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書冊の山より 鳥居民
第7回 高松宮宣仁親王『高松宮日記』(1)
 『高松宮日記』について記したい。
 高松宮が昭和六十二(一九八七)年二月三日に亡くなられてから六年あとの一九九三年のことだった。邸内の倉庫から宮の日記が発見され、宮と海軍大学校で同クラスだった二人の元海軍軍人、大井篤と豊田隅雄がそれを読んだ。江田島の海軍兵学校に在校していた大正十(一九二一)年一月一日にはじまって、日本敗戦二年目の昭和二十二(一九四七)年十一月までに及ぶ二十七年間の記録だった。「国宝的な歴史資料」だ、是非とも公刊したいと考え、作家の阿川弘之に協力を求めた。校訂整理の作業がおこなわれ、出版の準備がすすめられていたとき、宮内庁から横槍が入り、出版を控えてほしいと言ってきた。
 結局、喜久子妃の決断で出版されることになった。全八巻にものぼるその日記は、一九九六年から九七年のあいだに中央公論社から刊行された。
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鳥居民の蔵書より。『高松宮日記 第八巻』(中央公論新社)。第八巻には昭和二十年一月一日?同二十二年十一月五日の日記が掲載されている。
 ところで、阿川弘之はその日記を刊行したいきさつ、自分がその作業に加わった次第を一九九六年に刊行した『高松宮と海軍』〔中央公論新社〕のなかで説明しているが、宮内庁の出版妨害の出来事についても触れている。
 阿川は宮内庁側の出版反対の理由は三つあったようだと述べ、皇室のプライバシー、天皇との「言い争い」、陸軍批判の問題であったのではないかと記した。
 宮内庁が懸念したのはなによりも第二項であったことは間違いない。それを隠そうとして、ほかの二つを並べたのであり、もちろん、阿川も宮内庁側が問題にしているのは第二項だと承知していたのである。そして阿川は書き記してはいないが、かれと二人の元海軍軍人がただちに理解したのは、高松宮日記を公刊するのであれば、そういった箇所の取り扱いに細心の考慮をお願いしたい、要するに削ってほしいという婉曲な要請なのだということだった。
 さて、だれもが不思議に思うことがあろう。
 宮内庁長官と侍従長、そしてかれらの部下たちは、高松宮が書き残した日記のなかに、先帝とのあいだの「言い争い」が書かれているとどうして確信していたのかということだ。
 昭和天皇が高松宮にたいして悪感情を持っていたこと、そして間違いなく「言い争い」があったであろうことは、月刊誌「文藝春秋」の平成二(一九九〇)年十二月号に発表された「昭和天皇独白録」を読んで、だれもが知った。〔その後『昭和天皇独白録』は文藝春秋社より刊行〕
 そしてそれを読んだ人びとが思いだしたのは、細川護貞の日記である。昭和二十八(一九五三)年にその日記は公刊され、昭和五十三(一九七八)年に再び刊行されたその日記のなかに、昭和天皇が戦争末期に高松宮と「言い争い」をしたという記述が僅かながらある〔『細川日記』中央公論新社〕
 もちろん、宮内庁長官、侍従長、かれらの部下たちは、細川護貞の日記、昭和天皇の独白録の知識だけをもとに、高松宮の日記に天皇との「言い争い」の記述が必ずやあると信じたわけではなかった。
 宮内庁に勤務する人びとは宮廷における勤務が長く、侍従長、侍従であれば全経歴を昭和天皇のもとで過ごし、天皇と直接接触する期間は半世紀にも及んだ。
 たとえばいまから十一年前、平成八(一九九六)年二月に亡くなった徳川義寛を例にとろう。かれが侍従となったのは昭和十一年、三十歳のときだった。二・二六事件のあとだった。昭和二十年八月十五日未明に侍従のかれが「玉音放送録音盤を死守」した話は多くの人が承知していよう。昭和六十(一九八五)年九月に、これまた宮廷勤務の長かった侍従長の入江相政が急死し、侍従次長だった徳川が後を継いだ。徳川が侍従長の職を勇退したのは、昭和六十三(一九八八)年、八十一歳のときだった。
 こうしたわけで、宮廷に仕えた人びとは戦前、戦中をつうじて昭和天皇と苦楽をともにし、敗戦のあとには天皇を守ることに一喜一憂をつづけ、そのあいだには、天皇が語ったこと、かれらの先任者から話を聞くこともあったから、天皇と高松宮とのあいだにあったいざこざを承知していたのである。
 私は前に宮内庁長官だった富田朝彦の備忘録を検討したとき、昭和天皇が嫌った人たちのなかには、直宮と呼ばれる天皇と血の繋がりを持つ皇弟たちがいたと記した。秩父宮、高松宮である。三笠宮も加えるべきであろうとも述べた。天皇はこの三人の弟たちのなかで、だれよりも高松宮を嫌ったのである。
 なぜ昭和天皇は高松宮を嫌ったのであろう。それを解明する前に、高松宮が昭和天皇にたいしてどのような態度をとっていたかを記したい。
