Web草思
身になるカラダ・身につくカラダ 芳野香
第5回 「文化」の違いと「カラダ」の違い
そこにある「カルチャー」と「ギャップ」

 私のところへはいろいろな人がレッスンを受けにやってきてくれる。私がめったに自分の事務所から動かないという怠惰な労働態勢をとっているせいで、クライアントには遠方からお越しいただくことも少なくない。今のところ、最も遠いところから通ってくれているのはヨーロッパ方面やアメリカからのクライアントになるだろうか。とはいえ、彼らはドイツやイングランドから週に1回京都に通ってくるわけではなく、来日あるいは帰国の機会がある時に連絡をくれるので、こちらでのレッスンのペースは年に多くて数回である。
 海外からのクライアントの多くは、いわゆるアーティスト、音楽家やダンサーといった人たちである。プロとして活動している人もいれば、留学中の日本人もいる。

 アレクサンダー・テクニックは、欧米での歴史は古く、芸術系の大学では以前からカリキュラムに取り入れられている事が多い。例えば、海外の音楽大学でピアノを専攻する学生がいたとしたら、ピアノの演奏と技法についてはピアノの先生のクラスで勉強するが、その演奏や技法を自分のものとするために個々どのような「からだの使い方」をすればよいのかについてはアレクサンダー・テクニックの先生のクラスで学ぶ、といった具合である。
 音楽にしろ、舞踊にしろ、どんなに才能に恵まれた人でも練習をしなければ上達はしない。だが、ただ練習さえすれば上達する、というものでもない。私がアメリカで仕事をしていたときに少しだけ音大などで授業を持った事があったが、プロになりたくて全米から集まってきた学生たちは文字通り「死ぬほど」熱心に練習をする。しかし悲しいかな、「死ぬほど」したくらいで上手くなれるほど「練習」は甘くないのだ。それどころか、情熱と混在したやみくもさは、上達よりも先に故障やスランプをもたらすことすらある。身体構造や思考パターンなどの個性を誤解し、練習の仕方を間違えて無理をした挙句、故障やスランプに陥って道を絶たれる人間は少なくない。罠を掻い潜り、運良くプロになれたとしても、そこはゴールではない。アーティストの「練習」は一生続くものである。だから自分に合った「練習の仕方」を選び取れるか否か、その判断基準を自分自身に持てるか否かは、とても大切な問題なのである。「からだの使い方を学ぶ」クラスが芸術系の教育機関に存在する意味は、そこにある。

 しかし日本では、例えばピアノであれば、基本的に全てピアノの先生に教わるような体制が「あたりまえ」なので、このようなアプローチの仕方に触れること自体極めて珍しい。だから日本人留学生は留学してみて、ある種のカルチャー・ショックないしギャップを感じることが多いようだ。日本では聞いた事もない「アレクサンダー・テクニック」なる授業が「あたりまえ」にカリキュラムに入っていることに驚くし、その授業で教えられることが音大の授業でありながら音楽に特化されたことではないことにも驚くようだ。ピアノを志す学生であれば「ピアノ(を弾くこと)しかやってこなかった」という人も少なくない。「ピアノに生かすためにピアノ以外のことを学び、ピアノとの関連性を見出す」などというやり方に慣れていないどころか、中には「他に目を向けることは“余所見をする”ことかと思っていた」とタブー視してきた人すらいる。いわば授業でいきなり正反対のことをさせられるのだから、驚くのも無理はない。他にも「アレクサンダー・テクニックって、演奏技法のメソッドのひとつかと思ってクラスに行ったら、全然違っていたので驚いた」「自分の音楽をするのに、自分のカラダのことを学ばなくてはいけないなんて、考えたことがなかった」と、留学当初のことを振り返るクライアントはけっこういる。

