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書冊の山より 鳥居民
第5回 木戸幸一『木戸幸一日記』
 また一昔前の本の書評となる。木戸幸一の日記を取り上げたい。四十年前、昭和四十一年に東京大学出版会から刊行された上下二冊本である。上巻は昭和五年から昭和十二年まで、下巻は昭和十三年から昭和二十年までの日記を収録している。
 その日記を記した木戸は昭和十五年七月から昭和二十年十一月まで内大臣だった。内大臣の職掌について、現在までしっかりした研究はない。それでも、昭和の戦争、とりわけアメリカとの戦争のあいだの出来事、そのはじまりから終結までを研究しようとする人には内大臣の日記は欠かすことのできない資料である。
 しかし、いま述べたとおり、内大臣が持つ最高度の調整機能について、だれも考究したことがないから、多くの研究者は木戸日記をじっくり読むことをしてこなかった。
 理由はもうひとつある。木戸はその日記のなかで、自分が関係した出来事、自分がイニシァティブをとった仕事について詳しく叙述することを避け、話し手が語った要点を記述することはこれまた稀であり、かれの考えを記すことも少なかった。こうして研究者にとって、木戸日記は役に立たないと思われている。
 だが、その日、その日、会った人間を入念に記し、ときに僅かな説明を加えているから、丁寧に読めば、そのときに起きた秘密の計画、たくらまれた陰謀の全輪郭が浮かんでくることもある。
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鳥居民の蔵書より。『木戸幸一日記 上・下』東京大学出版会
 ところで、木戸は毎晩、机に向かって日記帳をひろげていたのではない。そのとき、そのときに、会った人、時間、その問答の要点を記した手帳がべつにあった。それを週に一回か、二回、日記帳に書き写していたのである。だが、肝心な部分を写すことはしなかった。
 その例をひとつ挙げよう。木戸の日記には、たとえば松井成勲といった人物の名が昭和十年三月から昭和二十年十月まで定期的に登場する。
 「松井成勲来訪」と書かれているだけだ。だが、かれの昭和十年の手帳の一冊には、部下に調べさせたつぎのような記述があったはずだ。松井成勲こと、松井亀太は恐喝、横領、詐欺といった前科を持っている。政友会の院外団の一員となり、長州出身の松井は同じ長州出身、大実業家出の政治家、久原房之助の走り使いをするようになった。大正十五年十月、政友会総裁になったばかりの田中義一の政治資金の出所を調べていた東京検事局次席検事が謎の死を遂げた。その謀殺の指揮者は久原の下働きの松井と疑われ、かれはしばらく満洲に逃れた。そのような噂はやがてかれの力の源泉となった。田中の急死、そのあと久原の使嗾しそう、そしてかれの資金を利用してのことであろうが、松井は陸軍内の過激派に食い込むことになる。
 必ずや、木戸は手帳にはこのように記したはずだが、日記にそれを写すことはしなかった。松井が語った陸軍省軍務局長の動き、関東軍の何某がなんと言ったかといった叙述はまったくない。「松井成勲来訪」「松井成勲来邸」だけなのである。ところが、木戸はその松井の項に余計な僅かな文字を書いたことが一度ある。
 木戸が松井にはじめて会ったのは、内大臣秘書官長時代の昭和十年三月だった。松井が定期的に訪ねてくるようになってから八回目、同じ年の十月、あとにもさきにもただ一回、「松井来訪」のあとに、うっかりか、それともどうしても一言、書きたかったのか、「時局の切迫」と記したのである。
 はるかのち、それこそこの木戸日記が出版、公開されたあとのことになるが、木戸はある集まりで自分の半生を語って、昭和十一年二月二十六日に二個連隊、千四百人の叛乱が起きるより前、「一千名くらいの人間が動く一大異変が近く起きる」という情報を得ていたのだと自慢した。情報源を明かさなかったが、かれは松井からそれを聞いていたのである。
 こうして木戸は松井を信用するようになった。木戸にとって、松井は陸軍内部の秘密を知るための重大な情報源となった。つづいて陸軍幹部は宮廷に強固なパイプを持った松井を利用し、公のルートで言えないことをかれに告げ、かれを利用して、宮廷の理解を求め、その反応を探る慣行ができた。
 木戸日記から拾っていけば、昭和十四年、昭和十五年には年に三十回以上、木戸は松井に会っている。三国同盟締結を望む陸軍の動き、ノモンハンの戦いと関東軍、参謀本部の動向、陸軍の南方にたいする考えを知ろうとしたのであろう。だが、読者に見当がつくのはそこまでだ。
 木戸が陸軍大臣の東条英機と蜜月の仲であったときには、松井は用済みだった。松井に四季の手当て金を与えるために呼ぶくらいだった。ところが、木戸が東条と手を切れば、たちまち、松井とのパイプを復活させた。
 木戸日記と無縁なことを記しておこう。松井の戦後は、木戸と親しかった岸信介を雇用主に代え、かれの引退のあとには弟の佐藤栄作をクライアントにし、百歳の長寿を全うした。木戸の死はその二年のちである。
 べつの話になる。木戸はその日記帳に会った人間の名前だけは間違いなく記入しているのだと私は思ってきたのだが、じつはそうではないと気づいた。
 昭和二十年八月に戦争が終わったあと、木戸が都留重人に会ったのは、日記を見るかぎり、僅か二回にしかすぎない。木戸が戦犯容疑者と指定されたあとの十二月十日、そして木戸が巣鴨に出頭する前日の十二月十五日である。
 私はこれを見て、木戸が隠そうとしていたことのすべてがわかったように思った。