 高松宮が天皇のためにこそといつも考え、そのために努力し、それが逆に天皇とのあいだの確執になりはしたのだが、宮が天皇家の法統の継承者である長兄のために最善をつくそうと努めたこと、母である皇太后、次兄である秩父宮にたいする変わらぬ心遣いは、この公刊された高松宮日記からはっきりうかがうことができる。
 そこで、第八巻に載っている昭和二十年の日記の一節をつぎに引用しようと思うが、それを写す前に少々の説明をしよう。昭和二十年五月半ば、高松宮は陸軍の長野県松代における地下要塞建設の工事が大本営を移す準備であることを知り、天皇が松代に移り、皇太后もその近くに移る予定であることを知った。高松宮はとんでもないことだと思った。松代への動座は陛下が陸軍の虜となるのも同じこと、本土の戦いとなる前に、戦争を終わらせることができなくなってしまうと懸念した。
 五月十七日の夕刻、高松宮は宮内大臣、宮内次官、宗秩寮総裁、皇太后大夫を招いた。天皇、皇太后が疎開されるのであれば、これは陸軍が決めることではない、宮内省の主導によって決めることだと主張した。ところが、宮がどのように説こうとも、だれひとり賛成しなかった。じつは宮内大臣や宮内次官は松代動座のことを内々に承知していて、いまになって反対できないという事情があった。そして大本営の移転となれば、陸軍任せとなるのはいたしかたないとだれもが思っていた。
 その翌日、五月十八日の日記に高松宮はつぎのように記した。
 「昨夕の話で興奮したのか疲れたのか、今日は胸がはればれせぬ。朝おきて御殿場に御無沙汰している申し訳を自問自答してみたら泣けてしまった。(お兄様が御病中にこんな事態になってしまって、御殿場へ出ようとその暇はつくれぬことはないけれど、何とお話をしてよいか、何にか少しでもよい種があったらと思ってとうとう来れなかった。私は政治にはもともとふれる趣味もなく、お上がそれをお喜びにならぬのをよいことにしていたら、お兄様の御病中に大戦争になり、さて政治にも口を出すべきなのに何んの準備もなくとうとう何にも出来なく、お上に申し上げることもまづいのか御聴きになる様な申し上げ方も出来ず、外国とのことも私には何も出来ず……)」
 もちろん、昭和天皇は高松宮のこの日記を読む機会はなかった。もし天皇がこの五月十八日の記述を読むことがあったら、どのような感想を抱き、侍従長、あるいは長官になんと告げたことであろう。
 ところで、なぜ昭和天皇は高松宮を嫌ったのであろうかという最初に掲げた問いに戻る。
 昭和天皇はあらゆる意味で孤独だった。天皇は自分を励まし、導いてくれる父を持たなかった。天皇は陸軍士官学校で学んだこともなければ、海軍兵学校で学んだこともなく、兵営生活も、軍艦に乗り組んだこともなく、自分の周りに上司と部下を持つ体験がなかった。そして、まことにいびつな帝王教育を受けたがために、だれとも意見を交わした経験がなく、自分の考えを正確に力強く述べることを学ぶ機会がなかった。だれからも手ほどきされたことがなかったから、国事に立ち向かう方法を学ぶこともなかった。
 天皇家にとって、日本の全国民にとって、天皇の態度決定がまことに重大であった昭和十五年から昭和二十年の末まで、この孤独な天皇が信頼し、頼りにしたただひとりの人物は内大臣の木戸幸一だった。木戸は天皇が心にとどめておかねばならないことを説明し、天皇がどのような決断をしたらよいかを助言し、政治家、官吏、高級軍人にたいする自分の評価を言上した。
 こうして天皇は木戸と同じ全体的な展望を持つことになり、もっとも決定的な瞬間に木戸の助言に従うことになった。そして木戸の好憎を自分のものにした。
 では、木戸はもっとも重大な態度決定を迫られたときにどのように行動したのか。そしてかれは激しい嫌悪と悪意をだれに向けたのか。
 昭和十六年十月、アメリカとの戦争を回避しようと懸命に努力したのは首相の近衛文麿だった。その一カ月あと、それこそ対米開戦を定める御前会議を開く前日に、それにたいする異議を天皇に奏上したのは軍令部作戦課員の高松宮だった。だが、そのいずれをも潰すように仕向けたのは木戸だった。そこで木戸が目指したとおりに戦いとなった。そして戦いの展開がはっきり不吉なものとなったとき、木戸が近衛と高松宮にたいしてどのような感情を持つようになったのかは、だれにも容易に想像ができよう。
 ところで、開戦を定める十二月一日の御前会議の前日に高松宮は戦争にたいする異議を天皇に奏上したのだと記したのだが、いったい、公刊された高松宮日記にはそれについてどのような記述があるのか。
 それについては次回で述べたい。

高松宮宣仁親王『高松宮日記 全八巻』(中央公論新社、平成九年十二月最終巻発行)

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