Web草思
身になるカラダ・身につくカラダ 芳野香
最終回 「かたち」になること、「身」になること
カラダが生み出してしまうもの

 「うつむいて歩いていたら、『今朝は暗いですね』と同僚に言われてしまいました」とあるクライアントさんが言った。「足元を歩いていた蟻を見ていただけなんですけどね。暑くなってきたから、虫の動きも活発だなぁ、と思って」
 こういうことってよくあることかもしれない。蟻を眺めることが、ではない。「うつむいている」イコール「暗い気持ちでいる」、という図式でとらえられることが、である。「うつむいている」という状態についてだけではない。例えば「上を向いている」と「元気そう」「偉そう」と言われることもあるかもしれない。「横を向いている」と「無視している」「興味のない態度」とみなされることもある。
 日本語の世界の中では、カラダはよく「こころ」を表す。「横を向く」は、「横を向いている」動作ではなく、態度を表したものである。「胸を張る」も、「そういう動作をしている」と言っているのではなく、「得意になっている」とか「晴れ晴れとした気持ちでいる」ことを表す言葉である。
 確かに、ヒトは暗い気持ちのときに上を向くことはあまりしないし、興味のない人や嫌いな人の顔を正面から見据えて平気な人は少ない。逆に、特に暗い気持ちではないときでも試しに下を向いてみると、妙に嫌な記憶ばかりがよみがえってきたりして、知らないうちに「暗い気持ち」の方へと引き寄せられていったりすることもある。ダンス・セラピーや動作療法などでは、こうした動きと感情の関係に着目し、動きから感情を取り戻すように働きかけたりもする。
 人間のカラダの動きは記憶に大いに関係している。例えば、クライアントのダンサーさんなどにもよく起こることなのだが、ある作品でずっと「歌いながら踊る」ことをしてきた人が、踊らないで歌おうとしたときにとっさに歌詞が出てこなくなることがある。アタマで考えれば「歌いながら踊る」は「1+1=2」みたいなものに思えるかもしれない。「2」から「踊り」だけを引いて「1」だけ行うんだから、より簡単なことを行うように思えるかもしれないが、そうとは限らないのだ。「歌いながら踊る」は「歌う」プラス「踊る」ではない。もちろん練習の過程では「歌う」ことと「踊る」ことを分けて行うこともある。しかし仕上がってしまうとそれは限りなく渾然一体というか、究極の「ながら作業」というか、「歌いながら踊る」で一つの動作なのだ。
 このように、いったん作られた動作のバランスに変化がもたらされると、記憶している動作の再現が一部スムーズに行かなくなることがある。それが「とっさに歌詞が出てこない」という現象である。「歌いながら踊る」というと非日常的で特殊な動作に思えるかもしれないが、実は日常動作の方こそ「究極のながら作業」の宝庫なのである。例えば「デスクワーク」の一言で称される動作も「座っていられるだけの安定感を保持しながら、右手と左手を別々に動かし、同時に目を働かせて画像や文章などを認識し、呼吸をしながら発声し、思考もする」という複雑な作業なのである。しかも例えば「文字を書く」という作業だけでも、腕のどの関節に、どの筋肉に、どのくらいの力がかかり、どのような連動がなされているのかには人それぞれ固有のパターンがある。だから筆跡鑑定で個人を特定することが可能なのである。このように、部分だけでもかなり個性的なのだから、これが全身に及ぶとしたらその複雑さは推して計るべし、なのである。
 だから、本人にとっては望ましくない状況になっているにも関わらず、いったん「一つの動き」として安定してしまった「癖」を変えることは難しいのだ。「癖になっていることを変える」というのは、「(目に付いた)悪いところだけを直す」といった部分的な話で済むものではなく、全体のバランスを変えること、動作の組みなおしなのである。下手に急いで部分を無理やり変えると、ちょうど「踊りを止めると歌詞が出てこなくなる」のと同じ状況が起こってしまう。だからこそ見掛けにとらわれず、「それはなにをしているところなのか」を把握して、動作を再編成することが大切なのだ。そのあたりのことは第1回目の「姿勢」の話、第2回、第3回の「関節」の話の中にも少しずつ書いたので、よければ再度読んでみていただきたい。

