二百人に近いかって海軍主計科士官だった人びとが執筆した『滄溟』は、年若かったかれらが大戦後半一年半のあいだに考えたこと、やったことを学ぼうとする人たちの必読の文献である。

海軍経理学校補修学生第十期文集刊行委員会『滄溟』
とはいっても、現在、短現と耳にして、わからない人のほうが多いにちがいない。もう十年も前のことになるが、防衛大一期の前川清が「海軍の教育遺産」と題して、つぎのように記したことがある。
「昭和五十年代は、官民各界で多くの短現出身者が要職につき、もっとも活躍した時代であった。
短現出身の国会議員は延べ二十数名、うち五名が防衛庁長官になり、しかもその中には中曽根康弘首相を含んでいる。
昭和五十五年頃、日本の全大使約百名中、二十数名が、また、省庁事務次官の六、七名、つまり三人に一人が短現出身者であった。
大蔵官僚にも多い。大蔵本省の八人の局長中六人が短現出身の時期があった。……
短現出身者が一番多くいた業界は総合商社で、計約五十名、一企業としては新日鉄の約十名、そして大学教授になった者は約八十名にのぼる」
短現の卒業生総数は、昭和十三年卒業の一期から昭和二十年四月卒業の十二期まで三千五百六十人だ。戦死者は四百人である。
十期は昭和十八年九月末に七百人が海軍経理学校に入校した。五カ月間にわたって、挙措動作からはじまって、座学、そして海軍体操、武技、棒倒し、カッターまでの速成教育を受け、昭和十九三月一日に卒業、海軍主計中尉に任官、任地に出発した。
砲術、航海、機関、航空といった純然たる軍務以外のすべては主計科士官の所管であり、その殆どが年若い短現に任せられていた。昭和十九年三月、戦況はすでに日本側に不利であったが、それでも戦域はまだまだ広大だった。外戦部隊に加えられた主計官は北太平洋から南太平洋にまで進出した。
ニューギニヤやインド洋のアンダマン島に派遣された者がいた。フイリピンでは陸戦隊や航空隊が山地に後退したから、主計長は辛酸をなめた。十期の全戦没者数は八十五人だが、三十人がこの戦場で倒れた。サイパン島では十人が戦死した。船団護衛をする海防艦の主計長になって、敵の潜水艦と戦った者もいた。海軍省勤務の者もいた。私が『昭和二十年』第七巻で五月二十五日の海軍省炎上を記したのは、江波洋三郎の回想を利用できてのことだった。
「午前一時、朝直の烹炊員は、早くも米麦を容れた大ザルを担ぎはじめる。蒸気の濛々と立てこもる烹炊所の熱気は、既に摂氏五十度、三〜四馬力の冷房位では何の用もなさぬ。越中褌に前垂一つ、裸足で走り回る兵員の身体は、滝のような汗にベトベト光っている。眠い、重い、熱い、そして下らない、地味すぎると考え及ぶ時、およそ我こそは主計兵なり、烹炊員なりという誇が、若い兵隊たちに持てるかどうか。
高橋清掌衣糧長の口癖に曰く、
『主計兵ハアラユル兵科ノ中デ、最モ精神的ニ優レ、意思ノ強固ナ者デナケレバ勤マリマセン』。
熱地の艦内勤務中、辛いのは先ず主計科、機関科である。涼しい艦橋、露天機銃、高角砲台、ハタ甲板、張りのある号令、華やかな戦闘場面は、烹炊員は拝みたくとも見られない。舷窓を閉めた熱気と臭気の迫る厨房。重い米袋を、野菜籠を背負い、総員起こしの頃には、下甲板の糧食小出庫から担ぎ上げてくる労苦。
糧食搭載。上ではノドカナ起重機の音。『ユルメー、引ケー、止メー』で、引いたりゆるめたりしている両舷直は生易しい。ガラガラと滑車が軋みながら袋が降ろされてくる最下甲板の米麦倉庫作業場は、濛々たる埃と息もつけない蒸し暑さ。身動き一つ自由にならない。区切られた倉庫内での積付作業」
もちろん、艦船勤務をした者は苛烈な戦闘にも直面した。沖縄水域に突入する戦艦大和の直衛駆逐艦冬月の主計長、武田威男は艦橋に立っていた。そこが戦闘時の配置位置だった。戦後、北海道で会計事務所を開いた武田がつねに心の支えとしたのは、その戦闘のさなかにだれもが自分の任務を遂行しようとしたその責任感の強さだった。その回想文の一説を写そう。
「冬月は対空高角砲、二十五ミリ機銃で武装しているが、主として戦闘機による機銃攻撃を受け、常時十数機が入れ替わりに突っ込んでくる。敵機よりの機銃は我方に恐怖感を与える配慮か、赤・黄・青の曳光弾が糸を引くように発射され、すべて当艦に吸い込まれるように見えるものです。敵飛行士の飛行服のドクロ模様や絵模様が鮮やかに飛び込んで参ります。私は艦橋右側の航海長の後方に位置していましたが、艦橋は艦長以下首脳部のいるところであり、敵の攻撃も一番先に行われるかなり危険な場所であります。私の目の前で配置についていた航海長中田隆保中尉(海兵七二期)は最初の敵戦闘機の突入の時、敵機の十三ミリ機銃弾を受け、両手首が瞬時に吹き飛び、一瞬、私の軍服に血しぶきがかかり、私はその時近寄ろうとしたが、ヒザがガクガクして力が抜け歩くことが出来ない。このことが、腰が抜けたという事かと、あとで恥ずかしい反省をしたものです。
航海長は負傷大出血にもめげず配置についておられたが、出血多量の為意識不明となったので、気を取り戻した私は航海長をかかえ、下部士官室の応急治療室に運び込みましたが、そこも足や手をもがれた兵で血の海であり、軍医長は真剣に治療に従事されていました。その士官室の天井に白い煙が立ち機銃弾が入ってくる有様で、私は気を落ち着けようと艦長室前の暗闇にたたずんでみたが、大型爆弾の爆風でメリメリと破れるような大音響がする。艦の床のリノリューム床も血で滑る。……
……再び艦橋へ戻ると、私より若い水雷長白石芳一郎中尉(対空戦闘時は艦内消火作業等の応急指揮官となる)が艦橋の後ろ側の一番目立つ危険な旗甲板に仁王立ちをして自若として全艦を見守っています。後方を見ると掌砲長山居善介少尉(三、四番機銃弾指揮官)が敵銃弾を頭部に受け仁王立ちのまま壮烈な戦死を遂げられた姿が目に入ります。艦橋では山名艦長は豪胆にもクワエ煙草で『空を見て大型爆弾を』『海を見て魚雷を』かわすべく操舵長と一体となって沈着に操艦されていました」
『滄溟』の十期は大正七年から十年の生まれ、昭和二十年に二十七歳から二十四歳だった。『海鳴り』の宮城県立一女の生徒はかれらより十歳若く、昭和四年、五年の生まれだった。若人と娘たちはこのマリンブルー、セルリアンブルーの海軍に青春を捧げたのである。
海軍経理学校補修学生第十期文集刊行委員会 編集・発行 『滄溟 海軍経理学校補修学生第十期』(昭和58年刊行、非売品)
次回更新予定日 3月22日