 彼らの感じたような「ショック」や「ギャップ」の理由を、文化が違うからね、で片付けてしまうことはたやすい。このような話をしたときに「さすが海外の学校は違いますね」とか「すすんでいるんですね」というようなレスポンスが返ってくることも珍しいことではない。私もその都度いちいち突っ込んだりせずに、あいまいな笑顔で返していることが多いが、でも、実はいちいち引っかかりながら聞いている。
 往々にしてひとは、自分が感じた「ショック」や「ギャップ」の原因や理由を性急に求めたがる。でもそれは、「ショック」や「ギャップ」というかたちで感じたものを、理解しようとして、というよりも、排除しようとして、のような気がしてしまうときがある。性急に求められた「ショック」や「ギャップ」の理由は「一番目に付く差異」に求められがちだ。例えばこの場合「国」とか「言葉」とか。あるいはちょうど前々回の連載で「イナバウアー」「ビールマン・スピン」をどのようにして行っているように見えるか、について書いたときの「腰」のように。
 私はいちいち引っかかる。「違いますね」と彼らが言う「違い」とは、本当は何なのか。本当に「国」や「人種」が「違う」からなのか。「文化が違う」とは、いったい何が違うことなのだろうか、と。

構造的にできないことと、経験的にやったことのないこと

 ところで欧米の男性には外反母趾が多い。正確に言うと、外反母趾をはじめとする足の変形が日本の男性より多い。そのせいか、足の痛みを専門に治療するクリニックの数もとても多い。私がアメリカで仕事をしていたときも、同僚やクライアントの男性にあまりにも足のトラブルを抱えた人が多いので、驚いた経験がある。
 このようにいうと「外反母趾って、ヒールを履く女性がなるものではないんですか?!」とか「え、欧米の男性って、そんなに足が弱いんですか?!」と思われる方もいるかもしれない。だが、構造的には日本人の男性と欧米の男性の足に著しい違いがあるわけではないし、強度に大きな開きがあるわけでもない。欧米の男性に日本人の男性より足の変形が多いのは、身体構造上の違いではなく、生活習慣の違いによるところが大きい。かといって「欧米の男性はハイヒールを履いている」ということではない。性別によらず、彼らは靴を履いている時間が日本人よりとても長いのだ。
 日本の一般的な生活習慣では、家に帰ってくると靴を脱いで室内にあがる。この「あがる」という動作や生活空間に対する意識が欧米の生活習慣にはない。家の中に「はいる」とはいうが、わざわざ靴を脱ぐためのスペースや段差も欧米の住宅にはない事が多い。だから「あがる」という動作はないのである。生活空間に対する意識と動作については、いつかまとめて書きたいところだが、ここでは割愛する。
 欧米では就寝時とシャワーを浴びるとき以外、靴を履いたままで暮らすことも少なくない。室内では室内用の靴に履き替える人もいるが、外と同じ靴をはき続ける人もいる。日本的な感覚では「ずっと靴を履いたままなんて、しんどそう」と思ってしまうのだが、彼らに言わせれば、靴は基本的に「人前で脱ぐ」ものではないらしいのだ。個人差はあると思うが、人前で「靴を脱ぐ」ことは「下着姿になる」くらいの行為と認識される場合もある。私がアメリカに住んでいたときに、電話の修理にきた人と「靴」の問題で押し問答になった事があったが(私はアメリカでも「日本流」に暮らしていたので、私のアパート内は土足厳禁にしていたのだ)、相手にしてみれば、私の言うことの方がクレイジーだったのだろう。
 ともあれ、日本では室内に「あがる」と多くの人が靴を脱いで靴下だけになるか、裸足になるか、スリッパに履き替えるかする。それは靴を履いている状況と肉体的にどう違うのかというと「基本的に自前で自分の肉体を支えなくてはならない」ということなのである。靴のソールで助けてもらっていた衝撃の吸収や、多少立ち方やバランスが悪くても靴の側面(アッパー)に寄りかかれば支持できていた姿勢を、自らの骨格と筋肉の連動のみで行わなくてはならないのである。
 そのように書くとなんだか自己負担が大きくて大変そうだが、そうともいえない。足は靴に守られているともいえるが、阻まれているともいえるのである。靴に守られているから、どんな立ち方や歩き方をしてしまっても何とか立ててしまえることが多い。本来動くはずの関節や筋肉の連動が絶たれて体内での衝撃吸収が上手くいかず、特定の部位に異常や変形を招きそうになっていても、にわかには不都合や異変を感じないで済む。

