それから三十四年のちのことになる。「ある日の午後、御殿の一室で、高松宮から話をうかがっていた」と加瀬英明は書いた。加瀬は評論家である。父の俊一は外務官僚であり、アメリカとの戦いの前から戦いのあいだ、歴代の外務大臣に重用され、のちに初代国連大使となった。父子ともに高松宮夫妻に信頼されていた。
高松宮の談話は「高松宮かく語りき」という題で、『文藝春秋』の昭和五十年二月号に掲載された。そのなかで、昭和十六年十一月三十日に高松宮が天皇に向かって、海軍はアメリカとの戦争を避けたいと願っているのだと奏上したことをはじめて明かしている。
「それで、その時、陛下のご様子はいかがでしたか?」
「陛下は、とても筋を大切にされるからね。筋違いのことは嫌われる。所管の大臣や軍の責任者が申し上げることだからね。あの時は、陛下はただ、聞いていられたな。他の者が申し上げても、おききにはならない」
「それでも殿下がいわれることは、おききになるのでしょうか?」
「いや、その場では何もおっしゃらない。だけれども、ぼくのいうことは、お考えになったね」
加瀬はそのあと天皇は軍令部総長と海軍大臣を召したことを記述した。この一部始終は私が前の号で記したことと変わりない。

鳥居民所蔵の資料より。『文藝春秋』昭和五十年二月号掲載「高松宮かく語りき」(加瀬英明)と、同誌昭和六十二年四月号掲載「高松宮の昭和史」(加瀬俊一)のコピー。
高松宮はその日の午前中の出来事を日誌に綴る意思がなかった。高松宮の日記は昭和十六年十一月十四日から三十日までの十七日間の記述がないことは前の号で記した。高松宮がその間の日記をつけなかったのはなぜだったのかはわからないが、十一月三十日の日記を記さなかった理由はだれにもはっきり想像できる。
翌十二月一日の日記はつぎの通りである。
「十一月三十日、お姉様と同車して御殿場へ、一八二〇着。車中より胸心地悪く、一寸ハイテ見たら久し振りで乱脈になり、ヂギタリス錠一ツもらってのむ。それで夕食もチョットで止めた。
夜中二度下痢して、朝ハ『トースト』で我慢す。
〇八三五発、皈京、皈邸してすぐ寝込む。ヘンテコにつかれて、午後ウツウツして休む。三十七度九分」
高松宮は十一月三十日の午後、御殿場で静養している兄君、秩父宮を見舞いにでかけた。東京に来ていた秩父宮妃とともに車で行ったのである。その日は日曜日だった。前々から予定に組まれていた訪問だったのであろうか。
それはありえなかった。午前中の高松宮の一擲、乾坤を賭す献言にたいして、もし天皇が耳を傾けていたら、どうなっていたか。高松宮は御殿場に行くどころではなかったはずである。御殿場に行くことになったのは、高松宮の天皇を説得しようとする試みが無残きわまりない結末となったからだった。高松宮は自分が、大事という言葉では済まない大事な任務を果たすことができなかったことを悔やみ、取り返しのつかない失敗をしてしまったと息苦しいような気持ちになったのである。お上を怒らせることなく、冷静な気持ちで聞いていただくための論理的な話もできなければ、機転もきかなかったのだ、踏みとどまって話をつづける勇気もなかったのだと振り返ることになれば、高松宮は烈しい憤りを自分に向けることになり、自己嫌悪に襲われ、どうしていいかわからず、御殿場の兄君にすべてを聞いていただこうという気持ちになったのであろう。そして高松宮の自責心と絶望感は心拍に乱れを起こし、御殿場に着いてから、強心剤のジキタリスをもらって、飲むことになり、神経性胃炎を起こしもしたのである。
その夜、高松宮は秩父宮にその日午前に起こったことのすべてを話したのではないか。海軍の本心は戦いの回避にありますと高松宮が説きだすところまでは、三十四年あとに加瀬英明へ語ったことと同じであったが、そのあとは違った。
高松宮の説明を聞いているうちに、天皇は堪えることができなくなった。怒鳴り声になり、なにをいい加減なことをお前は言うのか、軍令部の新参の課員がそんなとんでもないことを言うとはなにごとだ、お前の上には第一課長がいる、お前は課長の許しを得て、こんなことを奏上しにきたのか、第一課長は承知しているのか、どういうことか。どこのだれに頼まれたのだ。
