Web草思
道草教育のゆくえ?新設された同志社小学校の現場より? 増田晶文
第1回 「小学校」のありかた
 午前7時半、洛北にある同志社小学校へ向かうため、私は京都の地下鉄に乗った。沿線には同志社小学校、ノートルダム学院小学校、立命館小学校の三つの私立小学校が点在し、競合、共存している。
 列車にはたくさんの小学生たちの姿があった。一瞬、遠足や社会見学に向かう群れに遭遇してしまったときのことが頭をよぎった。だが、心配は取り越し苦労だった。子どもたちは、シートにちょこなんと座り、本を読んだり、小声で友人と話したりしている。総じて〝おりこうさん〟だ。ゲームやケータイに興じている子はない。学校を問わず、たいていの子がリュックに防犯ベルをつけている。そんな中、いぎたなく眠りこけている子がいたのには驚いた。
 同志社小と立命館小は昨春の開校だが、ノートルダム小は1954年の創立だ。ノートルダム小は上に女子中から女子大まであるが、有名中学への進学率と実績で名高い。小学生たちには制服組もあれば私服の一群もいた。同志社小は通学カバン以外は定めていないから、ちょっと見には公立の小学生と変わりない。目立つという意味では、濃紺の帽子に男の子はネクタイ、女の子はリボン、「Rits」のエンブレムをつけた立命館小学校の子たちが断然見栄えする。
 いくつかの駅を過ぎるうち小学生の数は減っていった。同志社小の児童たちは終点まで行く。地上に出ると、暖冬というものの岩倉の空気はさえざえとしており、吐く息が白かった。

校門で出迎える校長

 校門では鈴木直人校長が笑顔で児童たちを迎えていた。開校以来、鈴木校長は大学の公務がない限り、一日も欠かさず校門に立っている。いつもは奥野博行副校長も並んでいるが、近くで京都精華大生が刺殺される事件が起こったため、副校長は大事をとって、その現場近くを通る児童を出迎えに行っているという。
 「おはよー、ごさい、まーす!」
 鈴木校長の姿を見つけた児童が遠くから大声で挨拶を送ってきた。それにつられたように、何人もが声を重ねる。中には飛び跳ね、駆け出す子もいた。
 「おっ、今日も元気がいいな」
 校長は満面の笑顔で彼らと向き合う。勢い余ってぶつかるようにして、子どもたちは校長の周りを囲む。まるで祖父に語りかけるように、「あんなあ、昨日なあ、僕なあ……」と話し始める子もいる。校長は相好を崩したままだ。
 「毎日、顔を見ていますから機嫌や体調の良し悪しはだいたい分かりますね。子どもは気持ちに正直だから、こっちが手を差し伸べてもブスっと無視して行くときだってあるんです」
 遅いなあ。どうしたのかな??つぶやくように、何人かの名前が校長の口からこぼれる。おおよその児童の顔と名前、登校時間は頭の中に入っているという。
 大声で歌いながら登校してくる女の子もいた。校長は「やあ、来た、来た」と手を振る。
 「誰、この人は? 新しい先生?」
 彼女が校長と私を交互に見やった。活気と才気が表情を満たしており、物怖じしない態度の内側から好奇心が突き破ってきそうだ。
 「取材に来てはるの。君の授業も覗きに来はるかもしれんなあ」
 「テレビ?」
 「いやいや、作家さんや。文章を書きはんの」
 「ふーん」
 その子は上目づかいで私をじっと見つめた。値踏みされているようで居心地が悪い。女の子は、校長に促されて校庭へ向かったが、何度も振り返る。ピースサインを送ってやると弾けたように笑い、ベーと舌を出して応えてくれた。
 「あの子の感性、そりゃ物凄いものがあるんですよ。歌も上手だし、いい絵も描くんです。だから、その分、他の子よりユニークなのは確かですけど」
 「感性が有り余りあふれ出てしまって、ちょっと他の子とは違ってしまうんでしょうね」
 「既成の教育システムや概念じゃ、あの子の良さは正当に評価されないんじゃないかな。この子の芽は絶対に潰したくないし、どんどん伸ばしてやりたいんです」
 私の知っている中にも似たようなタイプの女性がいる。小学生までは奔放に育ち、やはり芸術方面に異彩を放っていた。当時の絵や粘土細工を見せてもらったが、色使いや造形のセンスは確かに秀逸で、なにより独創性に満ちていた。
 彼女は5年生の一学期の始業式の最中に、どうしてもダンスがしたくてガマンできなくなってしまい、とうとう演壇に登って自作の歌をうたいながら踊りだしたことがあったという。確かに、変わった子には違いない。塾で、他の学校の児童が「お前かあ??」とわざわざ顔を見に来たというくらいだから、校区を超えた有名人だったようだ。
 「けどね、先生には一度も叱られなかったの。ヘンだと言われたこともなかった」
 彼女はそう述懐していた。しかし、中学から彼女はまず学校、次いでクラスメイトから「世間」「標準」という型に嵌まることを求められていく。高校になると「変わっている」「どこかおかしい」と異端視されるのを苦にするようになってしまった。
 「何を言っても、行動しても誤解されちゃう。だから、何もしなかったし話さなかった」
 自分の内面にカギをかけてしまった彼女は、才能の萌芽を慈しむことなく、むしろ刈り取っていく。その頃から精神を病むようになった。蝕まれた心の滓は、いまも彼女を苛んでいる。
 小学校の校門で、私はそんなことを思い出した。彼女は大変に美しい女性だった。さっきの女の子も整った目鼻立ちをしている。思わず私は二人を重ねていた。そんな胸中を校長が知るよしもなかろう。だが、彼は表情を引き締めた。
 「あの子のような才能、個性を大事にしたいから同志社小学校をつくったんです」