 この「感じないで済む」ことを「守られている」と解釈するか「阻まれている」と解釈するかは、小さくないカルチャー・ギャップかもしれない。それは「靴を履く文化」「靴を脱ぐ文化」の問題というよりも、「生き方」とか「考え方」という名の「文化」の問題かと思う。

 例えば、靴によって足が痛むならもっとよい靴をゲットすればいい、というのも一つの考え方だし、これまでの靴との付き合い方を見直してみれば同じ靴でももっとうまく歩けるかも、と考えてみるのも一つかと思う。そしてそれらの考えは別に対立関係にあるわけではないし、二者択一でなければならないことでもない。本当はコラボすべきことなのだと思う。どちらをどのくらいの割合で取り入れるかは個人差があるだろうが、どちらかだけでは物事はちゃんとみえてこないし、うまく進めないような気がする。でもこの手の話はなぜか二者択一や優劣の話にすりかえられてしまうことがあるので注意が必要なのだ。

 身体構造的には大きな違いはないが、習慣などのカラダの使い方によって結果的に身体的な違いを生み出すことがある一方で、構造的・物理的な違いによって同じ使い方をしても同じにはできないこともある。
 例えば、一般的に欧米人の胸郭の方が日本人のものより厚みがある。それゆえに、同じ姿勢をとっても欧米人の方が猫背に見えやすいということがある。ある欧米人のピアニストに憧れていたクライアントさんが「ああいう姿勢(猫背)にしないと、力強い音は出ないのでしょうか。真似をしようとしても手がつりそうになって……」と真剣に悩んでいたことがあったが、そのピアニストのとっている姿勢は彼女の思う「ああいう姿勢」ではなく、そのピアニストに合った「まっすぐな姿勢」をとっているだけだったのだ。でも、標準的な日本人の体型を見慣れている眼にはそうは映らないことがある。「まっすぐな姿勢」が本来内的なバランスによって成立する機能的なものであることは誰しもに共通しているが、外見は同じとは限らないのだ。
 座っている姿勢だけでなく、寝姿勢にも胸郭の違いは反映される。外国のホテルに泊まると大きめの枕がたくさん置かれていることがあるかと思う。日本人にとっては使い道がよくわからないあの枕たちも、欧米人にとってはれっきとした実用品なのだ。胸郭に厚みのある彼らがベッドにそのまま寝転ぶと、頭が大きく後に倒れてしまうような格好になる。彼らにとってあのたくさんの枕はお飾りではなく、就寝中の姿勢や呼吸をサポートするために欠かせない道具なのである。しかし多くの場合、日本人にはあんなにたくさんの枕は必要ない。もしも同じように枕を使用してしまったら、恐らく喉を詰めてしまうような格好になってしまい、姿勢も呼吸も逆に苦しいものになってしまうだろう。
 ただし体格は「人種が同じなら皆同じ」というほど大雑把なものではなく、最終的には個人的なものであることを忘れてはならない。私のところに来ている日本人のクライアントの中に、「自分は猫背だ」と思い込んでいて、小さい頃から周囲にも「猫背」と言われ続けていたのだが、実は胸郭の形が「欧米人的」であっただけ、という方もいる。持ち前の体格に加えて、その使われ方によってもカラダの形や連動性は変化していく。だから本当は誰一人として同じカラダを持った人などいないのである。

 もはや言うまでもないと思うが、海外に行かずとも「カルチャー・ショック」は発生する。海外での経験なら「言葉がわからないから、理解できないのだ」などと簡単に理由付けしてしまえたりもするが、実は国内でだって「言葉は通じているのに意味が通じていない」ことなんて山ほどある。でも下手に言葉が通じてしまうから、そのことに気がつかずにいられたり、気がつかないふりができたりするだけなのかもしれない。「カルチャー・ギャップ」に遭遇したときに、そこで最初に問うべきなのは、なぜ相手が自分と同じでないのか、ということよりも、なぜ自分はこれを「あたりまえ」にしているのか、ということのような気がする。それが一番知って驚く謎のような気がするから。

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