変わった題だが、題名どおり、近衛の死、かれの死の前の五年間、昭和十六年六月から昭和二十年十二月までの重要な数々の問題の再検討をおこなったものだ。
近衛文麿が亡くなってから、六十二年の歳月がたつ。「近衛さん」のラジオ演説の声が素敵だったと姉から聞いたと語る人、ニュース映画で見た「近衛さん」が颯爽としていたと母親から聞いた覚えがあると喋る人たちですら、現在、いずれも七十代である。そう、勤労動員、あるいは集団疎開の世代なのである。

鳥居民の蔵書より。左から、有馬頼寧『友人近衛』(昭和23年発行)、岡義武『近衛文麿─「運命」の政治家』(昭和47年発行)、勝田龍夫『重臣たちの昭和史上・下』(昭和56年発行)、杉森久英『近衛文麿』(昭和61年発行)、矢部貞治『近衛文麿』(昭和51年発行)。

工藤美代子著『われ巣鴨に出頭せず』日本経済新聞社
それからすでに二十年がたつ。近衛の友人、部下、知人はすべて死に絶えた。そのあとに近衛の伝記を書いたのは、昨年に上梓された工藤美代子の『われ巣鴨に出頭せず─近衛文麿と天皇』である。
工藤の近衛伝はそれまでの近衛の伝記と大きく異なる箇所がある。ハーバート・ノーマンと都留重人をはじめて登場させていることだ。
近衛が戦後を生きたのは昭和二十年八月から十二月までである。工藤は近衛のその最後の四カ月を綴るにあたって、第十二章と最終章の第十三章に分け、第十二章に「ハーバート・ノーマンと都留重人」という題をつけ、二人が近衛を死に追いやった経過を明らかにしている。
近衛の伝記を書こうとする人はもちろん、近衛のことを調べようとする人に欠かすことのできない参考書は、矢部貞治の『近衛文麿』である。前記の後藤隆之助、さらに近衛の首相時代の秘書であり、そのあとも側近だった牛場友彦、細川護貞がその作成に協力した。近衛の伝記は数多いが、矢部の近衛伝のようにすべてを覆いつくしたものはほかにない。
ところが、その八百頁に近い大冊のなかに都留とノーマンの記述がない。かれらの名前すらでてこない。
当然といえば当然だ。昭和二十六年に矢部がその伝記を書き終えたとき、ノーマンが近衛を戦争犯罪人だと告発した意見書をマッカーサー総司令部に提出していたという事実は隠されていた。そのノーマンの意見書、おどろおどろしいとしか言いようのないその中身をだれも知らなかった。そこで矢部貞治は近衛の死とかかわるノーマンについて記すことはなかったのだし、かれの協力者、都留に目を向けることもなかったのである。
ノーマンがやったことが明らかになってからも、近衛の伝記を書くことになった人たちは、矢部の近衛伝を座右に置いたであろうから、ノーマンについて記述することをついつい忘れてしまった。
工藤美代子が近衛の伝記を書くことになってはじめて、かれの死はノーマンと都留が仕組んだという事実が明らかにされた。工藤は以前にノーマンの詳細な伝記を書いたことがあったから、ノーマンと都留、この二人が考えていたこと、そしてかれらのアメリカ留学時代の関係をだれよりもよく知り、昭和二十年の後半にこの二人がなにをしたのかも、多くのことを承知していたからである。
ノーマンと都留は他人には誤魔化しつづけたから、ソ連にたいする忠誠心をいつ捨てたのか、共産主義を信奉していたのはいつまでだったのかを、明らかにしていない。だが、間違いなく、昭和二十年十月四日に近衛がマッカーサーに会い、占領軍の左寄りの政策を批判し、そんなことをしていたら日本は共産化してしまうぞと警告し、総司令官の支持を得る気配となろうとしているのをノーマンが知ったときに、かれと都留はまだ転向からは遠かった。近衛を破滅に追い込もうと決意した二人は、大車輪の活動をはじめ、近衛を死に追い込んだのである。
矢部貞治と岡義武が理解できなかった近衛の死の真実、そして矢部のあとの研究者や伝記作家が薄々気づいてはいながら、考えようとしなかった謎を、工藤美代子はしっかり論述したのである。
私はノーマンと都留だけでなく、もうひとり、木戸幸一を取り上げた。
近衛と木戸、この二人の政治家は長いつきあいがあった。もちろん、すべての近衛伝に木戸は登場する。近衛と木戸は学生時代から親しかった。二人はともに政界に進み、近衛は昭和八年に貴族院議長となり、木戸は同じ年に内大臣秘書官長となった。昭和十二年六月に近衛は首相となり、その年十月に近衛の要請によって、木戸は入閣した。昭和十五年六月に木戸は内大臣となった。その少しあとに近衛は再び首相となった。