「小学校設立には反対でした」

 校長室はガラス窓が大きくとられ、外から中がよく見える。
 ドアノブに札が下がっていて、それが児童、教職員を問わず、「用事や話のある人はいつでも入ってきていいですよ」というサインになっている。鈴木校長が在席中は、ずっと札が下がったままになっていることが多い。鈴木校長は心理学を修めた医学博士、1947年生まれだからこの秋で満60歳になる。
 「最初に小学校をつくろうって話が出たのは、1995年くらいだったかなあ。それが具体的になったのが02年あたりからです。05年が同志社創設130年に当たるので、記念事業の目玉みたいな存在になりました」
 ここで言葉を切ると、校長は私の眼を覗き込むようにして見据えた。
 「けどね、私は小学校設立に反対でした」
 その理由を大きく括れば2つある。ひとつ目は財政だった。学校法人としての同志社は、幼稚園、4つの中学・高校、それに大学と女子大、それぞれの大学院という構成で小学校だけがなかった。幼稚園はすでに100年の歴史があるというのに、ぽっかりと小学校だけが空いたままになっていた。同志社が小学校を持たなかった理由について、小学校運営にかかわる同大の森田雅憲企画部長は〝よもやま話〟と断って話してくれたことがある。
 「明治の私学黎明期に、主だった私学で小学校を併設していたのは慶應幼稚舎くらいですからね。あとは毛色が違うけど学習院初等科かな。西欧諸国と対等にやりあうには、まず大学レベルでの青少年の人材育成が急務でした。その分、小学校の児童は公教育に委ねるという意識が強かったような気がします」
 昨今は公教育、中でも小学校の在り方を問う声がかまびすしい。公立小学校での授業内容や教師、教育委員会の存在を含めて、現状を否定する声があがっている。いきおい、私学の小学校に注目が集まるのも仕方がない。そういう意味でも、同志社が小学校に参入するのはよいタイミングだったといえよう。だが鈴木校長は違った。
 「学校経営というのは非常にデリケートだし複雑なんです。よっぽどビジネスライクにやっていかないと赤字になる。というか、どれだけがんばったって黒字になんかならないんじゃないですか。けど教育はビジネスで割り切ってはいけないし、そんなことをすれば絶対に失敗します。教育ほど商売と遠いところにあるもんはないんですから」
 学校法人同志社の各校はそれぞれが独立しており「同志社大学附属」ではない。
 「そんな中、小学校が初めて〝大学附属〟になりました。要するに財政面で大学が援助をするということです」
 では、なぜ財政的なリスクを背負ってまで小学校をつくる必要があるのか??鈴木校長はそこを徹底的に追究していった。
 「小学校の役割は、同志社が求める本来の人材を育成すること、その人材によって大学へ投資することなんです。大学にも神学部があって、ここは生徒数が少ないし経営も苦しいです。だけど誰もが同志社大学の根幹を担う学部だと認識しているし、経営的な視点を神学部には持ち込みません。同じ位置づけを小学校にもあてはめ、コアでピュアな〝同志社人〟を育んでいこうということになりました」
 同志社は創立者・新島襄を外しては語れない。いずれ新島については深く語ることになるだろうから、ここでは略説に留める??彼は1843(天保14)年に生まれた。封建の世の不自由さを厭い、21歳で国禁を犯して密出国を果たしアメリカへ渡った。新島はアーモスト大学へ入学し、新しい学問や文化、気風に接するだけでなく、キリスト教に基づいた博愛と平等、自由、自治を肌身で知る。
 欧米での10年の歳月を経て帰国した新島は、1875(明治8)年に同志社英学校を開校した。同志社の歴史はここから始まる。彼が熱烈に希求し、標榜したのは自由主義であり国際主義だ。その根底にはキリスト教主義が横たわっている。新島は同志社に集うものたちに呼びかけた。
 「良心ノ全身ニ充満シタル丈夫ノ起コリ来タラン事ヲ」
 同志社小の児童たちはいずれ中学、高校、大学と進学していく。ステップアップするほどに学校の規模は大きくなり、生徒の数も厖大になる。特に大学ともなれば万を超す数の学生が在籍する。
 「学生たちの進学の志望動機はさまざまです。中には意に沿わぬけれど同志社大に来た学生もいます。そんな中で、宣教師役とでもいえばいいんでしょうか、建学者の精神を小学校時代から身につけた生徒がいてくれたら??彼らは声高に語る必要はないんです。その発想や言動、生き方など、どこかしらに新島の精神が見え隠れしてるだけでいい」
 しかし、鈴木の懸念が消えたわけではない。
 「二番目の問題は、誰が小学生を教育するのかということでした。だって同志社大学に教職課程はあるけど小学教師の部分が抜けてるわけですからね。他校で学び、教師になった人材を登用するしかないんじゃないですか」
 教育の根本に「理想」が据えられるのは当然だ。だが、それを実行に移すとなると、いろいろな現実に阻まれることも事実ではある。中でも「人材」の問題は重要かつ現実的だ。
 「新島襄という人物に対する共鳴共感、あるいは興味がないと同志社人の育成なんて無理でしょう。教職員もそうだし、彼らを束ねる校長は慎重に人選しないと土台から構想が崩れてしまいます」 
 校長候補には何人もが推挙された。中には学力や偏差値をアップさせることで名を売る人物や、マスコミ受けする著名人もいた。
 「でも、そういった人たちに小学校を任せていいのか。どこか間尺に合わないんじゃないか。少なくとも私はそう感じていました」
 小学校創設の是非は学校法人同志社の評議員会にかけられ、議論は白熱した。
 やがて、誰もがあることに気づく??例えば、前述した森田企画部長は言った。
 「鈴木先生は反対派の急先鋒でしたけど、同時に同志社小学校が掲げるべき『理想』に最も精通し熱心でした。鈴木先生は大学の文学部教授でキリスト教文化センター所長も兼任しており、ご自身は洗礼を受けてらっしゃる。当然、新島の言動に関する造詣や認識も深いわけですから」
 そのうち、熱弁をふるう鈴木の周りにぽっかりと空間ができた。彼は会議に参加した人々の視線が集まるのを感じた。皆の顔には、「ここに適任者がいる」と書いてあった。
 そこまで話して、鈴木は苦笑した。
 「もう逃げようがないなって観念しましたよ。教授とキリスト教文化センター長、評議員に小学校の校長が加わるのも何かのご縁でしょう」
 かくして、彼が小学校の新しい歴史を拓く重責を負うことになった。
 「教員の採用は面接や模擬授業などを繰り返して慎重に決めました。全体のおよそ半数は、中学から大学のうち、どこかで同志社に通っていた方です。残り半分の先生が同志社を知らない人材ということになりますが、どなたも私の想いをよく理解していただけた先生です。これが全員、同志社関係者だと反対に発展性がなくなってしまうんじゃないですかね」

