Web草思
道草教育のゆくえ?新設された同志社小学校の現場より? 増田晶文
第2回 塾の優等生が不合格に
「お受験」への当惑

 同志社小学校は2006年4月に新設された。
 それは、鈴木直人校長をはじめとする教職員だけでなく、学校法人としての同志社、さらには建学の祖・新島襄の「精神」にとって、理想をどう現実化していくかの大きな挑戦だ。
 初年度、まずは1年から3年生まで各学年を募集した。
 06年度の3学期現在の在校生は210人だ。1年生90人は掛け値なしの新入生だが、2年と3年生のそれぞれ60人は他の小学校から〝転校〟してきたことになる。上級生の学年に人数が少ないのは「引き抜きはよくない」という配慮があったからだ。ちなみに本年(07年)度の新入生は90人で入学式が4月10日に行われた。

 同志社小学校が誕生し、立命館小学校も開設されたことは、関西の教育界に熱波を送った。さらには関西大学や関西学院大も近い将来、小学校を併設することを表明したので騒ぎは大きくなった。
 これら四つの大学は〝関関同立〟と呼ばれ、関西私学の雄とされている。関関同立は、関東の東京六大学から東大を抜いた私学連やG+MARCH(学習院、明治、青山学院、立教、中央、法政)などと対応、対照する形で捉えられることが多い。同志社を〝西の慶應〟と称する人もいる。
 確かに関関同立や同大には、首都圏の私学と似通ったニュアンスがあるのだが、ドンピシャというわけでもない。関西以外の人には肌感覚として伝わりにくいだろうが??偏差値や学閥的権威という意味では京大や阪大には何歩も譲るけれど、私学というカテゴリーの中では間違いなく上位を占める。大企業における卒業生の割合は高く、トップに立つ人材も少なくない。法曹や財務、経理の有資格者、マスコミ関係者も然りだ。
 相対的にいって、同志社には「中の上」あるいは「上の下」というポジション、あるいはベストではないがベターという感触がある。京大を出ていれば間違いなく〝秀才!〟と感心されるが、同大なら〝そこそこ勉強したんやなあ〟程度には見てもらえるということだ。
 話を戻そう??現在、受験ビジネスをめぐる状況は中学受験がコアといって差し支えない。特に首都圏、関西圏では過熱状態だ。今年の首都圏の中学受験者数は5万人を超して史上空前の規模となった。中高六年一貫教育への是非や、ブームの要因を語ると紙数がいくらあっても足りぬ。だが、日本の教育の在り方が「ゆとり」から「競争」「戦争」あるいは「格差」へとシフトしているのは間違いない。それと「ブーム」というものが、風評を呼び、人々の焦燥をかきたてることで成立することを胆に命じておくべきだ。あるいはインフルエンザやエイズの如く、ウイルスによる感染爆発(パンデミック)を連想していただきたい。
 空前の中学受験ブームに際して、「公教育はなっていない」や「自分も高学歴だから子どもにも同じ経歴を」から「父親の参画で受験を契機に家族がひとつに団結する」まで、さまざまな分析や動機づけ、要因などが取りざたされている。しかし、多くの人々がそれを後付けで咀嚼し、納得しているのではないか? 巨大な流れに意味もなく呑み込まれていたり、隣も受験するならウチも??という態だったりして、かなりの数が確たる理由もなく受験に走っているような気がしてならない。それは、私自身が月刊誌で息子の中学受験に際し、その有様を連載していた経験に基づく実感だ。受験というウイルスは簡単に空気感染してしまう。だからこそ、中学受験はパンデミックを引き起こせた。
 受験ビジネスの中核であり、動向を握っているのは塾だ。彼らは中学の次に小学校受験をターゲットにしつつある。大手出版社が小学受験に強みのある塾を買収したり、有名塾が小学受験のためのコースを新設する動きが目立つ。
 かつて小学受験はバブル経済後期に話題となっている。「お受験」というのがそれだ。受験に「御」をつけるセンスが、当時の小学受験の雰囲気を濃厚かつ的確に示している。どこかスノッブでノーブル、しかもハイソサエティな(こんなカタカナを列記するだけで首筋がこそばゆくなる)気分が漂っていた。しかし、経済状況が急速に悪化したのと、受け皿となる小学校の数が少ないために大流行する前に自然終息してしまった。
 実は私は幼稚園から大学までずっと私学だった。1960年に大阪で生まれ、育った私の世代において、私立というのはさほど学力的に評価はされておらず、国公立校の後塵を拝する形だった(もちろん灘や甲陽学院、東大寺学園、星光学院などの例外はある)。さらには金持ちの子息、子女の行く学校だったのだ。事実、「ボンボン学校」という呼び名が私の周囲には存在していた。決して露悪的な物言いではなく、私学というのは、「アホボン」の行くところというのが相場だった。
 加えて書けば、私が近畿大学附属小学校へ入ったとき、実家は機械関係の工場を経営してかなり羽振りがよかった。2クラス、50名に満たない同級生たちの家庭も似たようなもので自営業が多く、あとは医者、会計士、銀行員といったところだ。高度経済成長期の波に乗って勃興する中産階級の中でも、とりわけ鼻息の荒い連中が、子どもを近大附属小学校へ入れたのだろうし、もっとアッパーな階層にはそれなりの私学が用意されていたはずだ。
 だから、「私学=ボンボン学校」を巡る外部の視線には、「公立で充分なのに、高い授業料をわざわざ払ってまで私学へ通わせる」という意地悪な感慨、クソッタレという気持ち、さらには「金持ちの子どもちゅうても、あんまり勉強の方はでけへんのやろ」という小バカにした嗤いや希望的観測も含まれている。これは私学を語る場合に存外に重要なファクターではないか。当世の「お受験」に対する世間の眼差しにも、それらが反映されていると私は睨んでいる。

