私はここでそれを検討するつもりはない。
私が取り上げたいのは、この富田メモからもうかがうことのできる、昭和天皇が弟君の高松宮に持っていた強い嫌悪の感情、そして近衛文麿に長く抱きつづけた憎しみに近い感情についてである。
「グルーの近エを見抜きえなかった 日独、三国同盟の経緯を見抜けなかったか 近エ聞き放し 閣議決定した 9・6(土)延キにつき 逆(立場)武官府 後藤を除きスパイの如き行為 海は違った」
まことにぞんざいな走り書きである。なぜなのであろう。富田は近衛を批判した天皇の言葉をそれより前、何回か耳にしたことがあったが、備忘録にそれをいちいち記さなかった。かれは天皇のその近衛批判を記したとき、のちにそれがだれかの目に触れることがあっても、なんのことかわからないようにわざと乱暴に書き記したのだと私は理解している。
私は二度三度読み返し、だれもがわかるように書き直してみた。私の訳はつぎのとおりだ。読者の理解を助けるために、いささかの加筆をした。
「駐日大使のグルーは日米間の和平再建のために頑張ったが、かれは首相の近衛の気質のいい加減さを見抜くことができなかった。
見抜けないといえば、見抜くことができなかった最大の問題は、ドイツから来た特使のスターマーが日本の要所要所にカネをばらまき、日本側をしてドイツとの同盟締結に踏み切らせようとしていたにもかかわらず、近衛はそれを見抜けなかった。そして近衛は私の注意を聞き捨てにして、同盟締結を閣議で決めてしまった。あれは九月六日の土曜日、いや、九月六日は昭和十六年の御前会議があった日だから、一年前の昭和十五年の九月十六日だ。あの日に緊急閣議を開いてしまった。あの会議を開くことがなかったら、もちろん、九月十九日の御前会議があるはずもなく、あのような亡国同盟を結ばないで済むことになったのだ。無念なことだった。
あのとき陸軍もまことによくなかった。昭和十四年から十五年、宮廷に勤務していた陸軍の侍従武官たちは、ひとりを除いて、けしからんことばかりしていた。ドイツと同盟を結ぶのだと叫び立て、右翼団体を煽動し、かれらが日本各地で開く反英運動にカネを出していた陸軍省軍務局や調査部の連中に協力し、三国同盟締結に反対する親英米派に脅しをかけようとして、親英米勢力の中心人物と見られていた宮内大臣の松平恒雄とその周辺の人びとの言動を探っていたのだ。海軍の侍従武官はそんな不埒なことをしなかった」
私のこの訳を読んだ人のなかには、ひどい訳だ、曲解もはなはだしいと嘆じる人がいるかと思う。正しい訳を教えて頂ければ有り難い。
思いだしてみよう。アメリカとの戦争が終わったときに天皇は四十三歳だった。戦いに敗れた日本は大きな惨苦のなかにあった。戦争の犠牲者は若人を中心に三百万人にものぼった。
だが、かれらの父母、兄弟、妻、子供たちは昭和天皇を怨むことは決してなかった。敗戦の国土のなかで国民は当然なこととして天皇を護った。だれもが懸命に働き、瓦礫と灰になった七十余の都市のすべてを復興させた。そして日本は世界第二位の経済大国となった。国民が天皇を護ったのは正しかった。天皇はそれに応え、国民とともに生きてきたのである。
だが、天皇は戦後四十四年を生きつづけて、胸のなかにはつねに痛みがあったのであろう。天皇はそのトラウマを抑えつづけた。自分は間違ったことをしてはいなかったのだと思おうと努めたのだし、言い訳を繰り返した。
都合よく説明し、ごまかし、知らぬ顔で押し通すことはだれもがした。私は前に清沢洌の日記を取り上げたとき、徳富蘇峰を批判した。昭和十六年に、いや、その前からアメリカ、英国と戦うべしとだれよりも大きな声で叫び、新聞の定期コラム、祝日の朝のラジオ演説、そして数十万部と売れる「時局本」を通じて全国民に訴えたのが蘇峰だった。かれは戦争中も国民を叱咤激励した。ところが、敗戦のあと、かれは自分の過ちに無自覚なまま、自分以外の人びとを非難攻撃し、自分はかれらに騙されたのだと説いたのだった。
都留重人についても批判をした。前に木戸幸一の日記を取り上げたときだ。木戸の義理の甥になる都留は自分がしてきたことを何回も綴りながら、近衛文麿を自殺に追い込んだことには、なにも触れようとしなかった。それより前の昭和二十年六月、七月、全国中小都市の焼き打ちがつづくさなか、戦争をやめさせることができる日本でただひとりの人物、内大臣と同じ邸内に住みながら、そして外務省に勤務してアメリカを研究し、四月、五月には伝書使としてモスクワを往復し、世界の情勢がわかっていながら、しかもシベリア鉄道を東進するおびただしい数の軍用列車を車窓から直接に見ていながら、都留は戦いを終わらせるために、信頼されていた伯父になにひとつ言わなかった。かれの奸悪と呼んでさしつかえない怠慢について、のちにかれは疑問をさしはさまれないのを幸い、知らぬ顔で通した。