「かたち」であらわすもの、「かたち」で隠してしまうもの

 ともあれ、こんなふうにヒトのからだの動きと感情との間には、密接にして不思議な関係がある。そしてヒトのからだは、どうしようもなく「かたち」をなす。それを目撃した人が、その人がなしたからだの「かたち」と、その人が抱いている感情や、他者への態度との間に、ある関係性を見出してしまうのは自然なことといえよう。
 しかし見た人が「見出した関係性」はいつも「それを行っている人の“つもり”」と一致しているとは限らない。ちょうど「蟻を眺めるために下を向いた」のを「落ち込んでいる」と勘違いされたように。確かに「落ち込んだとき」も「下を向く」んだけれども。逆に「落ち込んでいる」から「下を向いている」のに、そう思ってもらえない場合もある。それもまた悲しい。なにか、そうは見えないカタチになっているのかしら、私のカラダってそんなに無表情なのかしら、と悩んでしまうこともあるかもしれない。あるいは、自分に「見えている」ヒトの在りようは、本当に自分が感じているとおりなのだろうかという疑問がアタマをもたげてきたりするかもしれない。
 そうすると、それに対して何かしたくなるのが人情。おのずといろいろな「作戦」や「対策」が考え出されてくる。
 例えば「されたくない誤解を回避する」ための「作戦」。「下を向く動作をして、暗い人、と思われるのが嫌」だから「下を向かない」、という「作戦」である。とりあえず、下を向かずにまっすぐ顔をあげている人を見て「落ち込んでいる」と思う人はいないだろう。こうすれば、落ち込んでもいないのに「落ち込んでいる」「暗い」と思われることからは解放されそうだ。
 あるいは、「礼儀作法」「マナー」などを習ってみるのもよいかもしれない。自分がしたいことがわからない、あるいは、したいことをどのようにしたらできるのかわからないからこそ、ある「型」や「メソッド」に基づいて学んでみるのも悪くはない。「礼儀作法」や「マナー」とは少し違うかもしれないが、それに類するものを身につけるために「お茶」や「お華」を習うことは昔から珍しいことではない。ダンサーになりたいわけではないが、優雅な動きが身につくことを期待してバレエやダンスを習うのもよくあることだ。最近では、「○○を通して身につける」方法よりもよりダイレクトなメソッド……例えば「モデルが教えるきれいな歩き方教室」などというのもある。
 この「作戦」、グッド・アイデアのように思える。ただし、このアイデアがグッドでいられるのは、「自分がこうしたい」からではなく「他人にこう思われたくないからしている動作」なのだ、という自覚に基づいている限り、だと思う。
 危険なのは、この「作戦」に慣れてきて「自分は何をしているのか」という意識が薄くなると、いつの間にか自分の「作戦」に自分が騙されてしまうかもしれないことである。本当に「自分がこうしたくてしている」ような気分になってくるのだ。あるいは、そういう動作を続けているうちに、「そうすることがあたりまえ」になってきて、いつの間にかそれをすること自体が「守らなくてはならないルール」になってきて、「何のためにそうしているのか」がわからなくなってしまうのだ。
 「したいからしている」ことと「こうなりたくない(したくない)からしている」こととは、違う。たとえ結果的に生み出されるカラダのかたちはそっくりでも、違うものだ。例えば同じ「ありがとう」の一言でも「とりあえず、そう言っておけば角が立たないで済む」からそう言っているのと、本当に感謝の気持ちがあってそう言われたのでは、何かが違う。ヒトはそれを感じるチカラを持っているし、カタチでしかものを見ないほどお馬鹿さんではない。
 「振りをすること」や「型」から入ったとしても、本当にそう思ってそう動けるようになったのなら、それはそれでよい。最初はわけがわからなくても、ある作法や型に則って動いているうちに、どうしてその動きを行うのか、その動きの必然性が自分なりにつかめてきたりすることがあるからだ。この「自分なりに」ということが重要なのだ。それは「身勝手に」とか「自分に都合の良い解釈で」とは似て非なるものだ。習ったことを自分の身にしていくための重要な課程なのである。