 小学校お受験は、ここへきてまたぞろ復活の兆しをみせつつある。塾が市場開拓を目論んでいるだけでなく、前述したように同志社や立命館などの私学小学校の数も増えていく。これは首都圏でも顕著で、早大の小学校だけでなく今後は主だった大学が続々と附属小学校を開校する構えだ。経済状況も何やらバブル期をなぞる様相になってきた。そこに親たちの思惑が加わる。早い話が、そこそこの知名度と偏差値の大学までエスカレーターで行けるのなら、早い段階で子どもを放り込んでしまえ??ということなのだ。
 だから、塾ビジネスの面々が同志社と立命館の同時設立を知って、大喜びしたのは当然のことだ。同志社小学校が入試について何も発表していないうちから、塾は「同志社小学校コース」を掲げ幼稚園児たちを集めだした。
 同志社小学校ひいては鈴木校長の当惑はこの点に尽きる。

詩人の書いた「校歌」

 「偏差値教育の先兵とか、いわゆるエスタブリッシュメント養成校と誤解されるのが一番困ります。そこを見誤ると、ウチも親御さんも不幸です。何より子どもが一番の被害者になってしまいます」
 鈴木校長はことあるごとに強調する。
 「わが校は、計算ドリルや漢字テストの成績がいい、あるいは大人顔負けの知識を持っている子どもを求めているわけではありません。人格と感性にあふれ、人間力に基づく魅力をもった子どもにこそ来てもらいたいんです」
 同志社小学校の説明会で例外なく会場がどよめくシーンがある。
 「校歌を谷川俊太郎さんに書いていただきました。谷川さんは同志社のご出身ではありませんが、お母様が同志社に関係していらっしゃったそうで、学校設立の理念をお話したら、実に快く校歌を書くことを承諾してくださいました」
 谷川は作詞した。
 「えらいひとになるよりも よいにんげんになりたいな どうししゃしょうの わたしたち」
 この一節の効果は絶大だ。「偉い人」「良い人間」に対する想いや評価は意見が分かれるだろう。いくら志や理想をかざしても、決して満腹にはならぬと嘯く人がいてもおかしくない。実際、「冗談じゃない」と立腹して受験を取りやめた親もいた。〝ライバル〟の立命館小学校は百マス計算で名をあげた陰山英男を副校長に据え、基礎学力の形成を第一に掲げている。漠とした人間性と、数値で明確な学力を天秤にかけたとき、おそらく圧倒的多数の親は戸惑ってしまうだろう。だが鈴木校長は、そんな批判なんぞ、どこ吹く風と受け流す。それどころか、彼は破顔してみせた。
 「道草教育をやるんです。直線的で即効性のある偏差値教育じゃなくて、立ち止まって、触れて、考えて……というのをやっていきます。子どもたちのゴールはずっとずっと向こうにあるんですからね。人生レースにおいてタイムや順位なんてどうだっていい。途中に気になるものがあれば、レースなんかほったらかしにしてもらっていいんです」
 彼は言葉を切ってひと呼吸置くと、表情を引き締めた。
 「同志社小学校には鼻持ちならないエリートは必要ありません」
 さらに校長は、塾講師をしていた同志社大の学生が女児を殺めた事件に触れ、教育者として自分たちがいかに至らなかったか、慢心していたかを滔々と語った。それは懺悔というに等しいモノローグであった。
 「今の日本に必要なのは人ひとりの存在、命の大切さであって、決して偏差値的価値観ではありません。あの凶行に及んだ学生の存在を反面教師にして命の尊さをきちんと教えていきます」

「良い子」を振る舞う子供

 同志社小学校の入学テストは、適性検査と親子面談の二本立てだ。適性検査のメインは、行動観察を行う。数時間、子どもたちを〝野放し〟にしておいて、その行動から各自の個性を読み取っていく。
 有名塾からは、エースといわれるような子どもたちが送り込まれ、受験に挑んだ。前述したように、同志社小学校が試験の要項を発表する前から「同志社小コース」をつくっていた塾があったくらいだった。塾では3歳児から絵画、習字、音楽、数などのノウハウや知識を伝授する。これらと同じように大事なのは、面接での受け答えや、行動観察でアピールすべき協調性やリーダーシップ、独創性などの演出方法を修得させることだ。そんなことを聞かされ、どこか間違っている、ボタンが掛け違っている、と感じるのは私だけではあるまい。塾の在り方はもちろん、そこに群がる親の見識もいかがなものか。
