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書冊の山より 鳥居民
第1回 清沢洌『暗黒日記』
 私の本棚のひとつに、政治家から小学生までの日記が並んでいる。もちろん、その大部分は活字となって刊行された日記であり、いずれも昭和二十年の毎日を綴った日記である。
 それというのも、私は昭和二十年の一年を追って、人びとがなにをしていたのか、なにを考えていたかを論述してきたことから、その年に書かれた軍人や女学生の日記を読むのは、欠かせない仕事なのである。
 私がこれらの日記をひろげていつも感心するのは、これだけ多くの人があの年に日々の記録をつけていたという勤勉さである。
 昭和十九年から昭和二十年にかけての冬は寒かった。暖房は火鉢か、こたつだけだが、炭の配給は僅かだった。寒い部屋のなかで、着ぶくれて、空腹を抱え、薄暗い灯の下で机に向かい、日記を記した。鉛筆を握る子供の指は霜焼けで膨れていた。
 加えて空襲だった。前夜遅く空襲があれば、翌日は一日眠かった。夜半の空襲に備え、早く寝床に入らなければならなかった。そして胸につかえる心配事がいくつもあり、しなければならない雑事の山があった。じゃが芋を植えるための準備にとりかからねばならない。焼かれてしまった叔母の寄留先を訪ねなければならない。集団疎開の娘を慰問に行かねばならない。職場に来るヤミ屋からヤミ米を買わねばならない。海兵団に入団した弟がどこへ派遣されるのかが気になるし、つぎはこのあたりが狙われるのではないかと空襲のサイレンがいつ鳴るのかが気にかかる。そして日本はどうなってしまうのだろうという思いがつねにあった。
 こんな状況にありながら、多くの人が日記をつけた。私の本棚だけでも百数十人の日記がある。
 当然ながら、好きな日記、嫌いな日記がある。尊敬する執筆者もいれば、不快な執筆者もいる。尊敬する執筆者はメレヨン島守備の中隊長、桑江良逢だ。好きなのは宮城県立第一高女四年生の神奈川県逗子での勤労動員の日記だ。
 今年七月に徳富蘇峰の『終戦後日記』が刊行され、数多くの書評がでた。まことに残念に思ったのは、戦争中、昭和二十年三月十七日号の「東洋経済新報」に清沢きよしが書いた社説「徳富蘇峰に与う」に遠く及ばない、粗雑な批評だったということだ。反戦主義者として捕えられることを覚悟していた清沢と、現在の書評者の心構えはまったく違うのだから、それは仕方がないと目をつぶっても、『終戦後日記』の徳富蘇峰が自分にはまったく責任がないといった態度で、自分以外のすべての人に八つ当たりをしている卑怯未練さに書評者たちがなにも気づいていない事実に私は驚愕した。それどころか、蘇峰の大胆な批判に感嘆するといったいい加減な文章まであるのに、私はあきれ果てた。
 じつは昭和二十年二月二十一日の新聞に載せた蘇峰の主張はまさに同じ筆法、同じ筋立てのものであり、国民に八つ当たりをした身勝手な内容だった。清沢はこれを取り上げ、「近代日本における責任ある地位にあるものにして足下の如く徹底的強硬論を知らない」と蘇峰を批判し、「目前の国家至重の事態を見る時に」、これまで「国民を引きまわして来た」ことについて、「自から何等の責任を感じないのであるか」と詰問したのである。
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清沢洌著『暗黒日記1・2・3』
ちくま学芸文庫
 もう一度言うが、私が残念に思うのは、蘇峰が自堕落な文章を綴る僅か半年前、戦争がまだつづいているさなか、清沢洌が堂々としかも痛烈に蘇峰を恥知らずと批判していたことを、六十年のちの知識人がなにも知らないという事実である。
 そこで清沢洌の日記のことになる。『暗黒日記』と命名したのは、まことに丁寧な編集をした橋川文三であろう。読者をして忘れさせない題名である。
 その日記には、清沢洌が徳富蘇峰を社説で批判したいと語り、「東洋経済新報」社主の石橋湛山が紙の配給を止められてもいい、書いてほしいと言ったくだりがある。また、戦争が終わるのは、それほど遠くないとかれが予測していたことも日記のなかで綴っているし、もちろんのこと、本土決戦なんかできるはずもないと見ていたこともはっきり書いている。
 なによりもかれは戦後の準備にとりかかっていた。かれの日記を繰っていけば、それも明らかになる。かれは昭和十九年十一月に日本外交史研究所をつくった。日記のなかにはこれについて記述がいくつもでてくる。
 私は『昭和二十年』の第八巻のなかで、清沢洌の夫人が喋ったという形にしてつぎのように記した。
 「空襲のサイレンが毎日鳴るようになり、このような集まりはもちろんのこと、役所の研究会、お寺の報謝講、短歌の歌会、なにもかもが集まりを中止し、活動をやめてしまったときになって、夫はすすんで日本外交史研究所をつくりました。夫はさきのことが読めなかったわけではありません。夫はさきのさきを見通して、この研究所をつくりました」
 その日記を読めば、かれ個人の努力でつくられた研究所の発会式に、いずれも戦後に首相になった幣原喜重郎、石橋湛山、芦田均が出席し、各新聞社の最高幹部、国際法、外交専門の学者が集まったことがわかるし、研究所創設に多額の資金をだしたのが、野村証券社長の飯田清三だったことも推測できる。
 この人たちは清沢洌が勇気としっかりした見通しを持っていることを高く買い、骨のある自由主義者であることに敬意を払っていたのだ。そうしたかれの性格、かれの思考も、その二年半の日記を読めばよくわかる。
 無念なことにかれの日記は昭和二十年五月五日で終わる。五月二十一日にかれは築地の聖ルカ病院で急逝した。
 私は同じ『昭和二十年』の第八巻のなかで、夫人につぎのように語らせた。
 「戦後の日本がどういう境遇に落ちるか、そしてどういう国になるか、夫にはわかっていたのでございましょう。それだからこそ、夫は外交史研究所をつくったのだと思います。そんなさきのことを考えて行動する人が、自分自身を襲った不意打ちの死を察知できませんでした。……
 私が傍らにいたら、せめてこの軽井沢で発病してくれたならば、それとも発熱の様子を葉書で一言知らせてくれていたならと返らぬ愚痴をこぼしております」
 戦後の日本を背負うひとりになるはずだった男が敗戦三カ月前に急死し、日記だけを残した。だが、その日記は決して「暗黒日記」ではない。敗戦末期、だれもが暗澹たる気持ちでいたとき、日本の未来をこの手でつくってみせると自負していた人が書き残した燃え尽きることない希望を秘めた日記なのである。

清沢洌著/橋川文三編集『暗黒日記1・2・3』ちくま学芸文庫
1巻 定価1575円/2・3巻 定価1680円(いずれも税込価格)
→筑摩書房ホームページ

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