『離島百話』である。書評と言ったばかりだが、私がしたいのはこの本の紹介である。

鳥居民の蔵書より。吉村正『離島百話』新思潮社
アンダマン、ニコバル、レンバンといった島で過ごした日々の話だ。年配者なら即座におわかりだろう。六十数年前の戦争のあいだに陸海軍の部隊が駐留していたインド洋にあるアンダマン、ニコバルであり、レンバンはシンガポールの南、百キロのところにある無人島、終戦後にかれらが抑留された島だ。
私は『昭和二十年』を書き続けているから、太平洋のウエーキやウオッゼ、メレヨンの「離島」の記録、回想録を本棚に並べている。必要があって、ときに取りだすことはあるが、読みつづけるのは辛い。
ところが、この『離島百話』は読者に辛い思いをさせない。いつかまた読みたいと私が思った理由はここにある。著者は読者が不快と思うことには触れまいと機敏な注意を払っている。だが、一下級士官としてのあの戦争にたいする考えは当然ながらある。注意深く読むなら、われわれが想像できるいくつかの暗示を著者はその洒脱な文章のなかに隠している。そしてこのさきで紹介するが、戦争が終わったあとのいくつかの出来事に健全な判定もくだしている。
著者を紹介しよう。吉村正。生まれは日本橋の箱崎町、小学校時代は新宿だった。慶応大学を出て、戦争中のことだから、前橋陸軍予備士官学校に学んだ。第七期生、昭和十七年十月の卒業だ。戦後は、著者略歴に千代田生命勤務三十三年とあり、この『離島百話』を出版した昭和五十二年には千代田ビルディング株式会社役員となっている。それから三十年がたつ。亡くなられたと思う。
二人の娘がいると本文で記している。お嬢さんは健在であろう。
吉村は近衛歩兵第三連隊に配属された。兵舎は赤坂一ッ木町、現在の赤坂五丁目にあったが、第三連隊は北部スマトラに駐屯していたから、かれもスマトラ勤務となった。このうちの一大隊が昭和十八年八月にアンダマン諸島の南アンダマン島に移駐した。吉村はその大隊の一員であり、第二小隊長、少尉だった。吉村はこの思い出を綴った文章のなかで、なにも語っていないが、大隊長がかれに与えたいくつかの任務からうかがえるのは、大隊長、そして中隊長が吉村の部下を掌握する力を高く買っていたことである。
南アンダマンに一年駐留のあと、昭和十九年十一月下旬にかれの大隊はニコバル諸島のカーニコバル島に移動となる。アンダマン島の南にあり、スマトラ本島の北の端に近い。
アンダマン諸島、ニコバル諸島の守備隊は、あらゆる「離島」の守備隊と同じ運命をたどった。
「離島」の守備隊の基本任務は「友軍」の飛行場を守ることだった。ところが、飛行場の「友軍機」はいつか姿を消す。輸送船はおろか、軍艦の姿を見ることもなくなる。吉村少尉の大隊がアンダマンからニコバルに移るときには、時速六ノットの鰹漁船の七隻の船隊に頼ったのである。
制空権と制海権を敵の手に握られた「離島」はどこも同じであり、自給自足を迫られた。近衛第三連隊の兵士たちは全国から徴集された優秀な青年たちであり、農村の出身者が多かった。東京生まれ、東京育ちの吉村小隊長は「ナスの三本立て」といった言葉を覚えることになった。枝を三本立てにして育てていく技術のことだ。
ナスを植えるなど、ほかの「離島」では想像できない贅沢の極みだったが、ニコバルに移ってからはもっぱら芋に頼るしかなかった。昭南、シンガポールから届いた芋の苗を植え、大きくなった芋を掘り出したときの嬉しさは、ほかの「離島」の守備隊員と変わりなかった。吉村は「第五十四話 いも泣き」のなかで書いている。「大のおとながオイオイ泣きながら、お互い泥だらけの手で抱きあって躍りあがったのです」