 鈴木校長もまた、意見を同じくする。
 「行動観察をしていると、本当によく子どもの素の姿がわかります。いくら塾で訓練されているといっても、そこはやはり5歳児ですからね。ある程度の時間をかけて見ていると、化けの皮というかメッキは剥げちゃいますよ」
 ある塾の優等生は、子ども数人で長時間いるとワガママな行動が目立ったし、教員にも甘えたような仕草を見せたという。だが、検査が終わって親と対面した途端、それこそ〝良い子〟の見本のように振る舞い始めた。
 「子どもっていうのは、他人と一緒にいるとちょっとは社会的な面を見せるけれど、親の前だと本当の自分をさらすし、甘えたりダダをこねたりしてグダグダになってしまうもんですよ。私は親子の関係はそれでいいと思っています。けど、この子の家庭は違うんですね。親といるときが建前の社会であって、背筋を伸ばして規律正しくしなければいけない??そういうの、はっきりいっておかしいんじゃないですか」
 実際、同志社小学校では塾のエースたちが続々と不合格になった。塾の講師や保護者から「なんでウチの子がダメなのか」と問い合わせが来た。鈴木校長は応える。
 「そういう子は確かに、いわゆる学力は高かったです。他の私立小学校ならおそらく合格でしょう。同志社小が失格にしたというのもヘンで、彼らの学力は認めます。でも、わが校はトータルに子どもを見ようとしているのです。ひょっとしたら、われわれがそのお子様の素晴らしい面を見逃してしまったかもしれません。したがって、そういうお子様とはご縁がなかったということで理解していただいています」
 だが、現実問題としてほとんどの子どもが「お受験塾」を経て同志社小へ集まっている。ある保護者は、有名塾を掛け持ちしたと告白してくれた。やはり保護者にとって、同志社というのはブランドであり、大いに魅力的なのだ。塾、私学、保護者というトライアングルは、それぞれが、それぞれの矛盾を背負いながら、妙な共存共栄関係になってしまっている。
 また、入学金や諸費用を含め初年度で130万円近く、2年生以降でも100万円ほどの学費を捻出できる家庭は、間違いなく裕福といえよう。鈴木校長がアンチ・エスタブリッシュメントを唱えても、これらの点を衝かれると痛かろうし、攻撃、排撃の好材料となるはずだ。
 「私たちの行っていること、行おうとしていることが理想論に基づくものなのか、どうかはわかりません。私も、われわれのやろうとしていることは風車に突撃していったドン・キホーテなのかもしれないと思うことがありますし、そういう発言をすることもあります」
 しかし??鈴木校長は声を大にした。
 「日本の初等教育に問題がないと感じられるのなら、今は問題があっても日本の将来にとって間違いのない道を進んでいると感じることができるなら、われわれの試みは単なる理想論ですし、意味のないことだと思います。けれど、現代社会を見れば、初等教育の歪みが原因と思われる事件が多発しています。こうした状況の中、われわれは同志社だからこそ、他の学校にできないことができる環境にあるのです。だから、教育はかくあるべきではないかという実践を世の中に発信し、その成果を示していくことこそが、われわれに課せられた任務だと思います」
 鈴木校長は続けた。
 「同志社小のやり方が成果を出すには、とても長い時間がかかります。10年先、20年先にわが校が日本の教育を見直す魁だったと評価されるなら、これに越したことはありません。また、逆に失敗だったと非難されることもあるでしょう。いずれにせよ、私たちがすべきことは、他から何を言われようと、礫を浴びようと、私たちが正しいと信じる教育のあり方を模索し、実践していくだけだと思います。これが校祖新島の言う『良心』に従った進むべき道ではないでしょうか」

