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書冊の山より 鳥居民
第8回 高松宮宣仁親王『高松宮日記』(2)
 前の号で高松宮日記を取り上げ、その末尾につぎのようなことを記した。開戦を定めた昭和十六年十二月一日の御前会議の前日、十一月三十日に高松宮がアメリカとの戦争は回避すべきだと天皇に奏上した。ところで、高松宮日記にはそれについてどのような記述があるのか。
 これについてはあとで述べるとして、昭和十六年十一月三十日に起きた出来事を明らかにしているのは、内大臣、木戸幸一の日記である。
 つぎに掲げる。
 「三時半、御召により拝謁す。
 今日午前、高松宮殿下御上りになりたるが、其時の話に、どうも海軍は手一杯で、出来るなれば日米の戦争は避けたい様な気持だが、一体どうなのだろうね、との御尋ねあり」
 高松宮がアメリカとの戦争を回避すべきだと主張したことは、まさに青天の霹靂だった。天皇の顔色を変えさせ、木戸を大きく揺さぶった。
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鳥居民の蔵書より。『高松宮日記 第三巻』(中央公論新社)。ここに問題の昭和十六年十一月三十日の日記があるはずだが……。
 海軍は十日足らずさきにはじめる戦いに自信がないのか。半年、一年は頑張ってみせても、やがては互角には戦えなくなる、こちらの損害が増えつづければ、最後には多勢に無勢、負けてしまう。そのような戦いになると承知していながら、それを口にだせず、強がりを言いつづけてきて、ついに土壇場まできてしまい、お上に本当のことを申し上げてくれと直宮の高松宮に頼んだのではないのか。そもそも十一月に入ってから、横須賀に勤務していた高松宮を軍令部の作戦課員としたのは、このための用意だったのではないか。
 天皇、そして木戸の頭には、このような考えが明滅したはずである。
 そして天皇は昨日のこと、明日のことを考えて、茫然としたのである。昨日の十一月二十九日には重臣会議を開き、政府はアメリカと戦うとの決意を表明し、懸念する重臣たちを事実上、抑えつけた。そして明日の十二月一日の午後二時に開く予定の御前会議で天皇は開戦を定めることになっており、統帥部、首相の説明の要旨はすでに印刷されていた。その直後に天皇は統帥部総長に向かって、進攻作戦開始の命令をくだすことになっていた。その命令がでたならば、すでに十一月二十六日の朝に擇捉島の単冠ヒトカツプ湾を出撃し、ハワイに向かっていた機動部隊に引き返せと命令をだすことはもはやありえなかった。
 木戸はどうだったのか。すでにはっきり決まっている事実を覆し、回りつづけている歯車を止めるという決断はかれには到底できなかった。そんな勇気はなかった。しかも、かれはとっくにアメリカと戦う決意でいた。その四十数日前、木戸は十月十四日から十五日、十六日に態度決定をするにあたって、中国撤兵を約束して、アメリカとの戦争を回避しようとした首相、近衛文麿の反対の側、陸軍大臣、東条英機を支持したのである。
 木戸は迷わなかった。いまさら迷ってどうするかという気持ちだったのであろう。高松宮の訴えを葬り、天皇の不安を拭い去ることにした。訳もなかった。木戸は日記につぎのように綴った。
 「依って、今度の御決意は一度聖断被遊るれば後へは引けぬ重大なるものであります故、少しでも御不安あれば充分念を入れて御納得の行く様に被遊ねばいけないと存じます、就いては直に海軍大臣、軍令部総長を御召になり、海軍の真の腹を御たしかめ相成度、此の事は首相にも隔位なく御話置き願い度いと存じますと奉答す」
 木戸が承知していたのは、天皇の問いかけが頬を震わしての詰問になろうと、椅子に腰掛けるようにと勧め、穏やかな口調で尋ねても、海軍大臣と軍令部総長が天皇に向かって、高松宮が説いたような戦争回避を口にすることはないということだった。
 そのときの海軍大臣は嶋田繁太郎だった。敗戦のあとに、かれはつぎのように述べている。
 昭和十六年十一月三十日午後六時十分、大臣と総長は同列で御学問所で拝謁した。天皇が「いよいよ時機は切迫して矢は弓を離れんとしておるが、一旦矢が離れると長期の戦争となるのだが、予定通りやるかね」と問うた。
 軍令部総長の永野修身は「いずれ明日委細奏上すべきも、大命降下あらば予定通りに進撃いたします」と述べた。
 「大臣としてもすべてよいかね」と天皇は嶋田に尋ねた。「物も人も共に十分の準備を整えて、大命降下を御待ちしております」と答えた。
 天皇は海軍首脳の二人の決意と権威に安らぎを感じた。高松宮は神経質なのだ、悲観論者なのだと思ったのであろう。さて、木戸は日記にそのあとのことをつぎのように記した。
 「六時三十五分、御召により拝謁、海軍大臣、軍令部総長に先程の件を尋ねたるに、何れも相当の確信を以て奉答せる故、予定の通り進むる様首相に伝えよとの御下命あり。
 直に右の趣を首相に電話を以て伝達す」
 アメリカとの戦いがはじまってすぐのことになる。天皇は十一月三十日のことを東久邇宮に明かした。
