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書冊の山より 鳥居民
第11回 長谷川毅『暗闘』
 日記や回想録を解説、あるいは紹介するのが毎回の仕事になり、ときにそれらのなかからの発見を伝えたこともあったが、書評をすることを忘れていた。
 今回は書評となる。いつもながら六十数年前の大戦についての著作を評することになる。だが、いささか長い前書きを付け、対象の本の全体を取り上げることをしないばかりか、残念ながらこの著作を褒めることもしないだろう。やっぱり、これもまっとうな書評とはならないのかもしれない。
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長谷川毅『暗闘―スターリン、トルーマンと日本降伏』中央公論新社
 最初に読者に問いたい。アメリカはどうして日本と戦ったのであろう。アメリカは日本の顔の前に赤い布を振ってみせた。それに向かって日本が猪突猛進したのはなぜだったのか。この論議はここではしない。
 私が取り上げるのは、どうしてアメリカは日本との戦争を望み、日本を戦争に追い込んだのかということだ。そのときに大統領だったルーズベルトは中国のために日本と戦争を決意した。研究者ならずとも、だれもが承知していることだ。
 ところが、一九四三年の末から、四四年、四五年にわたって、アメリカが日本にたいしてどのような軍事・外交戦略をたてていたかを研究する人たちは、一九四一年にルーズベルトは中国のために日本と戦争する決意をしたのだという事実をいつか忘れてしまっている。
 そこでひとつの重大な出来事について記さなければならない。一九四三年十一月二十三日から十二月六日までの二週間ほどのあいだに、ルーズベルトは容易ならぬ経験をした。
 そのときルーズベルトはカイロに滞在していた。十一月二十三日から四日間、かれは蒋介石夫妻と話し合った。そのあいだにルーズベルトが待ち望んでいたことが起きた。アメリカの新造、新編成の四組の高速空母戦闘群がはじめて出撃し、中部太平洋のギルバート諸島のマキン、タラワを奪回した。
 三十年にわたってアメリカにとって面倒の種だった日本を明日には埋葬でき、蒋の中国を世界の四大国のひとつにするというかれの夢も明日にはかなうことは確実とかれは思った。かれはご機嫌だった。かれとチャーチル、そして蒋介石のあいだで合意した三国の日本にたいする戦争目的の宣言、いわゆるカイロ宣言が公表されたのが十二月一日だった。それより前に蒋は帰国し、ルーズベルトとチャーチルはテヘランに行き、スターリンと会談し、ヨーロッパの戦い終了のあと、対日参戦をするとスターリンからの約束を得た。
 再びカイロに戻ったルーズベルトは十二月六日に中国に派遣されていたアメリカ陸軍の司令官スティルウェルと国務省派遣の外交官からバケツいっぱいの冷水を浴びせられた。中国に駐留する日本軍がつぎに攻勢にでれば、蒋介石の政権は倒壊し、延安の共産勢力が大きな力を持つようになるという予測を聞かされたのである。
 そのあとルーズベルトが考え、やったことについて、かれはなにも説明せず、一九四五年四月に急死し、かれがやろうとしていたことを理解していた人は沈黙を守ったことから、アメリカと日本の研究者は一九四三年末にルーズベルトがどのようなことを考え、そのあとなにをしたのかを考えようとしない。
 一九四三年の末、ルーズベルトはなにを考えたのか。蒋介石の国民政府の崩壊を阻止できても、日本降伏のあとの中国の内戦を阻止できなくなるのではないかとかれは思案した。日本との戦争が長引けば長引くほど、重慶の蒋介石の政府の力は弱まり、延安の共産党の勢力は力を強め、中国の内戦は避けられなくなる。そうなったらソ連は中国共産党を支援するようになるかもしれず、世界四大国の協調によって戦後の世界の平和を維持するといったかれの大きな構想はあとかたなく消えてしまう。
 ドイツを降伏させたあと、一日も早く日本を降伏させなければならない。そのためにはなにをしなければならないか。その年一月に公けにしたばかりの無条件降伏の宣言を日本側にはっきりわかるように撤回しなければならない。
 前に十年にわたって駐日大使だったジョゼフ・グルーが一九四三年の末にシカゴで日本の宮廷・宮廷派と、過激勢力の陸軍とを分断する演説をしたのは、その皮切りだった。不思議なことに、のちの研究者はだれひとり想像力を働かせようとしていないが、グルーのその演説の背後には当然ながらルーズベルトがいたのである。
 つづいてルーズベルトが十年にわたって日本に強硬な政策をとりつづけたホーンベックを追放し、つぎに日本に最後通牒を突きつけた男と日本人にもっとも嫌われていたハルを排除したのだが、決まってそのあとのポストに就けたのがグルーだった。