高い理想のゆくえ

 同志社小学校にとっての最初の夏休みだった昨夏、鈴木校長は全校児童に二つの〝宿題〟を出した。
 「この夏は、おもいっきり遊ぼう!」
 「最低2回は美術館か博物館へ連れて行ってもらおう」
 ちなみに冬休みは、「お父さん、お母さんと一緒にいることが多いので、いっぱい甘えてきなさい」だった。ある保護者は言う。
 「担任の先生も、宿題ドリルは出しますが全部やってこなくていいです。その代わり、存分に遊ばせてやってくださいとおっしゃってました」
 道草教育の実践に向け、とにかく第一歩は踏み出されたわけだ。
 とはいえ親と学校の微妙な温度差も存在する。同志社小としては塾を禁止していないが、推奨をするはずもない。しかし現実に少なからぬ数の児童が塾に通っている。一方では道草教育に共鳴しつつも、片方では学校だけでは勉学が不安だという親も確実に存在するのだ。保護者からはこんな声も漏れてくる。
 「将来は同志社大へ進むのもいいが、医学部や他の有名私大、国公立大への進学を否定したくはない」
 鈴木校長は「遊べ、遊べ」と声高に言うけれど、子どもたちが野原や広場で自由に身体を動かし、冒険心を満たせる環境が整っているわけでもない。私学だから児童同士が近所同士ではなく、放課後に行動を共にできない事由もある。遊ぶとなると、ついゲームを連想する子もいよう。
 高い理想と理念に裏打ちされつつも、現実が提示する事々との矛盾とギャップが見え隠れする。その事実といかに対峙し、理想を実現していくのか??これからこそが、鈴木校長と同志社小学校、ひいては新島精神の正念場に他ならない。

草思社