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書冊の山より 鳥居民
第2回 学徒勤労動員の記録『海鳴りの響きは遠く』
 あるひとつの世代が向こう十年のあいだに消え去る。
 お寺の本堂に端から端まで敷き詰めた布団に級友たちとずらりと枕を並べて眠った記憶を持つ人たち、休みの日の朝、火薬で黄色く染まってしまった自分の指を見つめた思い出を持つ人びと、勤労動員を経験した世代、集団疎開を経験した世代である。
 私もその世代のひとりである。川崎市にあった日立の飛行機工場で練習機の発動機の部品のやすりがけをしていた。遠く過ぎさった日々の思い出は数多くある。ところが、私の脳裏に鮮やかに浮かぶ勤労動員の日々はまたべつにある。
 前の号で、私は第二次大戦中の日記を収集していると綴り、好きな日記、嫌いな日記があると書き、好きな日記は宮城県立第一高女四年生の神奈川県逗子での勤労動員の日記だと記した。
 勤労動員を思いだして、私の記憶のなかのとりどりの場面は、彼女たちの勤労動員の日記と回想を収録した『海鳴りの響きは遠く』から浮かびあがる。
 つぎのような理由からだ。私が書きつづけてきた『昭和二十年』のなかで、宮城県立一女の勤労動員の日記から何回か引用した。引用部分はそれほど多くはないが、彼女たちの日記を丁寧に読み、「入浴」「履物」「石鹸」「外出」までのカードを何枚もつくったことから、彼女たちの勤労動員の毎日は、私自身の勤労動員の霧のかかった思い出より、はるかに濃密に私の記憶に残っているのである。
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宮城県立第一高女47回生学徒勤労動員記録集編集委員会編『海鳴りの響きは遠く』
 仙台市にある宮城県立一女の四年生、九十一人が仙台を出発したのは昭和十九年十一月二日の夕刻だった。宮城県の六校の女学生が上野行きの団体列車に乗った。
 彼女たちは逗子の沼間の寮で寝起きし、一女の生徒たちは寮から歩いて十五分ほどのところにある火薬工場で働くことになった。横須賀海軍工廠の分工場である。
 彼女たちは高角砲弾と馴染みになった。彼女たちが逗子に来たときには、まだ空襲はなかったから、会話のなかで高射砲といった名詞がでてくることはまったくなかった。砲弾のなかに火薬が入っていることは知っていても、炸薬と発射薬の区別があることも知らなかった。そして海軍では高射砲を高角砲と呼ぶことをはじめて知ることになって、大柄な生徒たちはその砲弾を運び、肩に担ぐことにもなった。そして彼女たちは射薬を袋詰めにする、薬莢に入れる、炸薬をフェルトで包む、そして弾と薬莢を結合するといった作業をした。
 火薬を扱うから火気は厳禁だった。指の感覚はとうになくなり、砲弾の氷のような金属面は手のひらに吸いついた。当番が食堂から空き缶にお湯を入れて運んできた。彼女たちは手をお湯に入れて、人心地がついたという思いにひたった。
 なによりも辛いのは雨の日だった。寮の行き帰りの粘土質の泥土に泣かされた。泥はモンペから上着、髪の毛までにはねあがった。夕食のあと吹きさらしの洗い場で指を真っ赤にして洗濯をしても、はねはしみになって残った。革靴は大事にしまってあり、ふだんはだれもが下駄履きだった。
 嬉しいのは小包が着いたという知らせと、休みの日に「面会よ」と廊下から級友の声が届いたときだった。だが、面会と小包は寮の全員を喜ばせることはできなかった。面会と小包とが長く無縁な生徒は夜には布団のなかで泣くことになった。
 休みの日には、鎌倉の八幡宮に行ったし、海岸の砂浜で桜貝を拾った。級友の親類の紹介で大船の撮影所も見学した生徒たちがいた。最初に特攻を敢行した関行雄大尉の未亡人宅を鎌倉に訪ね、写真に手を合わせた生徒もいた。彼女たちがおネツの工場幹部の大和田大尉の家を見つけだして喜んだ者もいれば、鎌倉山の田中絹代の御殿を見に行こうとしたものの、警戒警報のサイレンが鳴って、思いとどまった生徒たちもいた。三笠の見学にも行った。裏山にものぼった。
 上級学校受験のために仙台に帰ろうとした生徒たちは上野駅で空襲に遭い、恐ろしい思いをした。三月十日の払暁、東京の空が赤く染まるのを、彼女たちが掘るのを手伝った寮の裏の崖の防空壕の入り口からじっと見た。
