「それ」は本当に「これ」なのか
ところで「アタマの中のカラダ」はどのようにして、いつ、できあがるものなのだろうか。
自分の身体の「どこをそれと思っているのか」「どうしてそこをそれと思うようになったのか」はその個人が「そこ」を「それ」と認識するきっかけになる経験に因る。肉体そのものは物理的にそこにあるものだし、「『そこ』が『それ』であることなんて、当たり前じゃん」と思ってしまうかもしれないが、「そこ」を「それ」と見なす認識は世界のはじめから決まっていることなどではなく、意外と個人的で限定的な世界観なのである。ただ、それを確かめる機会があんまりないので、自分にも他人にも知られないだけなのである。
例えば、こんなことがあった。以前「肩をあげる」という言葉が示す動作について、レッスンを受けに来たある武術道場の兄弟弟子たちがもめたことがあったのだ。「せーの」でそれぞれ「肩をあげる」という言葉から思い浮かぶ動作をしてもらったのだが、兄弟子はちょうど肩をすくめるように、肩甲骨や鎖骨を斜めの角度にするような肩の上げ方をし、弟弟子のほうは腕を横に広げて円を描くようにして上げていき、腕から肩甲骨に働きかけて肩を上げるような動作をしたのだ。どちらも立派に「肩をあげる」動作なのだが、兄弟子のほうは自分が思う以外の「肩の上げ方」が存在することがよっぽど意外だったようで、しかも目をかけている弟弟子が自分とは違う認識を持っていたのが心外だったのか、「おまえー、そんなことを思っていたのか!」と弟弟子を責めだしたのだった。
一口に「肩」といっても、それが指す部位は様々だ。「肩関節」としての「肩」は上腕骨と肩甲骨の出会う場所を指す。胸元から外側(腕)に向かって指で鎖骨をたどっていくと、途中でくぼんでいるところがあると思う。ちょうど、ショルダーバッグのストラップなどをかけるあたりだが、これはまだ鎖骨の一部であって、肩関節ではない。さらにもう少しだけたどっていくと、このくぼみの向こうのまるいふくらみの端っこに骨の手触りを感じるかと思う(体型や体勢によっては見つけにくいのだが、誰かに触ってもらうのもよいかもしれない)。この後方に少し出っ張った骨があると思うのだが、それが肩甲骨の端である。ここを触れながらゆっくり腕を動かしてみると、どのあたりが肩関節なのか少し見当がついてくるかと思う。
兄弟弟子の二人ともが共通して「肩をあげる」際に「あげよう」としたのは、肩甲骨や鎖骨の長さが描き出す肩、いわゆる「肩幅」などというときの、首から腕の付け根にかけてのエリアである。これは「肩関節」とも無関係ではないが、部位としては異なる「肩」である。そして二人の「肩の上げ方」のどちらも「肩をあげる」と表現しうる上げ方であった。違っていたのは、「肩をあげる」ために使った関節のコンビネーションとその動きを行うために必要と思っていた力加減であった。
肩関節は肩甲骨と上腕骨による関節構造だが、この近辺には鎖骨と胸骨(胸の真ん中の骨)で構成される胸鎖関節と、鎖骨と肩甲骨の間の肩鎖関節がある。ちなみに肩甲骨は、上腕骨との間に関節構造を持っているものの、鎖骨との間にも、また肋骨とも脊柱とも関節構造を持っておらず、背中側の肋骨の外側に浮いている存在である。なんだかバケツ・リレーみたいな話になるが、こんなふうに肩という限定されたエリア内でもどこで生まれた動きがどちら方向に伝わるのか、ランダムな団子状態にならないように上手に仕分けられているのだ。当然だが、つながっていない骨格と骨格の間には本来関節で生まれるような動きは出来ないはずである。しかしながら思い込みとは恐ろしいもので、物理的には関節構造がない部分でも、思い込めば筋力でフォローして何とかそれらしい動きを成立させてしまうことも出来たりするのだ。