矢部貞治も、岡義武も、近衛と木戸が政治面で協力し合ったことを記した。二人のあいだに小さな齟齬や衝突があったことを書くのも忘れていない。
私が書き上げた近衛論はまったく違う。近衛と木戸とのあいだには、小さな齟齬やいざこざがあっただけではなかった。近衛と木戸とのあいだには、どちらかが死ななければならない対立と暗闘があったのだと叙述した。
『近衛文麿「黙」して死す』と題したとおり、近衛はその対立、暗闘を死ぬまで口にせず、木戸がこれまた死ぬまで明らかにしなかったから、近衛の友人や部下たちは知ることなく、察してはいても沈黙を守り、そこで歴史研究者、伝記作家も気づかないできたのだと私は書いた。
これだけの説明では、読者のだれもがうなずくまい。
アメリカとの戦争がはじまったつぎの年、昭和十七年八月のことだ。首相の東条英機は大東亜省をつくろうとした。「大東亜地区」のすべての政務を一元化しようという構想だった。当然ながら外務省は分割されてしまうことになる。外相の東郷茂徳は二元外交になると真っ向から反対し、閣議は決着つかなかった。
帝国憲法の規定によって、各大臣は個別に天皇を輔弼することになっている。そこで首相は閣内の意見を一致せしむる職責を持つが、強制する力を持ってはいない。ある閣員が閣議で反対意見を説くのであれば、首相は翻させるように説得に努める。それに失敗すれば、その閣員に辞任を求めることになる。辞めないと頑張れば、首相は自己の職責を全うしえないということで、総辞職するしかない。
そこで東郷茂徳が外相を辞任しないなら、それとも東条英機が大東亜省設置案を撤回しないなら、内閣総辞職とならざるをえない。
ところで、東条は東郷が反対すると予想して、前もって内大臣、木戸幸一を味方につけていた。木戸は天皇に大東亜省の設置が望ましいと言上した。天皇は海軍大臣、嶋田繁太郎に向かって、総辞職には反対だと告げた。嶋田はそれを東郷に伝えた。東郷はお上の意思を知り、自分が辞任するしかないと知った。閣内不統一による総辞職とはならずに、東条が外務大臣を兼任することになって、大東亜省の設置は決まった。
そこでそれより一年足らず前のことを思いだしてみよう。
昭和十六年十月十四日の閣議で東条英機は「撤兵は退却である。それでは士気を失う。士気を失った軍隊は無きにひとしい」と説き、中国撤兵に反対した。中国撤兵を陸軍に迫る首相の近衛文麿と中国撤兵は絶対にしないと頑張る陸相の東条英機は対立をつづけていたのだが、東条は閣議にその問題を持ち込むことによって、閣内不統一をはっきりさせてしまったのである。
アメリカと戦うのか、戦いを回避するのかといった問題は、大東亜省を設置する、しないといった些細な問題と比べるべくもない。当然、近衛は内大臣の木戸に向かって、陸軍大臣にお上から中国撤兵への反対を止めよとのお言葉を頂きたいと申し入れたはずである。
木戸はそれをしなかった。そこで近衛内閣は総辞職して終わった。つづいて木戸はなにをしたか。中国撤兵に反対する東条英機を後継首相にするように天皇に奏請した。
近衛と木戸とのあいだにあったのは、決して小さな齟齬やいざこざではなかったことは、読者も納得できよう。
木戸の決断ではじまったアメリカとの戦いが敗北に終わったとき、近衛と木戸とのあいだに、どちらかが死ななければならない暗闘がはじまる。どうしてなのか。その一部始終を私は『近衛文麿「黙」して死す』に書いた。
近衛の死から六十数年、かれの伝記に欠けていた重要な部分をやっと埋めはしたものの、私の近衛文麿にたいするいまの思いは、矢部貞治の近衛伝の結び、「『子は時に会わず』の感を禁じ能わぬ」と変わりなく、岡義武の近衛伝の副題、「『運命』の政治家」にもうなずくことになる。読者もまた同じ感慨に耽ることになると思う。
工藤美代子『われ巣鴨に出頭せず─近衛文麿と天皇』日本経済新聞社(平成18年7月発行、定価2310円)
※鳥居民の『近衛文麿「黙」して死す』に関してはこちらをご参照ください。
次回更新予定日 4月19日