 彼女たちが懸命に働いたのは五カ月間だった。三月二十九日に寮の食堂で卒業式をおこない、翌日、仙台に帰った。卒業したあとも、同じ工場で働くのが決まりなのにもかかわらず、海軍工廠の幹部は見て見ぬふりをした。彼女たちを引き止める理由がなかった。原料も、材料も急速度に不足、欠乏しはじめていたからである。
 逗子に残ったのは四十人ほどの上級学校進学予定者だった。上級学校の入学が七月となったから、彼女たちはずっと分工場で働いた。四月、さらに五月になって、まともに仕事はできなくなった。いよいよ空襲が烈しくなっているにもかかわらず、作業場には高角砲弾が届かなかった。工場の幹部は彼女たちを落胆、失望させまいとして、仕事らしきことをさせ、あるいはよそへ見学に連れていった。彼女たちの何人かが池子へ行ったのも、そうした訳からだった。
 十数年前のことになるが、逗子の池子の弾薬庫跡にアメリカ軍の家族住宅を建てるのに反対する市民運動が起きたことがある。そのときに私は知ったのだが、池子の弾薬庫、池子工場についての記述が、神奈川県史、逗子市史、郷土史、学校史にまったくなかった。
 私は『昭和二十年』のなかでつぎのように記した。
 「関係の書類は焼却、散逸し、思い出を持った人びとは世を去ってしまい、わずか数日、池子に行った宮城県立第一高女の溌剌とした知性を持った一生徒の日記の断片が同期生の回想録に収録されたことで、ただひとつ残っているのである。
 歴史とはこういう具合にして伝えられ、つくられるのであろう」
 浜田照子は五月七日の日記につぎのように記した。
 「池子の隧道迄行く道は松島の観光道路の様で楽しく気持ちがいい。幅も高さも二倍にした様な大きさの池子隧道を抜けると、両側の切り立った岩肌も道も真黄色、トラックが黄色い砂塵をあげて来る。乗っている人の顔は異様に黒い。何度も火薬かぶれを繰り返し、こんな顔になってしまったという。手は黄色を通りこして赤く染まっている。頭からすっぽり白い布をかぶり、目鼻口だけを出して働いている人がいた。大きな前かけのようなもので体を覆い背に大きく数字がつけてあり囚人の群れの様で不気味である。火薬計量庫へ行った。壁も柱も貼ってある紙迄黄色の世界、そこで会った人が『入るとかぶれますよ』と注意してくれた。次は爆薬と蝋を蒸気で溶かし棒状や筍形の火薬を作っていた。次の作業場は親子飛行機の子につける噴射器の炸薬を鋳込む大がかりな作業場だった。食欲をそそるような黄色いラクガンを思わせる爆薬だった。身の引き締まる思いで工場を出て、二十分程かかる事務所へ行く。三井部員は不在でお目にかかれず心残り。驚いた事にこの工場の中を湘南電車が通っている。かけ離れた世界の動物が何も知らず動いて行くようで奇妙である。……」
 逗子に残った一女の生徒たちが仙台に引き揚げたのは六月二十日、仙台の学校で解散式をおこなったのは六月二十七日だった。
 宮城一女の日記は、ひとつの世代、昭和十九年十一月から翌二十年六月までの勤労動員の女学生たちの日々がどういうものであったかをわれわれにはっきり教えてくれるだけではなく、それはもろもろの歴史書が決して教えてくれることのない、その半年の日本の姿を鮮やかに描きだしてくれてもいる。
 だが、私がもうひとつ知り得たことがある。逗子に行った宮城一女の生徒たちは四十七回生だった。学校の創立は明治半ばなのである。女学校の設立は、明治はじめに町や村でつくられた小学校と同じだった。地域の人びとの熱意に依存した。女学校はかれらの協力と信頼を得て、やがては県立女学校となった。入学者を選び、訓練し、生徒数と卒業生を増やしながら、ひとつの強い伝統を築き、これを次代に伝え、地域社会に少なからぬ力を持つようになった。日本の中産階級の母体はこのようにして形成された。
 仙台市にあった宮城県立第一高女はそのような母体のひとつだった。潔癖さ、負けじ魂、友情、自負、責任感は、逗子に行った彼女たちのひとりひとりが持っていた。私がその日記を好きなのはここにある。

宮城県立第一高女47回生学徒勤労動員記録集編集委員会 編集・発行 『海鳴りの響きは遠く』(昭和56年8月15日発行、非売品)

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