多くの「離島」で守備隊員を苦しめ、命を奪ったマラリヤは、アンダマンではとりわけひどかった。吉村小隊長もマラリヤに罹り、ときどき四十度近い発熱に苦しめられた。
その話はやめにして、目頭が熱くなる話を紹介しよう。著者はひとつひとつの話のうしろに箴言を入れている。「第四十五話」の箴言はつぎの通りだ。「音楽がなくても生きられるが、あった方がより人間に近い」
そして第四十五話はこんな話だ。アンダマンで吉村の中隊の第二小隊長になったのは中山良通、音楽学校出という毛色の変わった将校だった。声楽が専攻だったが、ピアノを弾くことも当然できた。口にだすことはなかったが、厳しい肉体労働がつづいて、指先が動かなくなることを気にしているようだった。
ある日、中山は原住民の家で手風琴オルガンを見つけた。インドから持ち込まれたものだったのであろう。かれは「全財産をなげうって」この手風琴オルガンを手に入れた。そして吉村はつぎのように書いている。
「暗闇のなかで、一人で音もたてずに彼は指を動かす練習をしていたに違いありません。それからの彼の顔は次第に明るくなって来ました。彼はそれを離さずにニコバルまで持ってゆきました。終戦後、彼の指揮で軽音楽班がつくられました。この手風琴のオルガンが主役です。マラカスはもちろん、ヤシの実のカラで作りました。ラ・クンパルシィーターが流れたとき、われわれは涙が流れるのをどうすることもできませんでした」
昭和二十年七月五日午前八時半、敵の空母機が侵入し、銃爆撃を開始した。つづいて敵の観測機が上空を旋回し、沖の敵艦船からの艦砲射撃がはじまり、四日間つづいた。七月九日の夕刻に東海岸に敵飛行機が煙幕をはり、敵艦数隻が沿岸に近づいた。吉村少尉に大隊命令がでた。明朝敵が上陸すれば部下一個小隊を率いてこれに斬り込みを命ずというものだった。
空からは遮蔽されている小道を抜け、東海岸にでて、ひとりひとりが蛸壺壕を掘った。午後八時ごろに作業が終わったあと、吉村は大隊でねだって貰ってきた煙草を皆に吸わせようとした。火の洩れるのを防ぐため、ひとりひとりをかれの壕に呼んだ。
かれの小隊はかれと初年兵を除けば、中国戦線で戦ってきたベテランだった。そのうちのひとり、鈴木邦太郎上等兵は中隊一の暴れん坊だった。かれは煙草を吸いながら、吉村に言った。「小隊長殿、敵は上陸しませんよ」
びっくりして問い返す吉村に向かって、おれの戦場のカンは外れたことはないと自信ありげだった。
翌朝、敵の英機動部隊は東海岸沖を掃海し、浮標を設置し、視界から消えた。
八月十五日のことは第八十三話にでてくる。吉村は「八月十五日」という題をつけていない。つけたくなかったのであろう。「そして無人島へ」という題にしている。
「終戦の知らせを受けたときのほんとうの気持ちは“ああ、これで日本民族は滅びずにすんだ”ということだけでした。“これで命を捨てずにすんだ”というような実感は全然ありませんでした」
さて、終わりに近く、第九十七話になって「いやな話」となる。第九十八話は「さらにいやな話」、第九十九話は「そして一番いやな話」となる。
「いやな話」はレンバンに抑留されていたときのことだ。大隊の糧秣倉庫を襲ったやつがいた。泥棒に備え、こちらも見張りがいる。棍棒で渡り合い、逃がしてしまったと報告があった。ところが、翌朝、窪地に死体があった。その男が所属する大隊に告げても、「当部隊」にはそんな名前の兵隊はいないの一点張りだった。兵士、下士官たちが士官の命令に従わず、下克上のでたらめな状態になった部隊がいくつもあったのである。
