前に読んだ記憶はあるが、改めて手にして驚いたのは、昭和二十年に首相官邸、陸軍省、外務省にいた実力者たち、内地から外地にいた青年士官から兵士たち、動員された女学生まで、三十人を一堂に集め、昭和二十年七月二十七日から八月十五日までの思い出を語ってもらって、その大きな輪郭の中身をしっかり満たす充実感があることなのである。
もうひとつの驚きは、この座談会に出席したときの三十人の年齢が私よりいずれも若いことだ。誌上参加した吉田茂の八十四歳、佐藤尚武の八十歳が私より年上なだけだ。今村均将軍にしても七十七歳だった。だれもが六十代、五十代、四十代だった。司会を担当した半藤一利氏にいたっては、そのとき三十三歳だった。改めてその座談会は戦後、「僅か」十八年のちに開かれたのだと思いにふけることになった。
三つめの驚き、これがいちばんの驚きなのだが、その座談会の雰囲気がまことに穏和なことである。不信感や憎しみを投げかけることなく、穏やかにすべてを包みこもうとする寛容さが溢れている。司会者、半藤氏の才腕によるものだが、もちろん、それだけではない。

半藤一利編『日本のいちばん長い夏』文春新書
「陛下は、日本の再建には三百年かかると仰言られたと洩れ承るが、私は少なくとも三十年とみた。米内大将はマッカーサーに百年と答えたということだ」(二七頁)
『いちばん長い夏』の座談会に参加しただれもが、昭和二十年に、日本が戦前並みに戻るまでに三百年、百年とは思わないまでも、三十年から五十年はかかると想像していた。ところが、この座談会が開かれた翌年の昭和三十九年、敗戦から十九年のちに東京でオリンピックが開かれることになっていたのである。だれの胸中にも自信の回復があってこそ、昭和二十年を振り返って、寛容があったのである。
『長い夏』を読んでいて、心がなごんだのは、出席者のひとり、荒尾興功が昭和二十年に陸軍大臣だった阿南惟幾を褒めたたえたことだ(六七頁)。そのとき荒尾は軍事課長だった。
だが、荒尾の述べたことが足りないという不満は残る。多くの人の主張と異なり、私は、原爆投下のあと、戦争終結はさほどの難事ではなかったと思っている。荒尾の下の軍事課員がただひとつの抵抗勢力だった。二・二六事件のときを見ればわかるように、日本が危機に直面したとき、軍事課員は自分たちが決めねばならないという気概を持っていた。軍事課長だった荒尾の説明をもう少し聞きたかったと思っている。
この『長い夏』のもうひとつの不満は、海軍大臣だった米内光政はすでに没していたが、米内の考えを承知し、かれを尊敬していたかれの部下が座談会に出席していなかったことだ。なるほど富岡定俊は優秀な海軍軍人だった。あの戦争さえなければ、かれは昭和三十四年に前軍令部総長の肩書を持っていたにちがいない。だが、かれは米内が考えていたこと、やったことを知らなかったし、理解もしていなかった。
ソ連に戦争の終結の仲介を求めたことについて、つぎの四人の説明と考えを読んで、読者もともに考えて欲しい。
「佐藤尚武(駐ソ大使) それにしたって、こっちの腹はぜんぶ読まれて、向うの気持ちは何もわからないなんて外交がありますか。それが広田・マリク会談なんですよ。ソ連の腹はわかっていたのです、初めから。日本から貰うのではなくて、取るんだという考え方でした。
荒尾興功(陸軍省軍事課長) いま、外務省は対ソ工作を信じていなかった、といいましたが、陸軍だって信じてませんでしたよ。私なんかいまの広田・マリク会談なんかうっすらと聞いてましたが、ちょうどそのころの六月中旬でしたか、阿南惟幾陸軍大臣と一緒に視察にでたとき話したものでした。飛行機の中で大臣と私の二人でしたが、ソ連との中立条約をどう思うか、といわれるのです。『それは信用おけませんよ。米国が日本に上陸する一歩手前ぐらいに進撃を開始するでしょう』といいましたら、大臣も、『そうだろう。わしもそう考えている』
……
富岡定俊(軍令部作戦部長) それでは対ソ工作をどこのだれが信じていたのでしょうね。海軍の方の判断は、沖縄戦がはじまるあたりでソ連が参戦してくる、という結論がでました。沖縄作戦というのは、一面からいえばソ連をして参戦させないためのものでした。
松本俊一(外務次官) アメリカもたしかにあそこで大変な錯誤をしていますね。もし、アメリカがあの時点でうまくやったら、ソ連は満洲へ入ってはこられなかったでしょうね」(三二~三六頁)