「教育」への懐疑

 鈴木校長と話していると、当然のことながら「教育」という言葉が頻出する。便宜上、私は「教育」と書いてきたし、今後も使っていく。だが私には、この言葉に対して譲れない部分がある。それは「教え、育てる」ということへの懐疑と言い換えてもよい。
 私が「教育」に違和感を覚えたのには大きなきっかけがある。まずは、中学、高校とお世話になり、今も師事させていただいている桑原昭吉先生の存在だ。桑原先生は常々、ユーモアを交えてこうおっしゃっている。
 「教育の本筋は、教師の信じる条理を押し付け、生徒の力を引き出すこと」
 これは、やがて拙作『大学は学生に何ができるか』(プレジデント社)の舞台となった金沢工業大学を取材したときに、私の中でより強固なものとなり、ほとんど確信に近くなった。金沢工大の石川憲一学長の談話は示唆に富んでいた。
 「明治になって education を〝教育〟と訳したのは間違いだったんじゃないでしょうか。この言葉には本来、『能力を引き出す』という意味があるんです。私は教え育てることを大事にするのはもちろんですが、education の持つ本来の語義にこそ力を注ぎたい」
 残念ながら日本の教育システムが、学生の「能力を引き出す」という姿勢に著しく欠けていることは誰もが否定できまい。私はこのことを鈴木校長にも話した。彼は何度もうなずき、身を乗り出したのだった。
 「教育というのは、教師と生徒という枠を超えて、人と人が向き合うこと、触れ合うことなんです。学力とか偏差値、教えるテクニックなんて私はどうでもいい。人間として教師として、児童からどれだけ好かれるかが大事です」
 私は昨年の9月から月刊現代で「父と子の中学受験200日戦争」という凄まじいタイトルの連載を始め、4月号で一応のケリをつけた。今秋には単行本として再び世に問う予定だ。中学受験に挑む愚息の姿を通して受験や塾、私学と公教育、親の在り方などをテーマにした??こう書くとえらくカッコいいのだが、実態は右往左往、紆余曲折、呻吟苦悩のドタバタ劇になってしまった。
 本性の私は自分の作品やら栄達しか頭になく、妖しの婦女子と見れば籠絡を夢想し、酒を呑んだら果てしなく沈溺してしまう。妻子が弊衣を着ていても、自分だけは着飾る愚か者でしかない。教育や家族というものからは極めて遠いところにいる。それでも「教育」という問題は大きい。半可通ではあるけれど、教育でしか国は救えないと信じている。持てる力を尽くして正対していきたいテーマだ。

草思社