 「型」や「作法」の習得は、まず先生やインストラクターのすることを真似るところから始まるのが常である。真似るのにも努力が必要である。しかしどんなに良く真似られたとしてもそれはゴールではない。また、同じようにしているつもりでも同じようにはならないという経験もすることだろう。それが大切なのである。共通したものの中に違いを、違いの中に共通したものを見出すこと。本来「習う」とか「学ぶ」というのはそういうことだと、私は思う。やってみて、感じるさまざまな「感じ」を受け止めながら「身につける」ことが大切で、「さっさとできる」ことや「上手にできる」ことが一番大切なのではない。
 そこが「マナー教室」であろうが、茶道や華道や武術のお稽古場であろうが、舞踊や音楽、演劇や美術のアトリエであろうが、そこで行われている「型」の習得や、練習して「できるようになること」の目的は「上手に自分を隠せるようになること」ではないはずである。最終的には「自分を表現したいから」「自分のしたいことをできるようになりたいから」ではないかと思うのだ。
 もちろん、最初から「本当の自分」なるものや「自分がしたいこと」がわかっている人間は極めて少ない。だから「学ぶ」んだと思う。学校での勉強も、世にいう「習い事」の数々も、いずれ自分が自由になるための手段に過ぎない。自分が納得できないやり方や自分の身体構造を誤解したやり方で動作を行ったときには、一応、できてはいても「なんだかキモチワルイ」感じを感じるだろうし、必然の動きができたときは「これ!」という感じがしたり、気持ちがよかったりするものだと思う。最初はその感覚の違いすらわからない人もいるかもしれない。でも、そのようなさまざまな感覚を、めんどくさくても避けずに受け止めてみると、少しずつ自分が何を望んでいるのかわかってきたりする。そのようにして「自分のもの」にした動作や技術は、「かたち」を伴いながらも「かたちだけ」のものではないはずである。
 そうは言っても「かたち」のチカラは絶大。結局何をしてもヒトのカラダは「かたち」を作ってしまうものだし、そこにヒトは「その人の存在の仕方」をみてしまう。というか、「かたち」を通してしか見えないのだ。日常生活においても、芸術表現においても。誤解も理解も含みながら。
 「かたち」そのものは良いものでも悪いものでもない。何かをしてそれが「かたちになる」ことはやはり嬉しいことだし、だんだん「かたち」ができてくることに手ごたえや充実感を感じるのも自然なことだ。だからこそ「かたち」には注意しなくてはならない。ハマってしまいやすいからである。例えば、ダイエットを始めた女の子がいつしか当初の目的を忘れて数字の変化に夢中になってしまうように。「かたち」にこだわりすぎると見えなくなることがある。それが「かたち」を「カタチだけ」のものにしてしまう。
 どうしようもなく「かたち」になる人の存在だからこそ、自分のカラダへの関心が「格好のよいカラダになりたい(というより、格好悪いとは思われたくない)」から入ったとしても仕方ないかしら、とも思う。私だって美しくないものより、美しいもののほうが好き。でも「格好だけ」のものはいずればれる。もともと格好にしか期待をしていないのであれば、ばれるも何も、ある意味思い通りだとも思うのだが、「その格好をする」ことがゴールなことって、本質的に存在するのか、などと思ってしまったりもする。
 だから時々私はクライアントさんに聞いてしまうことがある。「姿勢がよくなることで、からだがやわらかくなることで、このポーズやあの技ができるようになることで、何がしたいの?」と。私はその先が見たい。
 あなたが見ている「それ」に「そのかたち」を与えているものが何なのか、ちょっとだけ肯定的に疑ってみることで、あなたの中の見えにくかった何かに「かたち」が見え始めたのなら幸いである。
(了)

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