Web草思
身になるカラダ・身につくカラダ 芳野香
第1回 「姿勢」ってなに?
身体は本当に最初から「自分のもの」でありえるか

 「身につく」「体の一部になる」という言葉がある。もともとは「自分のもの」ではなかったものが自分自身と不可分なほどに「自分のもの」になることをあらわす言葉である。「もの」といってもそれは物体ではない。だから肉眼で確認できるのはあくまでその人の身体のみである。でも何かが「身についている」人の振る舞いや動作はそれが身についていない人の「身」とは明らかに違う。物質的には自分にも他人にもある同じ手なのに、足なのに、違う、と感じた経験をきっとあなたもお持ちではないかと思う。
 もともと自分の身体ではなかった何かが自分の身体に「なる」ことが出来る一方で、今現にここに在る自分の身体なのにそれが「自分のもの」には感じられないことがある。思うように手足が動かないときに「まるで自分の体じゃないみたい」「神経が通っていない」などと表現した経験はないだろうか。それはけして脳や神経の損傷や異常をいうものではないが、そういう異常ではないだけに、なぜこの身が自分の意のままにならないのか余計に混乱させられることかもしれない。
 ちなみに、よく似た言葉だけれども、「身につく」ことと「身につける」こととはちょっと違うと私は思っている。「身につける」だと、例えば衣服やアクセサリーを装着するときにいう「put on」みたいな、皮膚の外側、つまり「自分」というものの境界線ぎりぎり「外」にあるニュアンスがあるように思うのだが、「身につく」は境界線の外側に留まる感覚ではないように思う。アクセサリーだと肉体への臨場感が少ないかもしれないが、例えば「筋肉をつける」と「筋肉がつく」ではなんだかつき方やつけ方が違う感じがしないだろうか。
 意図してput onした筋肉なら、その原因となった行為も筋肉がついていく過程もまだ把握しやすいが、気がついたときにはもうこの身についてしまっている「もの」については「自分のもの(こと)」でありながら全てが謎になりやすい。それゆえに、それが身についてしまうのは自分の意思や努力ではなんともなり難いこと(「体質」や「生まれつきのもの」というような)として片付けられがちである。
 私が日頃行っているアレクサンダー・テクニックのレッスンでお会いする人たち(私は彼らを「クライアント」と呼ぶ)は、多少の差こそあれ、皆「いつの間にか自分の身についている何か」について悩みを抱えている人たちである。身につけようと思ったわけではないのに身についてしまったもの、あるいは何かを身につけようとして努力したのに意図したものとは違うものが身についてしまったことに悩んでいる、といえるだろうか。具体的には、膝や腰などの特定部位に繰り返し痛みを感じるのだが、医療機関で診断を受けても「特に異常はない」といわれてしまっている、とか、ダンスや音楽を習っていて特定の動きがどうしても苦手でうまくできない、逆にやっているつもりのない動きを注意されてどうしたらよいのかわからない、とか、特別なことをしているつもりはないのに慢性的に疲れたり傷めたりする、というようなケースが多いだろうか。
 彼らの多くは最初「自分のからだ」を「被害者」のように思っていると同時に「加害者」とも思っている。自分の肉体が「なにか」によって痛めつけられていることを嘆くと同時に、そのような肉体を所有させられていることを一種の被害であるかのように嘆く。「自分のからだ」のわからなさにいらいらしている。
 しかしそれがまだ自分の「からだ」に対する結論ではないことも、どこかで感じていてくれるからわざわざ私のところまで足を運んでくれているような気がする。彼らが求めているものは身体的な痛みからの解放や問題の解決でもあるが、痛みやトラブルがなくなれば何でもよいのではなく、「自分のからだのわかり方」がわかりたくて来てくれているような気がするのだ。自分では「普通だ」と思って、痛んだり困ったりするまで目をむけた事もなかったような自らの身体認識の中には意外な誤解や矛盾が存在している事が多いのだ。
 これから数回にわたってお話ししたいのは「身体」という名で呼ばれる「ヒトの存在の仕方」についてのお話である。

