Web草思
身になるカラダ・身につくカラダ 芳野香
第4回 「感覚」の感触
そこで「カラダ」と見做されていたもの

 10年近く前のことになるが、いきなり見知らぬ心理カウンセラーからけんかをふっかけられたことがある。私がある場所でワークショップを行っていたときに、偶然、有名な精神科医のK氏が引率する心理学関係者のグループが立ち寄られたことがあった。ちょうど私も休憩時間であったので、共通に知り合いである人に引き合わされてごく普通にK氏と挨拶をしていたときだった。突然「私は、カラダなんか、嫌いです」とグループの中の一人が突っかかってきたのだ。
 それは「けんか」と言うより、関西で言うところの「いちゃもん」に近いと言ったほうがよいかもしれない。コンタクトの仕方が「けんか」というかたちである必然性はともかくとして、これも「何らかのかたちで相手とコミュニケートしたい」「相手にわかってもらいたい」という意思の表れであるとするならば、一応、言うだけではなく聞く姿勢というものがあってしかるべきだろうが、彼の行為は「一方的な演説」に近いものであった。
 彼の「演説」は少しの間続いたが、周囲の人間にあいまいにとりなされて去っていった。後からスタッフに「あの人、何だったのでしょう」「怖かったですね」などと声をかけられたが、私が感じた感じは「怖い」というよりは、どちらかというと「不気味」とか「不可解」と表現したほうが正確かと思う。「怖さ」を感じるには、あまりにも曖昧で、隔てられた感じ。

 物理的に彼の目の前に居たのは確かに私なのだが、彼は「私に」何かを言いたかったのではなかったと思う。ただ、彼の中では、私が「カラダのこと」を仕事にしている人間であることが自動的に「敵」と見做される理由になり、彼が嫌悪している何かの身代わりに攻撃してよいと判断されたに過ぎないのだろう。「カラダ」の同類(?)と見做された私自身は、彼が何を「カラダ」と見做しているのかがわからなかったし、今もよくはわからない。
 私の中の不可解さを払拭すべく、彼が「カラダ」とアイデンティファイしているものは何なのか、彼と「カラダ」の間に何があったのか、そんなあなたに「カラダ」はないのか、聞いてみたかった気もするが、聞く機会があっても何かがわかるわけではなかったかもしれない、とも思う。おそらく本人にもよくわかっていないと思うから。

 でも、だからこそ思う。人は何をみて、それを何と思って生きているのだろう。それは物質として存在するモノの数よりも、はるかに多くの「現実」を生んでいるように思うからだ。

その「感じ」のアイデンティティー

 今年は暖冬だった。過ごしやすい冬になると思いきや、時折帰ってくる「平年並み」の寒さが妙にこたえて、体調を崩した方も少なくないかもしれない。最近では平年のこの時期以上に寒い日もあったりして、なんだか驚いてしまう。そうこうしているうちに花粉症の季節。粘膜がデリケートな人にはつらい季節である。
 私のところにレッスンに来るクライアントさんの中にも、繰り返し風邪をひいてしまい、鼻の粘膜に炎症をおこして匂いが感じられなくなってしまったという人がいた。「ものの味がしないんです」とその人は意外そうに言った。「匂いが感じられなくなると、どうして味までしなくなるんでしょう。味覚と嗅覚って、違うものですよね」と。

 確かに味覚と嗅覚は同じ感覚ではない。匂いや味のもとになる物質を感知する「受容器」も異なる。鼻では味を感じることはできないし、口で匂いを感じることもできない。
 しかし私たちが普段「味覚」と呼び習わしているもの、「味わい」と感じている「感じ」は、舌と口の奥にある受容体(味細胞)やそれの集合体である味蕾によってだけ感受している「感じ」ではない。その「感じ」の中核になっているのは確かに味覚なのだが、味覚だけでは「味覚」は成立しないのだ。「味覚」は、実は味覚、嗅覚、触覚の連携プレイによって感じられている複合的で総合的な「感じ」なのである。

 例えば、「味覚」における触覚。物質的には同じ葱や胡瓜でも、切り方によって歯ざわりや舌触りなどの食感(触感)が変わり、それによって感じられる「おいしさ」が変化することは皆さんも経験があると思う。食感は味覚そのものではないが、味覚の世界を構成する要素として大きい。温度もまた重要である。アイスクリームやてんぷらなどはその代表だろうが、提供されるときの温度や湿度が違うと、成分に変化はなくても感じられる味は変化する。食物そのものではないが、口腔内や唇に触れる食器の感触も「味覚」の世界を左右する。同じ料理もプラスティックのフォークで食べるか、木製の箸を使うのか、銀のカトラリーを使うかでは料理の味わいが変わる。直接口に触れる部分だけではなく、手の中のスプーンの心地よい重さや触れ心地、食器の肌合いも料理の味の一部になると言っても過言ではないだろう。滑らかさや重みを感じる感覚も、触覚という感覚の一部である。
 生理学的には味覚と嗅覚の関わりは触覚よりも深く、それゆえに嗅覚を失うことで味覚を失うというのは、症例としては稀なことではない。味覚と嗅覚に共通しているのは、ともにそれぞれの感受細胞で特定の物質の存在を感知することである。鼻腔と口腔は体内でつながってもいるので連係プレイも速やかではあるが、役割は違うし、働き方も違う。嗅覚は空気中の化学物質の存在を感知し、味覚は水分中にある物質の存在に反応する。つまり匂いは空気中への蒸散が始まってからようやく感じられ、味の場合はものが口の中で溶け始めてから感じられる。だから「味を感じる」というのは、ものを口に入れさえすればすぐさま感じられるというほど自動的ではない。カチコチに凍らした食べ物を口にしたり、とても寒いところでものを食べても、即座には匂いも味も感じられないことがある。匂いや味の素となる物質が空気中や水中に拡散するのに時間がかかるからである。ぱさぱさしたものを口にしたり、鼻腔内や口腔内が極度に乾燥した状態でものを口にしても、最初に感じられる「味覚」は嗅覚や味覚によってもたらされるものではなく、触覚によってもたらされた感覚であることが多い。