 もっとも、木戸が都留の名前を日記に載せなかったもっともらしい理由はあった。
 木戸の一家は昭和二十年四月十四日、五月二十五日と二度の罹災をして、かれの弟、和田小六の家に同居した。広い邸だから、都留夫婦も同居していた。都留は和田小六の長女と結婚していた。そこで木戸は都留と顔を合わせることもあったし、話し合ったことも当然ながらあった。だが、それをいちいち記す必要はないと木戸は考えたのだ。内大臣が廃官となったあと、木戸の一家はよそへ移った。そのあと都留と会った二回ははっきり日記に記すようにした。
 都留のことはそれで弁解できよう。ところで、木戸はハーバート・ノーマンと会ったことを日記に記さなかった。そう言ったら、木戸は顔色を変え、会いもしない人のことをどうして記さねばならないのかと声を荒らげるかもしれない。
 だが、昭和二十年九月から十月、木戸は都留が連れてきたハーバート・ノーマンと間違いなく会ったのだと私は確信している。そう考えるのは私だけではない。ノーマンの著作のすべてを翻訳し、ノーマンと親しくしていた大窪愿二が、ノーマンは木戸と会ったにちがいないと記している。
 私は『近衛文麿「黙」して死す』のなかで書いたことだが、マッカーサー、そしてワシントン宛の報告書のなかで、ノーマンが近衛文麿の立ち居振る舞いをこれ以上は考えられないというほどに悪しざまに罵り、木戸を褒めたたえ、近衛が主宰した昭和十六年九月六日の御前会議を戦争決定の会議に仕立てたのは、ノーマンが木戸から直接に聞いてのことだと思っている。
 木戸は日記に注意深くノーマンの来訪の記述をしなかったのか、書いてしまいはしたものの、あとで墨で塗り潰したのだと私は見ている。
 さて、都留重人について、木戸日記を読んで、知ったべつのことがある。
 木戸の日記には記載はないが、だれもが知るとおり、都留は政治に強い関心を持った理想家肌の青年だった。旧制高校の時代には共産党系の団体に参加して、退学となった。アメリカに留学していたあいだも、「プロレタリア革命」「世界革命」のために「共産党員以上に共産党員らしく」活動した。
 ところが、社会的不正を許さないという自覚と信念を持っていたはずのこの人物が、老幼男女の無意味な、情けないかぎりの死を一日でも早く終わらせるべく、戦争終結を考えようとしなかった。
 木戸が外務大臣の重光葵に頼み、都留は外務省に勤めていた。かれはまた海軍省軍務課に協力して、アメリカ研究会を主宰していた。かれは義理の伯父や伯父の友人、かれらの部下たちのだれよりも日本を取り巻く国際情勢がはっきりわかっていたはずだった。
 そしてかれの伯父がいた。のちに都留は木戸とともにアメリカ占領軍の関係官に向かって、内大臣はなんの力もない、宮廷の侍従と変わりのない小官だと思わせようと努めた。しかし、都留自身はかれの伯父が総理大臣よりも、統帥部総長よりも、大きな力を持っていることを知らなかったはずはない。戦争をやめさせることができるのは、ほかのだれでもない、かれの伯父だった。
 かれが伯父とノーマンに協力して、近衛文麿を自殺に追い込んだことを知って、私はさほど驚かなかった。私が本当に驚いたのは、伝書使として、対独勝利に湧くモスクワに行って戻ったかれが、昭和二十年六月、七月、戦争終結のために伯父に働きかける努力をなにひとつしなかったことを木戸日記で知ったときである。
 どうして都留は伯父に戦争を一刻も早く終わりにしなければならない、陛下にこのように申し上げたらどうかと自分が考えたことを説かなかったのか。東大法学部の教授であり、木戸の幼なじみの高木八尺は木戸にそうした考えを告げ、陛下に申し上げてくれと言った。
 都留がそうしたことをしなかった理由はなんだったのか。あのコミュニストはソ連軍による日本「解放」を待ち望んでいたのだと勘ぐられてもしかたあるまい。
 私が思い浮かべるのは、再び松井成勲のことになる。謎に満ちた人生だとだれもが言うであろう。だが、私から見れば、松井成勲の人生よりも、都留重人の人生のほうがずっと謎に包まれている。もう少しはっきり言うなら、松井よりも、都留のほうが良心を欠いていた。
 都留に対してあまりにも厳しいと読者は言い、松井はたかだか情報屋であり、舞台裏のフィクサーだったのではないかと語るだろう。
 ひとつ、付け加えたいことがある。松井は陸軍、宮廷の御用を勤めていたが、昭和十六年はじめに憲兵隊に捕らえられ、一カ月ほど拘置されたことがある。アメリカとの和平の手がかりを探ろうと渡米し、国務省の高官と意見を交換した民間人を全面的に支援したのが松井だった。この交渉が失敗に終わったのは言うまでもないが、松井は自分の背後にだれがいたのかを明かさなかったし、戦後になってもなにも語っていない。
 都留はどうか。かれは内外すべての状況がわかっていながら、そしてかれ自身、まことに稀有な立場にいながら、戦争終結のために指一本動かそうとしなかった。しかし、松井のように殺人はしていないと言う人がいるかもしれない。近衛文麿を死に追い込んだのは都留である。
 ところで、もっとも肝心なことを言うのを忘れていた。アメリカとの戦争に突き進むことになったのは、木戸の私心にあったというのが私の『近衛文麿「黙」して死す』の主題である。木戸日記なしには、私はその結論を導きだせなかったことを付け加えたい。

木戸幸一『木戸幸一日記 上・下』東京大学出版会(昭和四十一年四月発行、定価各8190円)

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