「姿勢」、このよそよそしきもの

 人はなぜ自らの「姿勢」に怯えるのであろう。「私、姿勢が悪いのです」といって私のところを訪れるクライアントさんは少なくない。皆さん、なんだか悪事を犯しているかのようにしおらしい態度でいらっしゃることが多い(まれに開き直っている方もいるが)。何やらよろしくないと認識した自らの姿勢を望ましい方向に導きたいと望む、それ自体は好もしい姿勢(態度ないし意向)だと私は思うが、この問題に真摯に応えようとするとなかなか簡単にはいかないことが多い。
 多くの人の抱くイメージに反することかもしれないが、もし「悪い姿勢」を本気で変えたいのであれば、「何が正しい姿勢か」「どうすれば正しい姿勢になるか」を知るだけでは本質的な解決にならないことが多い。なぜなら、私の知る限り「悪い姿勢」なるものを身に「つけよう」と思って身につけた方はめったにいないからだ。つまり「悪い」とわかってやったことが「悪い姿勢」を作るのではなく、「悪いとは思っていない」ことが結果的に「悪い姿勢」を成立させているのである。だから目に付く「悪さ」をさしあたり抹殺したところで「よい姿勢」にはならないことが多い。「曲がった背中を伸ばす」「常に姿勢を正す」ような、短絡的かつ強制的な撲滅キャンペーンで姿勢なるものがよくなるのであれば、人はここまで姿勢にまつわるあれこれに、様々な方策を講じて深く関心を持たずに済んだと思う。
 それに「姿勢」の良し悪しの内容は本人にとっては「得体の知れないもの」であることが多い。多くの人が他者から指摘を受けたり、鏡や写真に写った思いもよらぬ自分の格好を目撃したことがきっかけで「姿勢」を問題視するようになるようだが、この場合の「姿勢」とは他者から見た「外見」であり自らの「行為」そのものではない。「姿勢の悪さ」とはただ「見てくれが悪さ」「それゆえに他人の不興を買っているらしい」(例えば先生から「姿勢が悪い」と無条件に叱られたりする経験から。こういう叱り方って、本当に相手の身体を見ていっていることなのか、単にそれを教師への態度だと見なしてのことか、疑問なのだが)と認識しているに過ぎず、自分の身体のことでありながら主体的な問題意識はきわめて薄い。この主体性の希薄さが、自分の問題として姿勢というものを考えようとするときに思わず本人がどきっとしてしまう感じの一因なのかもしれないと思ったりする。まるで自分ではないものを他者や鏡から「あなただよ」と指摘されたかのような戸惑いと、違和感。違和感があるのにきっぱりと「違う」ともいえない心もとなさ。そのような「姿勢」が自分にとってまるで「自分のものじゃない」感じがしても仕方がないかもしれない。そんなリアリティのないものを「正そう」としてもうまくいかないのはむしろ当然かもしれない。

その「姿勢」は自分が「何をしている」ところなのか

 背筋の曲がっているのに気がついて、はっとして慌てて伸ばして、正したつもりになっても結局いつの間にかもとの曲がった姿勢に戻ってしまっていることは少なくないと思う。しかしそのことをして努力が実らないと嘆くには及ばない。「曲がっている」状況がその人の姿勢のスタンダードになるにはそれなりに理由があることが多いのだ。ただ、本人としては「曲げる」こと自体が目的ではなく、別の何かを行うためにこういう格好を取らないと出来ないと思い込んでいることが多い。解決のために本当にすべき努力は「その行為」を「そのからだの使い方」で行う必然性を「そういうものだから」と片付けずに問い直すことである。
 例えばパソコンなどのデスクワークの際に、知らないうちにいわゆる猫背になっているとしよう。しかし本人は「猫背になろう」と思っているわけではなく、単にパソコンの画面に表示されている内容を真剣に読んでいるだけだったり、急ぎの仕事への緊張感で肩に力が入り、そのために脊柱の動きが制限され前を向こうとするとそういう姿勢にならざるを得ない状況に陥っているだけだったりする。
 だからまず目を向けてみてほしいのは、格好として「姿勢」を正すことよりも「本当にそんなに力を入れないと“真剣”にはなれないのか」であったりする。「真剣であることと、こんなところに力を入れることは本来別のことですよね」と気がついちゃったなら、行為としての「姿勢」をリアルにするための第一関門はクリアだ。