 味覚・嗅覚・触覚がそれぞれどのような割合で「味覚」の世界を構成しているかは、個人によって異なるかと思う。しかしそれらの感覚がお互い関係を持たずにその感覚世界を構築している人もおそらくいないだろう。
 このクライアントさんに限らず、そして「味覚」の問題に限ったことではなく、自分の感じる「この感じ」が何によって構成されている感覚かなんて、考えてみる機会は意外とないのかもしれない。「考えてみたことのないこと」は、その個人の世界では「存在しないこと」に等しい。ひょっとしたら今回このクライアントさんは、起こっている事実以上に「味がしない」感覚を感じてしまったのかもしれない。感じた「味のしなさ」は、嗅覚以外の味覚と触覚から感じ取れる感じを感知していたというよりも、「こうであるはずの世界」が「そうとは感じられない」という欠落感をクローズアップしている感覚、感覚の恒常性が崩れるというクライシスを感じている「感じ」を拾ってしまったものかもしれないからだ。

見做すことでみえなくなっているもの、見做すことをやめるとみえてくるもの

 このクライアントさんの場合、鼻腔内に生じた炎症によって「そう望んだわけではないのに」一時的に嗅覚を失い、それによって味覚までもうまく働かなくなったことに戸惑ったのであるが、この関係性を自ら「望んで」利用している場合もある。例えば、嫌いな食べ物をどうしても食べなくてはならないときに、鼻をつまんだり息を止めたりして食べることはないだろうか。理由はわからずにやっていた人もいるかもしれない。わからなくてもできることだが、わかってやった方がなんだか気分もすっきりするし、ずっと「わたしらしい」行為になるのではないかと思う。
 ふと、この「わかる」とか「感じる」ということをしているのは、カラダなのかココロなのか、というイジワルな質問がアタマをよぎる。そう問いかけておいてこう解くのもなんなのだが、私は個人的にはどっちでもよいと思っている。どちらかでなくてはならないとは思っていない。ただ、同じ「わかる」でも「腑に落ちる」とか「頭ではわかる」などの異なった表現が存在するのをみるにつけ、「わかる」ことに動員したり連携させたりしている、「わたし」の構成パーツの数や割合が違うんだろうな、と思ったりはする。ちょうど「味覚」ひとつとっても単一の感覚入力で成立している「感じ」ではないように。その「感じ」の構成要素を何と名付けようと、カラダと見做そうとも、ココロと見做そうとも、あるいはそれ以外と見做そうとも、それは本質的な問題ではない。

 自分が「望んで(わかって)」それをしているときと「望まずに(わからずに)」そうなってしまっているのとでは、同じ出来事でも受け止め方はまったく違う。わからなくてもできてしまうことはいろいろあるが、わかった上でできるのとは随分違うことだったりする。
 日常生活の中には、こうした「感覚」のアイデンティティーを揺さぶる出来事が常に存在している。例えば、もう一段あると思って踏み出した階段がなかったとき、鏡やショーウィンドウに映った自分の思わぬ姿を目撃したときや、しているつもりのないしぐさや癖を他人から指摘されたとき、自分の思っていることとやっていることが食い違っていることに気がついたとき……。しかしそれらは「たいしたことはない」と言えば、たいしたことではない。いずれも「気のせい」「考えすぎ」「何かの間違い」と思おうと思えば思える。
 でも、そうしてまで守ろうとしている自分の恒常性とは何なのか、考えて見ればあんまりわかっていなかったりする。むしろ、つい反射的に守りに入ってしまうことが自分の恒常性を理解するチャンスを奪っていることすらある。その世界観を変えるには「たいしたことはないとは言えない」状態になるのを待たざるを得ないという選択を、知らず知らずのうちにしてしまっていたりする。
 でも本当は、破綻を待たなくても変えるチャンスはあると私は思う。そこに「見えるはずのもの」ではなく「みえているもの」を見る勇気さえあれば。「気のせい」かもしれないことに少しだけ「気」を向けてみる体力さえ捻出できれば。日常の中でクライシスに接したときに、隠蔽したり破綻を待つことのほかに、何か自分で自分にしてあげられることがあるとすれば、それが「学ぶ」とか「知る」とかいうことなのかもしれない、と私は思う。

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