藤先生のやってみたいことって本当に魅力的だったんですよ。人事面では多少の問題もあったんだけど、音楽を担当してもらうことにしました」
 校長は続けて「江藤先生の授業をご覧になって、どうでした?」と、いたずらっぽい眼を私に向けてきた。今さらのように気づいたのだが、この鈴木直人という人物も、かなり〝新島的〟だ。彼がスタッフに合議を図り、校長として断を下した事々にその片鱗がうかがえる。
 同志社小では当初、英語教育のため児童1人に1台のパソコンをはじめ最新ハイテク機器を装備した教室を考えていた。だが、ふとしたことからそれに疑問を感じ、皆と論議を重ね白紙に戻してしまったこともあったという。さぞや業者は怒り狂ったことだろう。この話に水を向けると、鈴木校長は平然としたものだった。
 「だって英語の担当をお願いした先生が、そんなもんで英語は教えられない。教師がパソコンの管理者になってどうする。機械よりマンパワーのほうが大事だと力説されるんで、なるほどなあと納得したんです」
 ちなみに同志社小の英語は前述したとおりなのだが、ネイティヴ2人に日本人1人が一組になって、つまりクラス15人に1人のネイティヴ教師という、目の届く、手の届く布陣で行われている。

 教師の資質というのは、何をもっていうのだろう??教科書の知識を的確に叩き込める人なのか。あるいは入試のノウハウやテクニックに長けた人材か。70年代の学園ドラマのような熱血一途の教師だろうか??私はこの問いに即答できない。ただ、小学校から中、高の12年を振り返ってみて、やはり心が通じた先生には変わらぬ敬慕の念を抱いている。
 私は近大附属小学校に通っていた。家が水商売の店を経営していたし、文学少女がそのまま大人になった母の影響も大きかったから相当にマセており、自分で言うのもヘンだがかなりの問題児だった。徒党の親玉に収まったり、イジメまがいのこともした。そんな私を5年、6年生の担任だった岸洋介先生は全身で受け止めてくださった。このことに対する感謝は今でも深い。余談だが、岸先生は教師を辞し、現在は僧侶になっておられる。
 中学、高校は私立の清風だった。偏差値アップが金科玉条のうえ、自由な学園生活とは程遠い日々を強要された。ここでの6年間については、他の媒体でもさんざん毒づき、唾を吐きかけたから繰り返さない。だが、そんな中でも桑原昭吉や牧田豊、岡部淳一といった先生方には親身に接していただいた。学業は超低空飛行で、ブンガクやらロックに耽溺していた落ちこぼれにも、ちゃんと胸襟を開いてくださった。
 琴線の触れあいは教師と生徒という関係を超え、人間としての敬愛につながる。桑原先生から見れば、オッサンになっても迷い続ける私は心配のタネなのだろう。今でもご指導を頂戴している。ちなみに、桑原先生は神道の造詣がことのほか深い。
 おまけに、私は同志社大へ進んだ。中・高の反動が大きく、勉強なんぞそっちのけで享楽、愉楽にのめりこんだ4年間だった。だが、私のような者にも新島襄の精神は深く打ち込まれた。同志社の水を呑み、空気を吸い、土の上に立ったことで、新島という「ピュアでアウトローな自由人」の息吹に触れられ、鈴木校長や中川先生同様に思慕の念を抱いた。もっとも、これは私にとっての新島観、同志社観であって、すべての同志社に学んだ者に適合できる話ではない。学校との相性は微妙かつ繊細だ。現に私の従兄弟も同じ大学に進んだが、新島先生のことなど何の関心も持っていない。彼はカレッジソングの歌詞すら知らないし、今でも平然と「大学時代より高校のときのほうがおもしろかった」と言ってのける。

 余談が過ぎた。江藤先生は私に言った。
 「いい子ぶってる子、受験の知識ばかりで頭でっかちになってる子をみると、どうしても間尺にあわないものを感じてしまうんです」
 彼女は「その子の中に潜んでいる、子どもらしい部分を素直に出してほしい」と続けた。
 「感じ方って人それぞれですもんね。音楽や絵画はもちろんだけど、国語や算数だって結論が一つというの、私はヘンだと思います」
 江藤先生の授業中の口癖はこうだ。
 「いい? 考えて!」
 この「考える」はguessではなく、thinkだというところに妙味がある。
 「私が考えてって言うと、子どもたちは本当におもしろい答えを出してくるんですよ。どうしてそう思うの? なぜ? って突き詰めていくと、どんどん、すごいことを返してくれるんです。この子たちの想像力、創造力って素晴らしい。そんなときは教師をやっていて幸せだって痛感します」
 江藤先生はインターナショナルスクールに奉職することも選択の一つに入れていた。
 「だけど同志社小学校のパンフレットを見て、ここなら児童だけでなく、教師に対する〝個人〟の捉え方が私の考えに近いんじゃないかなって思いました。〝異物〟も受け入れてくれそうだった。それにこの学校は、ビジネスで教育をやってませんからね。試行錯誤っていうのか、いろんな失敗も含めて許してくれる小学校なのが良かったんです」

 私は学校同志社小学校で行われようとしている「道草教育」に惹かれている。得手勝手だが、そこに新島襄の精神を見出そうとしている。しかし、手放しでこの学校や教師たちを褒め、讃えるのを本意とはしていない。現に、私が見聞きして回った中でも、いくつかの問題点や疑問点が存在していた。
 それらは、これだけの理念や実践を示しながらも、学校での教育に飽きたらず塾へ子どもを通わせる家庭がある、他校から受け入れた児童の中に、あまりに個性的な子どもがいて、その子の存在がクローズアップされてしまう、教師の間にも考えの差異や誤差が生じているという事々にも反映されている。
 最終回になる次回では、これらを踏まえて「道草教育のゆくえ」を探っていきたい。

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