 ところが、一九四五年四月にルーズベルトは急死し、そのあとを継いだトルーマンはまったく秘密にされていた原爆の開発、製造をはじめて知り、それを自分の手でいかに世界公開するかということだけにただただ夢中になり、その世界公開、即ち、日本の都市への投下を終えるまで、日本を絶対に降伏させまいということだけに懸命となった。
 だが、原爆の世界公開が終われば、一日も早く日本を降伏させねばならず、加えて中国に残る日本軍隊による内戦の誘発を防止するためには、無条件降伏を押しつけてはならないことは、かれもまた承知していたのである。
 前置きが長くなった。書評をするのは長谷川毅の著書『暗闘』(中央公論新社 二〇〇六年)である。殆どが一九四五年のはじめからその年八月に日本が降伏するまでの叙述であり、「スターリン、トルーマンと日本降伏」という副題を知れば、読んでいない人でもそのテーマは察しがつくにちがいない。
 ところで、私がここで取り上げるのは、この『暗闘』の「結論 とられなかった道」である。この最終章のなかで、長谷川はつぎのように問うている。
 「原爆が投下されず、またソ連が参戦しなかったならば、日本はオリンピック作戦が開始される予定になっていた十一月一日までに降伏したであろうか?」
 長谷川はこの質問に自答する。
 「日本の為政者は日本が戦争に負けていたことを認識していた。しかし、敗北と降伏とは同一ではない。降伏は政治的行為であった。原爆とソ連参戦の二重のショックなしに日本の指導者は簡単に降伏を受け入れなかったであろう」
 まず、この問いについて言いたい。一九四四年、四五年前半のアメリカの東アジアにたいする大戦略を知るなら、もっとも、あらかたの研究者がそれに気づいていないのだから、この著者に詰問するのは公正さを欠くことになるかもしれない。それでも言うが、このような質問はなんの意味も持たない。
 なんらかの理由でアメリカが日本に原爆の投下を断念するか、できなかったのであれば、沖縄戦が終了した段階で、アメリカは日本に降伏を呼びかけたはずである。前に述べたとおり、その条件は天皇が受け入れることのできるものとなるはずであり、大元帥である天皇は降伏を決断し、陸軍大臣、参謀総長はそれに従ったことは間違いない。
 長谷川の二番目の問いを掲げよう。
 「日本は原爆の投下がなく、ソ連の参戦のみで、十一月一日までに降伏したであろうか?」
 長谷川はつぎのように答えている。
 「日本の為政者は、原爆の投下がなくても、ソ連の影響力をなるべく少なくするために、十一月一日前に降伏した可能性は十分あったのである」
 私の観方を繰り返すなら、東京の中心部を焼き払ったあと、あるいは沖縄の戦いを終了したときに、アメリカは日本に降伏を呼びかけ、日本は降伏したはずである。ソ連が慌ててと言うより、委細構わずと言うべきであろうが、満洲に侵攻を開始するのはそのあとのことになる。
 長谷川の第三問はつぎのとおりだ。
 「原爆の投下のみで、ソ連の参戦がなくても、日本は十一月一日までに降伏したであろうか?」
 長谷川は説いた。
 「ソ連の参戦がなければ、多くの原爆が複数の都市に投下されるか、あるいは、海上封鎖と激しい空爆の継続などによって、完全に日本の戦争能力が失われるまで、日本は戦争を継続したかもしれない」
 この質問に私の観方を重ねて語る必要はないが、もう一度、アメリカは中国のために日本との戦いに踏み切ったのだということを繰り返しておこう。そしてその勝利が確実となったときには、アメリカはいよいよ中国大国化政策を掲げ、蒋介石の中国を大国として扱おうとした。ところが、アメリカに非友好的な中国が出現してしまうかもしれないという大きな懸念が生じた。ルーズベルトは日本を早く降伏させなければいけないと考え、日本に対する無条件降伏の宣言を捨てることにした。
 原爆の世界公開を挟むことになりはしたものの、トルーマンの政策も変わりはなかった。中国に駐留する日本の百万人の陸軍部隊が中国内戦の引き金とならないようにすることが絶対の要件であり、そのためには、さらなる原爆の恫喝はなんの役にも立たず、無条件降伏の要求を捨てる道を選ぶしかなかったのである。
 このように書いてきて私は哀しくなる。戦後六十数年もたちながら、この単純な事実を記すのは私ひとりであり、『草思』がまだ紙の上で読まれていた時代にも同じことを書いたのをいま改めて思いだすからだ。

長谷川毅『暗闘―スターリン、トルーマンと日本降伏』中央公論新社(平成十八年二月発行、定価3360円)

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