Web草思
身になるカラダ・身につくカラダ 芳野香
第2回 受難の「関節」(1)
設計図の「元ネタ」

 人間の筋肉や骨格を示した解剖図を見ながら考えることがある。もしも神様が(「神様」と申し上げていいのかよくわからないが、とりあえず)「自分の好きなように自分のカラダを設計していいよ」と許可してくれたとしたら、自分はどういうカラダを設計するだろうか、と。
 実際に自分のワークショップの中でそのようなことを参加者に問いかけることもある。最初は「自分で自分のカラダが設計できたら、今よりずっと自由に動けるカッコいい身体になれる」と思われる参加者も少なくないようだが、コトを具体的に考え始めると、そう単純でもないことがわかってくる。
 もしもお手元に骨格模型や筋肉図があったなら、改めて見てみていただきたい。自分の好きなように自分で自分の身体を作れるとしたら、こういうカラダを設計するだろうか。こんなところにこんなカタチの骨を作るだろうか、こんな方向にこんな長さの筋肉を配備するだろうか。多分、しない。というか、こんなカタチ、私は思いつけない。
 自分で自分の手足や胴体を設計したとしたら、多分もっと簡単な(!?)カラダを設計してしまうような気がする。見かけにかまけて(あるいは表面以外のところは見えないので)構造とか機能との関係を無視しちゃうような、何だか失敗した住宅設計みたいな話になってしまいそうな気がする。背骨にこんな複雑なカーブを持たせることは思いつかないだろうし、こんな細やかな骨の集合体にすることの意味もにわかには思いつけないだろう。股関節と脊柱の間の距離をこんなにはとらないような気がするし、肋骨をこんなところにこんなカタチで作るかどうかもわからない。
 そうすると内臓は今ある位置には入らない(入れられない)し、血管とかリンパ管とか(だいたいそのような異なった液体を流す管を数種類も体の中に作ろうと思いつくかどうかもアヤシイ)どうなっちゃうかもわからない。そんなカラダでは多分地球の重力にはなじみきれないだろうし、大気とか、他の生物(食物ね)を自分の体内で自分の細胞に変えていく作業も難しそうだ。ひょっとしたら現存の人間よりずっとすごい人体構造設計がありうるのかもしれないけれど、思いつけないんだから仕方がない。簡単な思いつきで作られたカラダは多分、すぐにぶっ壊れてしまうであろう。短い一生でした。合掌。
 幸か不幸か私たちは私たちの身体を自ら設計して生まれてくることはできない。だから前記のような自らの設計ミスによる自滅を心配する必要はない。でも、だからこそ、自らのものでありながら私たちはそれが何なのか知らないまま人生をスタートせねばならず、何らかのかたちでそれを経験することでしか知ることができない。そうして知りえた何らかのイメージに基づいてわたしたちはカラダを動かしている。そういう意味では「自分のカラダを自分の思うように設計する」という話はまったくバーチャルなお話というわけでもない。
 ただ、「思うように」の「思い」の元となるものが、どのようにして成立しているかがけっこう問題なのである。最初から「わかっているものではないもの」を経験によって知っていくのだから、わかっていく過程での誤解や妄想はご愛嬌ではあるが、それが「スリルとサスペンス」どころか「ホラーとバイオレンス」ないし「SM」に偏りかねないのが身体認識のオソロシイところなのである。

「身体」=「痛み」?