「さらにいやな話」は、レンバン島にビルマ戦線で捕虜になり、インドに抑留されていた一団が上陸してきたことだ。「この人達は、実は戦闘中に捕虜になった人達で、むしろほんとうはわれわれより勇敢に戦って負傷をし、動けなくなり、その結果戦場で連合軍に収容された人達だったのです。(……)
しかし当時のわれわれの感情は、やはりかれらとあい入れないものがありました」
第九十九話、「そして一番いやな話」はこういうことだ。「レンバン島に来てから、シンガポールで軍事裁判がはじまりました」
「われわれ離島の関係では次の人たちが戦犯として処刑されました」と記し、アンダマン、ニコバルの陸海軍の軍人四十四人が死刑になったと述べている。吉村は記した。「『勝てば官軍という日本の格言は、世界の格言である』これもレンバンの格言に入れました」
「実はニコバル島にも十三名の慰安婦がいましたが、腹のすいたわれわれには用がなかったと断言できます」
吉村小隊長は休日には将校巡察用の赤いタスキをかけて自転車で巡察にでかけた。「慰安婦のところへ行っても、兵隊の姿なんかありません。女に聞いても“兵隊さん来ない”という答えしかかえって来ません。
女のところへいくよりヤシリンゴでもさがした方がよっぽどよいのです」
終戦のあとのこと、「英国軍は、海軍さんを含めて約二万人に近い人数に対して十三名の慰安婦ということで驚いていましたが、休みでも食べ物さがしに多忙で女のところへ行く兵士はいませんでした。これが実状です」
「ヤシリンゴでもさがした方がよっぽどよい」と書いたヤシリンゴは第六十二話にでてくる。
「休みの日は、われわれも食べものさがしです。ヤシの実が地上に落ちて、新芽が十センチか二十センチぐらい伸びているやつを探して廻ります。見つかると、早速ダオで外側の殻を取り、丸い固いなかの殻を割ります。普通なら水が出てくるわけですが、こいつにはもう水はありません。殻を割ると、うす黄色のマリのようなものがいっぱいにつまっています。サクサクとしたものです。われわれはこれをヤシリンゴと呼んでいました。口あたりがよくて腹にたまります。まず日本では食べられないものの一つです。もっとも原住民も食べていませんでしたが」
「ダオ」は山刀だ。第十二話が「ダオ」の話だ。兵士たちは古レールから原住民のだれもが持つ山刀をつくりあげた。吉村はつづける。
「レンバンでも、話はすべて食べ物のことで、それ以外の話は進みません。もちろん夢に見るのも食べ物ばかりです。そして女の話は、レンバン島でわれわれの乗るリバテイ船が入港して、まちがいなく部隊があの船に乗れることが確実になったとき、はじめて出たのです」
吉村は帰国のときにマラリヤが再発して、名古屋港に上陸したときには、担架で病院に直行という羽目になった。吉村たちを引き取りに担架を持った何人もの看護婦が岸壁に集まっていた。若い日本人女性を見ようとする船中すべての帰還兵が上甲板と第二甲板の舷側に鈴なりになった。二十五年のち、三十年のちに吉村の大隊、中隊の戦友たちが集まったときに、決まってつぎのような話になったはずである。あのとき七千トンのリバティー船は岸壁側に大きく傾き、だれもが声を上げて、手すりにつかまり、前の人の肩に手をかけたのだ。
皆の笑いが収まったあと、吉村がつぎの話をしたにちがいない。あのとき一緒に入院した私と同じ第一小隊の鈴木君は体の具合が少し良くなって病棟の外を歩いて回った。かれが戻ってきて、横になっている私に真剣な表情でこう語った。「小隊長殿、内地はまだ大丈夫です。裏の庭に食える草がいっぱい生えているから」
鈴木が見つけたのはニコバルでずっと食べていたアカザだった。
『離島百話』を紹介した。
吉村正『離島百話』新思潮社(昭和五十二年七月発行)
次回更新予定日 10月18日