昭和天皇のことに戻る。天皇の胸中に自分の過ちが思い浮ぶことになれば、その思考回路は近衛文麿の過ちへと開くことになり、かれにたいする怒りとなるのだった。
天皇はいわゆる皇道派と呼ばれた派閥に属した高級軍人を嫌った。昭和十一年二月の二個連隊の叛乱を引き起こした年若い尉官クラスの指導者を支持、支援した陸軍高級幹部である。真崎甚三郎、小畑敏四郎をはじめとするこれら将官の大部分は、その叛乱事件のあと現役を追われた。天皇はかれらのことを二度と口にしなくてもいいはずだった。
そうはいかなかった。アメリカとの戦いがはじまり、負け戦がつづき、敗北、降伏も遠いさきではないと懸念する人たちが皇道派の将軍の名前を取り沙汰するようになったからである。戦争終結のためには、まず第一に陸軍の指導部の一新が必要であると考えてのことだった。昭和十二年からの中国との戦い、昭和十六年からのアメリカとの戦いにも無縁である皇道派の将軍を復活させなければならないと主張したのである。
天皇は自分が信頼する将領たち、杉山元、梅津美治郎、東条英機といった陸軍首脳を更迭するという考えに容易にうなずくことができなかった。そしてかれらの後任に自分が忌み嫌う将軍たちをもってくることなど許せるはずもなかった。
天皇の皇道派の将軍たちにたいする憎しみを忘れることなく、そのような計画を主張した近衛文麿、そして高松宮を許すことができなかったのである。
昭和天皇が嫌った二番目の人びとは、ドイツ、イタリアとの同盟を推進した軍人と外交官だった。天皇は米英両国と敵対する国々と軍事同盟を結ぶことは間違っていると思っていた。そんな条約を結んでしまえば、あげくの果ては、アメリカとの戦争になり、日本は戦いに負けることになるのではないかと口にしていた。
同盟を結んでしまって、天皇が恐れた予測どおりになってしまった。負け戦になって、そして敗戦のあと、天皇はずっと同盟を推進した松岡洋右、白鳥敏夫といった人びとに歯ぎしりする怒りを持ち、富田朝彦に語ったとおり、これまた同盟を望んだ、そのときに首相だった近衛を許すことができなかったのである。
天皇が嫌った三つ目の人たちは、直宮と呼ばれる天皇と血の繋がりを持つ皇弟たちだった。秩父宮、高松宮である。三笠宮も加えるべきであろう。
天皇にしてみれば、皇弟たちのこのような言動に心穏やかでいられるはずはなかった。しかも三人の皇弟の中心となっていた高松宮は近衛文麿と協力していたのだから、天皇がこの二人を警戒し、嫌ったのは当然だった。
それから四十数年のちの天皇の高松宮評は、富田メモに記述がある。
一九八八年五月九日、三十分ほどの雑談のなかで天皇は富田につぎのように語った。「いつか話したが、高松さんわね、弟だが私にはよくないと思う側面と又逆にいいと思う面もある。(前者)は何か人事など昔から好きで、取り巻く政治家めいた者達と軽く話したり、政治的発言をしたことを知っている。それが自分ではよい楽しいと思っていたらしい。
いい処は、自分にはない軽妙に外国人と付き合い戦後一時期はこの国にも役に立った面があり評価している。しかし振幅が大きく浜口内閣の
前に挙げた近衛についての評よりも、この高松宮評はわかりやすい。そこで「富田メモ委員会」のひとりは天皇のこの評を指して、「いいところ悪いところを言って、公平に見ようとしている」と述べている。富田朝彦はそう読まれることを願って、そのように綴ったのかもしれない。
私もできることなら天皇の批評は公平だと言いたい。だが、とてもそのようには言えない。私はこのくだりを読んだときに、ただ悲しかった。八十七歳になる高齢の天皇がすでに他界した弟君にたいして、四十数年昔と変わりのない観方をしているのを悲しく思ったのである。
高松宮が天皇のためになにを考え、なにをしたのかは、さきに僅かながら触れた。公刊されている高松宮の日記、第八巻を読めばそのすべてははっきりわかる。昭和天皇の発言が公平なものと言いえないこともわかる。次回に高松宮日記を取り上げたい。
元宮内庁長官・富田朝彦「富田メモ抜粋」日本経済新聞平成十九年五月一日・同二日掲載
次回更新予定日 6月21日