兄弟子が行った動かし方では、主に胸鎖関節を使う結果にはなっていたものの、文字通り「肩をすくめる」ように僧帽筋を収縮させる筋力に頼って動いていた。弟弟子の方は、肩関節から胸鎖関節に働きかけるような動作を採用していたのだが、肩関節の位置を誤解していてやはり僧帽筋を過剰に収縮させる結果に陥っていた。つまり関節で行える動きのほとんどを筋力でフォローしていたのだ。しかし正確な肩関節の位置を知り、鎖骨の長さを意識し、胸骨との接点を中心としながらコンパスで円を描くように「肩をあげ」てみると動作のクオリティが変わるのがわかったようだ。
兄弟弟子の例でいえば、最初兄弟子から弟弟子に向けられた怒りは「肩をあげる」という動作について弟弟子が提示した多様性が「間違い」「裏切り」「混乱」のように思えたからであったと思う。一つのことにいそしんでいると、そのあまりに「それ以外のあり方」が「間違い」のように見えることがあるかもしれない。多様性はただの混乱のように感じられ、「正しいこと」をたった一つに絞り込んで絶対化したくなってしまうのも無理からぬことかもしれないと思う。しかし本質的には「多様性」と「混乱」は違うし、「違い」と「間違い」は似て非なるものだ。どの「肩の上げ方」も間違いではなかったように。
しかし一方で、「結果的に出来てさえいれば、間違っていない」ともいえない。肩関節の位置なんて正しく知らなくても、全く腕や肩が動かせないわけではない。しかしクオリティは変わってくるし、武術であれば、当然技の切れが違ってくる。肩の使い方の誤差が導く怪我へのリスクも変わってくる。
私はカルト的に「正しい使い方しかするな」というつもりはない。ただ、時には自分の「常識」を疑ってみること、例えば「その肩はどの部分を指していて、今はどこの出番なのだろう?」と問える姿勢が持てるかどうかが、本当に知りたい何かへ近づくためには重要なのではないかと思うのである。
股って割れる? 胸って開けられる?──「そう見える」ことの功罪
驚異的なことはそれだけで魅力的なことなのかもしれない。去年はトリノ・オリンピックがあり「イナバウアー」が流行語にもなったが、言葉が流行しただけではなく、なぜか「イナバウアー」がやってみたくなった人も少なくなかったのではないかと思う。そういえば「イナバウアー」に負けず劣らず有名なフィギュア・スケートの技で「ビールマン・スピン」というのがあるが、この技が最初にお披露目されたとき、あまりに驚異的なポーズに見えたためなのか「腰の骨をはずしているんじゃないか」などと囁かれたという。
もしも本当に「腰の骨」(腰椎なり、骨盤なり)をはずさないとこの技が出来ないのだとすれば、スケート選手は確実に死んでいる。椎間板がちょっとずれてヘルニアになり、周囲の組織に圧迫をかけるだけでも相当痛いのに、「腰の骨がはずれた」となれば脊柱の中を通っている中枢神経や血管はちぎれ、スピンどころか立っていることも出来ない状態になってしまうだろう。
冷静に考えればかなりのバイオレンスなのに、「腰の骨がはずれる」という表現が妙な説得力を持ち、聞く者につかの間の納得感をもたらすのはなぜなのだろう。「そのくらいの驚きを感じるポーズだ」という、インパクトの強さを表したところがその言葉が意味する内容を凌駕して納得を生むのかもしれない。あるいは「このような華麗なポーズを行うにはそれに見合う犠牲(?)がつきもの」と思ってしまうのかもしれない。
見る者がそのような印象を抱くだけではなく、実際に技を行う体操やフィギュア・スケートの選手や指導者の中でも同様の認識がもたれていることは少なくない。こうした大技の練習中にからだに痛みを覚えても「そういうものだ」「先輩も痛みを経てうまくなったといっていた」といった認識が常識化していて、「どう見えるか」ほどには「どう動いているのか」を考えることがなかったりする。