 「関節を使うと傷めるから使わないほうがよいのかと思っていました」
 これは実際にクライアントが言った言葉である。念のために断っておくが、いたってまじめに言った言葉で、けしてふざけたりウケを狙ったりしたものではない。「椎間板を使うと椎間板ヘルニアになると思っていた」と言ったクライアントもいた。
 ではそれ以外のどこを使うとよいと思っていたの?とか、「使わない」ことが「傷めない(痛めない)使い方」だと思っていた(某フレークを開発したケロッグ博士という人もそういう考え方だったらしいが)のだとしたら、関節や椎間板は何に使うところだと思っていたの?と改めて突っ込むと「変ですよねぇ」「考えたことがなかった」とクライアント自身も言う。でも改めて考えてみるまでそれは本人の中で「隠された常識」として君臨し続けてしまう認識でもある。けっこう影響力はあるのに実体は知らない、という意味ではまるでオカルトである。でも「からだ」のことに限らず、「ジョーシキ」と呼ばれるものの中にはこういうノリのものは少なくないような気がする。
 だが、オカルト&ホラーになりやすい理由もわからないではない。「関節」も「椎間板」も、それ自体は別に「病名」ではないのだが、その名称や箇所を意識するきっかけになるのは「関節炎」とか「椎間板ヘルニア」などの症状や病名を通してであることが多い。つまりそれらを意識せざるを得ないシチュエーション自体が「異常」な時間であって、日常ではないのだ。そうした最初の不幸な出会いがトラウマとなるのか、それとも第一印象を覆す経験がその後ないのか、「そこ」に関する関心やイメージは「痛み」や「けが」と結びついてしか浮かび上がらないことが多く、挙句「痛み」を通してしか身体を感覚できないというややこしいことになってしまったりもする。
 それにしても、「からだ」に関するイメージはどうしてこうもハード路線なのだろう。子供の頃、映画やドラマの拷問(!?)シーンでワルモノが「お前が白状しないならからだに聞いてやる」みたいなことを言うのを不思議な気持ちで見ていた記憶があるのだが(子供心に「このワルモノは結局誰に聞いているんだ?」と思っていた)、なぜ「わたし」は「からだ」とは分離した存在として表現されるのだろうか。同じひとつの出来事に接していても「わたし」と「からだ」の反応や行動は違う(と、少なくともワルモノからは思われている)のは「当然のこと」なのだろうか。「からだ」は「わたし」に苦痛と限界をもたらす装置的なものでしかないのだろうか。
 しかしワルモノほど悪くなくても、私たちも気がつけばワルモノ的なセリフを自分自身に吐くことがあるような気がするし、ゴーモンに近いことも意外と平気でやってしまっているような気がする。「関節が硬い」とか「身体が硬い」という悩みで私のところにいらっしゃるクライアントも少なくないが「どのような動きをしたときにそれを感じるのか」と聞き、実際にやってみてもらうと大抵「それは動かんやろ」というやり方を採用してしまっていたりする(これの具体例については、次回書きます)。それに気がつかず、できないのは「やる気」と「回数」の量的な問題だけだと思い込んで、無理と努力をはき違え続けるのがゴーモンでなくてなんだろうか。
 本当に身についた動きはバイオレンスからは程遠い質感のものだ。ちょうど「美味しい料理」がけしてくどい味やしつこい味ではないように。でも、感じていることを感じたくなると(というよりも、これで本当に感じられているのか不安になると)くどくしてしまったりするんだよね。ココロの脅迫に負けちゃうんだよね。でもくどさでは美味しさは生まれない。「痛み」や「違和感」以外の感覚で身体とアクセスするコードを持たないと、たぶんカラダとは仲良くなれない。たとえ機能的に不足や故障がなくても、ずっと不満で不自由にしか感じられないだろう。

「関節」ってほんとはどこにある?

 「関節」は、「骨連結」と呼ばれる骨と骨との連結の仕方、あるいは連結箇所を指す言葉である。私たちが一般的に「関節」と呼んでいる肩や膝や手首や肘の関節は「滑膜性連結」と呼ばれる骨のつながり方で、目に見えて「動いている」ことがわかる可動域の大きい箇所がそう呼ばれる。向かい合っている骨の形が凸と凹になっているのが特徴的だ。ちなみに骨連結にはあと二種類「軟骨性連結」と「繊維性連結」というのがあり、椎間板もこれらの「骨連結」を支える仲間なのだが、詳しくは次回に書く。
 余談だが、よく漫画やアニメで犬が咥えている骨付き肉の骨の部分が両側とも同じカタチ(両側とも「ハート形のとんがっていない方」のような)になっていたりするが、このような骨格はアニメの中にしか存在しない。例えば大腿骨は、いわゆるふとももにある骨で1本の骨としては人体の中で最も大きいのだが、この骨は二つの関節に関係する骨格である。骨の一方が股関節でもう一方が膝関節になるのだが、それぞれの先端は違う形をしている。股関節側が球状の凸で、膝関節側がうっすらしたハート形の尖っていない方的な凸だ。漫画やアニメに出てきた犬が具体的に何肉のどの部分を咥えていたのかはわからないが(大きさから考えて豚か大きめの鳥、あるいは小牛か子羊の腿肉か?)、でも動物達もそういう形の骨格は持っていないのである。作者がどうしてああいうカタチの骨付き肉を書いたのか、また見る我々もどうして即座に「骨付き肉」と疑わずに理解することが出来るのか、不思議といえば不思議である。
 ともあれもしもアニメの骨みたいなカタチに自分の骨をイメージして骨をつないだら、動けなくなってしまうか、すごくバランスが悪くなって立てなくなってしまうかもしれないので、注意(?)していただきたい。
 向かい合った骨の先端は、ずれたり外れないように関節包と呼ばれる組織で、文字通り包まれるようにつながれている。自分の腕や指のあたりを見ながら触ってみてもらうと、1本の骨はずっと同じ太さではなく、関節構造を形作るあたりではぐっと幅が大きくなって、まあるく膨らんでいるのがわかるだろう。このまあるく膨らんだ部分の内部で向かい合った骨格同士が角度を変えることを「関節を曲げる」とか「伸ばす」と表現する。
 ところで「膝関節ってどこにあるでしょう」と質問すると、ちょうどまあるく膨らんだ部分の上くらいの場所、大腿部の端(下の方)あたりを指す人が多い。「膝に手を置く」などというときの膝はここより高い位置を指したりもするので、当たらずとも遠からず、惜しい感じなのだが、残念ながらそこはまだ大腿骨なのである。もしもそこを関節だと思って屈伸を続けていると、単純に動きにくいし、周囲の筋肉にも負担をかける。よく「膝がよく曲がらないのです。歳のせいでしょうか」とおっしゃる方がいるが、無理な使い方の結果に気がついたのが今の年齢というだけで、けしてカラダの加齢が原因ではない。原因はむしろ「アタマの中のカラダ」にあるのである。

草思社