天皇はこのように語ったとはだれも証言していない。だが、天皇の応答はこのような叱声になったのであり、高松宮もわれを忘れ、負けじと大声をだしたのではなかったか。お前の話なんか聞きたくない、出て行けと天皇が叫んだことは間違いない。高松宮は荒々しくドアを開け外へ出てしまい、天皇と高松宮の対話は五分足らずで終わってしまった。異様な大声に驚いて、なにごとが起きたのかと部屋からでてきた侍従を尻目に荒々しい足どりで高松宮は廊下を歩きながら、しまった、してはならない失敗をしてしまった、床に座ってでもお上に訴えなければいけなかったのだと臍を噛んだのである。
秩父宮は高松宮からこのような話を聞いて、大きく息をつき、お上がそのあとしたであろうことを高松宮と話し合ったのではないか。実際に起きた通りのことを二人は想像したにちがいない。お上は木戸幸一に相談されたにちがいない。急いで軍令部総長を呼ぶことになる。ご心配には及びませんと永野修身は奉答する。それでお終いだ。
どうにもならないと秩父宮が言ったにちがいない。そして話のはじめからずっと懸念していたことを高松宮に尋ねたはずである。戦争をしてはならないとだれが言ったのか。高松宮はこの問いになんと答えたのであろう。
「宮は海軍省兵備局長保科善四郎少将から、天皇にそう申し上げることを依頼されたのだった」
保科善四郎は昭和三十年から昭和四十二年まで衆議院議員を四期務めた。政界からは引退したが、昭和五十年はじめには健在だった。保科は『文藝春秋』の「高松宮かく語りき」を読んだ多くの友人、知人から、保科さんは終戦工作をしただけではなかったのですねと言われたはずである。保科はなんと答えたのであろう。
「高松宮かく語りき」が『文藝春秋』に掲載されてから半年あと、保科善四郎は『大東亜戦争秘史』という回想録を出版した。保科は対米戦争に反対だったことを述べてはいるものの、昭和十六年十一月末に私は高松宮に戦争回避を天皇に奏上して欲しいと言ったとは書いていないし、それを匂わせるような記述もない。
なぜだったのか。この謎はこのさきで明らかにしよう。
ところで、高松宮は秩父宮に向かっても、海軍省兵備局長保科善四郎少将に頼まれたのだと語ったのであろうか。秩父宮は疑ったにちがいない。三十四年あと、加瀬英明もそれは表向きの口上だと思ったのであろう。
なるほど保科は有能な海軍軍人であった。高松宮が昭和十二年に軍令部員となったときに、保科は軍務局の課長であり、大本営の会議に出席する大臣の常時随員だった。保科が優秀であり、義務の遂行が的確であることを高松宮はよく知っていた。そして昭和十六年十一月、保科に海軍の戦備についての知識、洞察力がだれよりもあったことは高松宮も認めていたにちがいない。だが、個人的にどのように優秀であっても、局長は局長にしかすぎなかった。
十一月十五日に御前兵棋は終わっていた。連合艦隊の全戦力はいまこそ最大の試練に挑もうとして、西太平洋の広大な水域に展開していた。ハワイ攻撃の機動部隊はすでにハワイ沖に向かっており、陸軍の比島攻略兵団の進攻準備は整い、マレー上陸作戦、シンガポール攻略の全準備は終わり、南方作戦の全計画は踏みだすだけとなっていた。重臣会議、御前会議、そしてその翌日には開戦の発令をするとすべての計画は分刻みで決まっていた。
高松宮は一局長から、この戦争はしてはなりませぬと二時間、三時間説得され、その説得が二日つづいたとしても、よし、明日一日の余裕しかない、明日の朝、お上に申し上げると保科に約束することになったであろうか。そんなことがありえたはずはない。
保科に頼まれて、お上に申し上げたのだと高松宮が説明して、秩父宮はそれを信じるはずはなかった。加瀬英明もそれを信じなかった。加瀬は高松宮に尋ね、保科少将だけですかと問うたはずだ。高松宮はなにも言わなかったのではなかったか。英明は自分が考えていることを口にしたのか、しなかったのか。