また「腰」の部分に目を引くカーブラインが生まれることから「腰を大きく曲げている」、つまり「変化が認められる場所で変化を生じさせる作業が行われている」という印象を受けやすいのかもしれない。それらのことから、「腰(の骨)」という「特定箇所だけで通常考えられないほどの大きな動きが果たされている」ようなイメージを持ちやすいのであろう。
でも果たしてどうなのだろうか。本当に「ビールマン・スピン」は「腰の骨をはずす」と見えるほどに「腰の部分だけを」曲げて行うものなのだろうか。
「ビールマン」や「イナバウアー」に近い動作を指導した経験からいうと、私の回答は「NO」である。確かにこれらのポーズは腰の骨を含む脊柱の関節を使う動作である。ただし「腰の骨(腰椎、ウェストのあたり)だけを曲げる」と考えるとちょっと大変なことになる。本当に「腰の骨がはずれる」ことが起こらないまでも、腰周辺に故障を起こす可能性は高い。
ダイナミズムと大雑把さは似て非なるものだ。見た目の印象とは異なり、ウェスト周辺には単独で大きく動ける関節は存在しない。実際のこのような動きは、細やかな関節の連動と力みのない筋肉の働きによってのみ安全に成立させることができる、実に繊細で複合的な動作である。「できない」という人はたいてい、見た目の印象どおり、ウェストのあたりからお腹を突き出すような感じで胴体を反らし始めることが多いが、こうしてしまうと首や肩の辺りにつまりを感じ(感じるだけではなくて、実際に首がすくんでいる結果になっていることも多い)、呼吸も止まってしまう。動きにくいところを無理やり曲げてしまうことによって、本来緩やかに伸びるべき筋肉の働きはその体勢を維持するために使われてこわばり、そこから先の関節の連動を止めてしまうからだ。
「ビールマン」にしろ「イナバウアー」にしろ、安全に効果的に後ろにからだを反らすには、胴体の両端である首と腰の両方からほぼ同時に角度を変え始めることをお勧めする。ちょうど、竹ひごをしならせてU字型にするのに、まんなかを押し上げて作るのではなく、両端からゆっくりとしなりを伝えて動かしていくのに似ているかと思う。また腕や脚に過剰な力が入っていないかどうかも、脊柱でクリエイトできる柔軟性の明暗を分ける。しなるように角度を変えるのは脊柱の役割なのだが、「後ろに反らす」ことを意識するあまりに「関節でからだの角度を変える」というよりも「後方にからだを押す」ような動き方をしてしまって、胸やお腹に過剰なつっぱり感が生じて呼吸が止まっている場合も少なくないので注意が必要だ。
これをみて、これら大技をやってみたくなった方もいらっしゃるかもしれないが、いきなりはおやめください。「ビールマン」や「イナバウアー」ではなくても、ラジオ体操にも出てくる「立位で体を後ろに反らす」動作や、床に腹ばいになって上体を起こす「上体伏臥反らし」など、類似性のある動作はたくさんあるので、試したい場合はまずは自分にとって身近な動作から試してみていただきたい。そのほうがきっと自分にとって生きた「使い方」になると思う。
もしもこうした動きを言葉のイメージに忠実にやりすぎてしまったとしたら、挑戦した回数に負けないくらい挫折が生まれてしまっているかもしれない。しかしそれは「からだ」のせいではない。けして「関節が硬い」とか「からだが硬い」せいではない。そんなの、冤罪である。かわいそうな関節。かわいそうな身体。
時には「頭の中のそれ」と「今ここに在るこれ」とがどうつながっているのかを確かめながら動いてみるのも悪くないと思う。それはきっとあなたのからだを「冤罪」から救う。
次回更新予定日 3月29日