 それを記したのは小林躋造せいぞうである。かれは海軍軍人であり、少壮時代からやがては海軍を背負う男と目されていた。昭和十一年にかれは思いがけなくも予備役となった。その年二月の叛乱事件のあと、陸軍将官たちが責任を負い、現役を退いた。海軍側はそれとバランスをとることにして、何人かの海軍大将が現役を去ることになった。巻き添えを食ったのが小林だった。こんな馬鹿な話があるかと非難の声が大きかった。海軍の強硬派が潰すことに懸命となっていたロンドン軍縮条約の締結を支援した海軍穏健派の代表が軍事参議官の小林だった。海軍の武断派はこのときとばかり、目障りな小林を葬ったのである。
 そのあとかれは台湾総督となり、昭和十五年十一月に帰国した。昭和十八年三月にかれはメモ、草稿を整理して、アメリカとの開戦のときまでの一年間に、自分がアメリカとの戦争を阻止しようとしてやったことをまとめた。
 そのなかに高松宮についての一節がある。つぎのような内容である。
 開戦の直後に小林は原田熊男と会った。原田は元老、西園寺公望の私設秘書だったが、西園寺が没してすでに一年がたっていた。原田は近衛、木戸とは学習院、京大時代からの友人であった。
 原田は小林に向かって、それより少し前に東久邇宮から聞いた話を語った。東久邇宮はその数日前に天皇に拝謁した。そのとき天皇が語られたという話だった。天皇が「艦隊発動の裁可をした直後、高松宮が蒼惶として参内され『今艦隊進発の御裁可ある事は非常に危険です。実は軍令部の計算に大きな錯誤のある事を発見しました』と言上した」というのだった。天皇は海相、軍令部総長を呼んで「何か誤算はないか」と問うたところ、両人共よく調べましてと言って下がって、暫くして「海軍としては何等の誤算もありませぬ」と答えたのでホッと安心したのだが、高松宮が誤算ありと言ったときには、「すでに艦隊は進発後でありこれは困ったと思った」と仰せられたというのだ。
 天皇が東久邇宮に語り、東久邇宮が原田にそれを教え、原田が小林にそれを喋ったのだが、途中どこかで間違えたのであろう。天皇はつぎのように語ったのであろう。「十二月一日には統帥部総長に進攻作戦開始の命令をくだす予定となっていた。ところが、その前日の午前に、高松宮が憔悴した顔でやって来て、この戦争をしてはならないと突然言いだした。これにはひどく困った」
 さて、東久邇宮は原田にこのように語ったあと、「高松宮の誤算云々のお話はどういうことであったか知らぬが、大事な問題でなければよいがと心配している」と補足した。
 毎日毎日、勝利のニュースがつづき、だれもが浮かれていたときであったが、原田もそれを聞いたときには胸騒ぎがし、小林もまた原田の話を耳にして、不安が残ったのである。
 そして小林が昭和十七年一月に原田から聞いた話を、昭和十八年三月にまとめようとしたときには、「高松宮の誤算云々」ということがなんであったのかは、わかりすぎるほどにわかっていた。そのとき戦いが不吉な局面となっていることを小林は承知していた。連合艦隊司令長官、山本五十六が戦死するのはその一月あとのことになるが、すでにガダルカナル、つづくソロモン群島の戦いで二千機に近い航空機、そんなことよりも、かけがえのない優秀、老練な搭乗員を失っていた。飛行機の生産を増やし、航空要員を養成して、つぎの決戦に間に合うことができるのか。圧倒的な敵が決戦のテンポを情け容赦なく早めることになったら、どうなるのか。これこそ高松宮が天皇に言上した海軍の「誤算」だった。
 小林は高松宮について記述した文章の最後につぎのように記した。
 「それにしても高松宮が開戦を阻止されようとしたお気持は殿下を以て中堅層強がりの一人のように聞いて居た予にとって一種の『救い』のような気がする」
 小林は戦争の帰趨と國の運命、そして皇室の行く末を考えたからこそ、「一種の救い」と記したのであろう。アメリカとの戦いとなる直前にそれに反対した直宮の存在があった事実にかれは大きく息をついたのである。そしてその皇弟は領土拡張などといったことは明治天皇のお心ではないと考えていたのを小林は承知していたのかもしれない。
 さて、高松宮日記の昭和十六年十一月三十日、そしてその前の日誌にはどのような記述があるのか。『日記』第三巻の後記に阿川弘之はつぎのように綴っている。「叙上の如く、昭和十六年十一月十四日から三十日までの十七日間、御日記の記述が無い。開戦の最終決定が下される重大時期に該当しており、陛下が近衛、米内、岡田、若槻ら重臣八人の意見を聴取されるのは二十九日、高松宮が参内し、海軍は戦争遂行に不安あり出来れば日米戦争を避けたい意向と言上されるのが三十日である。編集会議の席上、何故この部分が欠落しているのか、誰かの手で機微にわたる記述が抹殺されたのではないかとの疑問が出た。よって、第十冊分第十一冊分の日記原本にあたり、再確認作業を行ったが、抹殺の跡も後年原本から切り取った痕跡も、全く見あたらなかった。要するに、事由は不明なるも、この年十一月の御日記は十三日で打ち切られ、以後二週間余、書かれていないのである。記述の無い日、記述の無い月は、各巻随所に見られるが、ここは微妙な時期なので、特にそのことを明記しておく」
 高松宮日記についてはさらに次号で論述する。

高松宮宣仁親王『高松宮日記 全八巻』(中央公論新社、平成九年十二月最終巻発行)

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