その三十人のなかにただひとり外国人がいた。ルイス・ブッシュという英国人である。六十歳以上の読者であれば、NHKの英会話の先生だったと懐かしく思いだすはずである。
ブッシュはその座談会のなかでつぎのように語っている。
「ルイス・ブッシュ 横浜やられました。(五月二十九日)。日本の下士官とワタシ捕虜、外人墓地ゆきました。なんにも見ることできない、煙で。兵隊さん一つホマレ煙草くれました。急にお婆さんきました、布団かぶって、七十くらいです。一服ください、二、三本あげましょう。そのあとに日本の奥さんきました。きっとフランスの人、子どもあいの子でした。煙草あります。火ありますか。おう、火どこでもあります(笑)。ガマンして下さい。もうじき終わります。もうじき日本駄目です、そういいました。
八月六日ごろ日本の海軍少将きました。『ハウ・アー・ユー、どうですか、食事、毎日ビールありますか』。びっくりしました(笑)下士官よんで、どうしてビール、ウィスキーもってこない。下士官気の毒でした。ハイ、ハイ。夜、おせんべい、ビールもってきました。ワタシ、戦争もうじき終わるな。原子爆弾のこと知りませんでした。
徳川夢声 ブッシュさんのお話をきいていて思うのですが、賢明なる外人は日本の敗北が近いことを予感していたのに、愚昧なる私などは最後まで戦う決心でいたのですから、情けない。敗戦の予感はずいぶん前からありましたよ。当時の日記にそう書いてある。が、どんな風にして終るのかわからない。そこで最後まで戦う……」(四〇~四二頁)
夢声をはじめ、座談会に出席していた人たち、そしてこの本の読者は横浜の山手に捕虜収容所があったのかと思うだろう。
その収容所は以前に外国人の邸だった。戦争末期、山手にある女学校、無人になった洋館の多くを海軍が接収していた。さて、山手の収容所にいた捕虜は二人だけだった。
そのうちのひとりがルイス・ブッシュだった。山形高等学校の講師であったが、昭和十五年に辞任、帰国して、海軍に志願した。愛国者だったのである。海軍水雷艇の副長となり、香港に派遣された。山形時代に結婚していた妻も香港に来た。日本軍の香港占領によって、ブッシュは捕虜となった。妻も日本へ帰った。
ブッシュは大森にあった陸軍の俘虜収容所にいた。捕虜の管理は陸軍の任務だった。海軍は捕虜から情報を得るために大船に仮収容所を設けていたが、空襲が烈しくなり、陸軍側が大船の捕虜を引き取らなくなり、昭和二十年には百人ほどの捕虜が大船にいた。
海軍がわざわざ、大森から英国の軍人二人を引き取り、大船に送り込むこともせず、横浜の山手に住まわせるようにしたのは、当然ながら理由があった。すでに戦いのさきは見えていた。戦争終結のために英国と交渉しなければならなくなるときに備え、伝書使としてブッシュを利用することもあるのではないかと考えての特別扱いだった。横須賀の海軍砲術学校の教頭だった高松宮がこの工作を承知していた。
そしてルイスひとりでは淋しかろうということで、もうひとりの捕虜を「同房」としたのだった。そのオーストラリア兵は気楽な毎日を過ごすことができるようになって、アラビア語の独習にいそしんでいた。海軍兵士のお伴を連れて、二人は日本橋の丸善まで洋書を探しに行ったこともあったのである。
付け加えておこう。高松宮の日記に大森から横浜に移されたブッシュのことはでてこない。戦後、昭和二十一年十月四日の項につぎのような一節がある。「晩餐、英国『ブッシュ夫妻』『ハーヴィ サットン』、島津夫妻、義知夫妻」
サットンについては、英連邦東京地区占領軍衛生課員との注があり、ブッシュには「不詳」とある。恐らくこのブッシュ夫妻はルイス・ブッシュと夫人のかねであろう。日記には高松宮とブッシュ夫妻とのあいだの会話の要点は記されていない。
もうひとつ、最後の最後に。この『いちばん長い夏』にはコラムが入っていることは最初に記した。『いちばん長い夏』を再録するにあたって、出席者三十人のひとりひとりを紹介し、かれらの言葉を引用して、その像をはっきり浮かびあがらせるのに成功している。石田陽子氏の執筆だが、これより前、彼女がつくった『昭和十二年の「週刊文春」』のコラムもまた、舞台と客席とのあいだの距離を縮めるのに成功している。
半藤一利編『日本のいちばん長い夏』文藝春秋(平成十九年十月発行 定価735円)