「姿勢が悪い」ときには何が悪化しているのか

 外見以外のところから自分の「姿勢」を考えてみて、「それは自分が××のつもりで○○をしているところでした」という、より主体的な立場からの回答を引き出せたならば、「姿勢をよくする」ためのアプローチが少し見えてくる。では「姿勢が悪い」ときに見かけ以外のことで悪くなっているものは何かないか、考えてみよう。
 例えば「姿勢が悪い」と「こんなことが起こる」といわれる(脅される?)ことの一部に「肩こり」や「腰痛」がある。普通に聞いていると聞き流せてしまうくらい「姿勢が悪い」ことと「肩こり」などの関係性はイメージしやすいが、改めて考えてみよう。なぜ「姿勢が悪い」と「肩こり」になりえるのだろうか。
 端的に表現すると、適切な関節や筋肉の連動が絶たれた状態が生じるから、といえる。それによって結果的に血行が阻害されたり、筋肉に必要以上の緊張が生じる。どのようにすると絶たれる結果になるかはまた別の回に詳しく書くが、この「連動が阻害された状態」こそが主体的な意味合いで「姿勢が悪い」ことの「悪さ」の正体といっても過言ではない。
 「姿勢」と「連動」とは言葉のイメージからはにわかには結びつき難いかもしれないが、考えてみれば、パソコンなどのデスクワークの際にあなたは座り続けられるだけの安定性を維持しながら肩や指や首を少しだけ動かし続けることをしている。つまりデスクワークとは「じっとしている」ことと「動き続ける」ことのどちらかだけではなく、ブレンドして同時に行う作業なのだ。舞踊や武術の世界ではよく言われることだが、このような小さな動きは平易なようでいて、実はパーフェクトな連動を継続するのは難しい。もちろん力んでいても動作が全く出来なくなるわけではない。でも、だからこそ、デスクワークのような激しくない行為でどうして疲れてしまうのかをつい見過ごしてしまえて、不都合な結果を自分のあずかり知らぬ「からだ」のせいにしてしまいがちになってしまう。
 継続が「できる」状況を身体的に作ってあげるには、まず自分があたりまえに身につけてしまっている「真剣さ」と癒着した「りきみ」「やりすぎ」に気づき、解消してあげることが大切である。解消してみたときに自分がどんな外見になっているかをチェックしてみることも大切。余計なことをしていないときの姿勢は心配しなくても意外と美しかったりする。そうしたことを確認しながらカラダに対する信頼を回復していくことも大事なのである。
 人間の集中力というものは時に厄介で、集中しているがゆえに、本当に今の行動がその行為を全うするのにふさわしいやり方なのかに気がつかずにいたりする。気がついてしまえば笑い話のように思えるやり方でも、疑問を持たないうちは続ける気もないのにやめられない。それどころか、辛い状況が長引けば長引くほど逆に既成事実となったその辛いやり方に固執し「これまでもこのやり方でやってきたのだから、このやり方でないとできない」と思い込んでいったりする。さらには「こんなに辛いことやっている自分は努力家だ。えらいんだ」などと勘違いし、知らないうちに「悪い姿勢」に加担していたりさえする。
 自分の身体が陥っている状況に気がつくのはなぜかいつも事後になりがちだ。夢中で何かをしているときに「我を失い」、事が終わってからやっと「我に帰って」くるという言い方が成立することを考えてみるにつけ、自己というやつは身体と離れられないにもかかわらず、カラダとの付き合い方を迷い続けている不器用な存在のようである。
 では自己や自意識というやつは「事」の壁で分断されながら自らの身体の内側で漂流し続けるしかないのだろうか。自分がしていることをしているそのときに感じることは不可能なのだろうか。いや、まだまだ可能性はあるような気がする。……と書きつつ次回に続きます。

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