保科善四郎は海軍内のある人物の特使だった。そのある人物は保科を買っていたからこそ、その重大な秘密の任務をかれにやらせたのだし、当然ながら保科はその人物を尊敬していたはずである。その人物を見つけだすのは訳はない。保科のまことに無味乾燥な回想録、『大東亜戦争秘史』のなかにその人物は登場する。間違えようにも、間違えるはずはない、たったひとりしかいないのだ。保科はその人物の特使だったのである。
しばらく沈黙がつづいたあと、高松宮はつぎのように語ったのではないか。大使、あなたなら、私がこれから話すことをこのさき公にすることになっても、お上を謗ることなどするはずはなく、お上の名誉を傷つけることのないように十二分の配慮をすると思う。保科さんもそれを懸念したからこそ、沈黙を守りつづけたのだと思うが、あなたに話すのなら、保科さんも許してくれると思う。
高松宮はこのように言ったあと、保科少将の背後にいた人物の名前を明かしたのではないか。高松宮の痩せた頬に伝わる涙が枕に落ちれば、加瀬の目にも涙があふれたのであろう。
高松宮は昭和六十二年二月三日に亡くなった。そのあとまもなく、加瀬俊一は『文藝春秋』四月号に「高松宮の昭和史」という文章を載せた。亡き宮への敬愛の情のこもった追悼文である。その末尾はつぎのとおりである。
「二月十日の本葬に先立ち、八日から宮邸で通夜が始まった。私は英明と第一夜に参列し、白木の柩を礼拝した。柩には皇族がたが一行ずつ筆写した般若心経とともに、英明が『文藝春秋』に寄稿した『高松宮かく語りき』(一九七五年二月号)のコピィが収めてあった。珍しく、故殿下が戦争の回避と早期終結について、回想を語ったものである。この一文は特にお気に召していた。殿下としても、壮年時代の情熱を傾けた救国の行動だったのだ。とまれ、今日の日本の盛況は殿下の英知に負うところが少なくない」
ところで、五節まである「高松宮の昭和史」の第三節の見出しは「天皇に直諌」となっている。私が最初に「直諌」と記したのは、ここからの借用である。この第三節につぎのくだりがある。
「当時、高松宮は海軍中佐で軍令部に勤務しておられた。聡明な殿下は海軍の本心が戦争を欲しないことを察知し、また、戦争になれば勝算はないと判断していた。事実、連合艦隊司令長官・山本五十六大将は戦争に反対であり、同期の嶋田繁太郎海相に送った書翰(十一月二十四日)には、「残されたるは尊き聖断の一途あるのみ」と記してある。私も同感であって、十二月一日の御前会議が開戦を決定する前に形勢を逆転させたいと焦慮していた。
かくて、十二月四日、海相官邸で山本長官の壮行会が内密におこなわれた時には、開戦の廟議は既に決定していたのであって、壮行会に列席した高松宮の無念の心境が推察される」
二十年前、昭和六十二年の早春にこれを読んだ人びとは、加瀬俊一が書かなかったことを思い描くことはできなかったのではないか。だが、いまこれを読んだ人びとは、加瀬が承知しながら、記さなかった事実が眼前に浮かぶにちがいない。高松宮が保科から連合艦隊司令長官、山本五十六大将の極秘の書簡を受け取ったシーンであり、それを読み、保科の説明を聞き、高松宮はその書簡を火中に投じたあと、お上にただちに申し上げると長官にお伝え願いたいと約束をした光景である。
つづいて読者の頭に浮かぶのは、山本五十六についての数多くある伝記は、いずれも加筆が必要だということであろう。それだけでは済むまい。アメリカとの戦争を是が非でも回避しようとして天皇の最終決断を期待したのが海軍の事実上の最高責任者であったのなら、かれのそのあと一年半の戦いの指揮はどのようなものであったか、もう一度、子細に検討しなければならないだろう。
最後に内大臣、木戸幸一について触れておきたい。かれは天皇から高松宮の「直諌」の説明を聞いたとき、これは山本五十六だ、連合艦隊司令長官からのお上へのお願いだと脳裏に閃かなかったのであろうか。近衛文麿から山本の考えを一度ならず木戸は聞いていたはずだから、即座にそう気づいたにちがいなかった。どのようにして木戸は見過ごすことができないはずのその啓示を頭脳から葬り去ることができたのであろう。
高松宮宣仁親王『高松宮日記 全八巻』(中央公論新社、平成九年十二月最終巻発行)
次回更新予定日 9月20日
