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ヤミ市の末裔──博多・祇園マーケットの戦後 七尾和晃
最終回 小松政夫少年の風景
 小松政夫さんの持ちネタに、中学生が学生服の詰襟を立てて背広風に装い、ストリップ劇場に潜り込むというものがある。シャッシャッっと、まるで氷板を包丁ででも掻いているような涼しげな手つきで首の後ろから襟を立てる演技は、小松政夫が生来の役者であることを改めて感じさせる。
 『楽屋の王様 ギャグこそマイウェイ』(竹書房)というDVDにも収録されている、この小松さんのコメディが、博多での体験をネタにしたものであることを知ったのは、この夏だった。

祇園マーケット4階の「舞台」

 「クツひもをほどいてね、それを、立てた詰襟のまわりに巻いて。ストリップ劇場の入口に行くと、『あんた、中学生じゃないのか』なんて言われるわけよ。それで『いや、違います』なんて言ってもばれることがあってね。それで、先生にカーン、カーンなんてよく殴られちゃってね」
 そんな小松さんが少年時代を過ごしたのが、祇園マーケットだった。かつて福岡でもっとも栄えたと語り継がれる祇園。終戦から60年の時間を超えていまもまだ建つ祇園マーケットの建物で、終戦直後、9人家族の小松家は暮らしていた。
 自身の自伝的作品である『のぼせもんやけん』(竹書房)のなかで、小松さんはその場所をこう記している。
 「僕の家は、博多駅からほど近い、山笠で名高い櫛田神社の裏門のすぐそばの、瓦町というところにありました。当時では珍しい豪華四階建てのビル!」
 えっ、4階建て?
 小松さんと会う前、これは記憶違いではないのか、と思っていた。国体通りを中洲へと向かう右手に立つ祇園マーケットの建物は、商店の入った1階部分の上は、どう眺めても3階までしか数えられなかった。
 「戦後、なーんにもない焼野原の真ん中に、まさしく白亜の殿堂が建っていたんだから」
 当然のことながら、そんな鮮やかな小松さんの記憶が間違いであろうはずはなかったのだ。
 「あそこに住み始めたのは昭和22年か23年頃だったなあ。かなりモダンな雰囲気だったね。それでほら、屋上のまた上に部屋があったんだ。もうそりゃ、当時としては設備も最新でね。窓も左右に開くのじゃなくて……なんて呼ぶのかな、下から上にあげて開くやつで、外国の窓みたいだった。イタリア風のだって聞いたことがあるよ」
 今でも外壁は乳白色に吹き付けられてはいるが、おそらく完成直後の建物は、終戦直前に大空襲に見舞われ、それこそ焼土と化した博多の土地でひときわ目を引いたに違いなかった。
 1階部分の内部には、魚屋、八百屋に乾物屋と今でいう大手スーパーの食品売り場さながらの「祇園マーケット」が広がり、夕方ともなれば買い物に訪れる客で狭い通路はいっぱいになった。
 「想像を絶する賑やかさでね。夕方になると、客を呼び込む声が響いたんですよ。『シャーシャーシャーシャーイラッシャー』なんて声で、客がビッシリだった。ひとの洪水ですよ」
 その祇園マーケットは、2階と3階部分が賃貸のアパートになっている。そして、国体通り沿いの一角だけが、変則的に4階建てになっているのだった。この通りに面した一角の2階から4階までが小松家だった。その窓の外には――。
 「国体道路は天皇陛下が来るっていうのでつくった、いわゆる50メートル道路だけど、その国体道路を挟んでうちのちょうど正面に、まだその頃は呉服屋があってね。反物を売ってたんだけど、子供心にあるとき、『おじさん、それ一尺より短いよっ』って言ったら、『子供はだまっとけ!』なんて言われたこともあったかな。この50メートル道路のところに、夜は屋台が並んでね、天ぷらから、ラーメン、寿司までね。金魚すくいなんかもあったけど、一杯で60匹も捉まえるのがいてさ」
 毎年夏が近づけば、国体道路を見下ろす小松少年の部屋のほぼ正面に、山笠が立ち、そして、博多どんたくの大きな舞台が組まれると、祇園の町は一気に夏の暑さに突入する。
 「6月の終わり頃になると、舞台を組み始めるでしょ。『もっと右ー、もっと左ー』なんて言って、大人たちがやってるわけ。そんな掛け声を聴くのが楽しみでね。どんたくも、今みたいに企業のスポンサー絡みじゃなかったからね。そこでギターやったり、みんながいろんな芸をするわけ。で、そういう芸が終わると、芸人は飲ませてもらうわけで、そこ以外にもそういうステージがあっちこっちにあったの。博多の人たちは、みんなこういうステージを見て育った。それに、そういうステージもそこだけじゃなくて、あっちこっちにあったからね」
 福岡は全国でも有数の芸能人輩出県として知られるが、その芸達者な風土は博多の町なかだけに留まらない。炭鉱で栄えた九州の旧産炭地域全体では、早くから楽団演奏会や観劇が庶民のかけがえのない娯楽として根付いていた。九州を代表する歓楽街・中洲の「呑む、食う、打つ」の粋な所作のなかには、「観る」ことも溶け込んでいた。
 小松少年が連日、そんな舞台で三々五々繰り広げられる芸を眺めていた時代、「ちょっと贅沢をしようと思って中洲に行くと、キンスズっていう洋食屋があって、そこは50円だった。かろのうろん屋は15円だった。でも、中学生のときに一個5円のコロッケを45日間食べ続けたことがあったかな。うちの姉が、祇園小町なんて言われるほど美人だったこともあって、姉目当てのお兄さんたちが『ねーちゃんによろしく』なんて、くれるんですよ。それを毎日、食べ続けた。あと、クジラの肉のビフテキっていうのがあった」
 博多の町で異彩を放つ「白亜の殿堂」とはいえ、風呂は銭湯だった。
 「だから、カメの湯とかムサシ湯とか、あたりはどこに行っても風呂屋だらけ。冷房なんかはまだなくて、夏は風呂屋に行くと扇風機があるぐらい」
 そんなある日、小松少年は思い立つ。
 「4階に上がってみようと思った。それで、そこを舞台にしてチケットをつくって客を呼んで、みんなに見せようと思った」
 国体道路から眺めるどんたくの舞台と、集まる群衆、それを取り囲むように夜ともなれば屋台が連なる。いつしか、窓外に見下ろすそんな賑やかな祭りの絶え間ない拍動が、小松少年のなかに芽生えた新しい情熱を育んでいったのだろう。今も記憶に残るこの情景を、小松さんは「テキヤの檜舞台」と呼んだ。
 「だから、わたしの笑いは違う。ほとんど人から教わったもんだけでやってきた。観て聴いて、体験したこと。笑いは焼け跡からだね。祇園マーケットの4階での舞台が、演技の開眼だったね」

「白亜の殿堂」の過去・未来

 この祇園マーケットのビルは創業者どころか所有者さえはっきりはしないが、今でも、小松政夫さんの父がオーナーだという説は根強い。
 「親父は博多の紳士録には必ず名前が載るような人でした。服はいつも英国製。靴も必ずオーダーメイド。銀縁眼鏡に口ひげを蓄えた、絵に描いたような明治の紳士でした」(小松政夫著『のぼせもんやけん』竹書房)
 「そんなこともあって、その建物でも一番いい場所を、4階まで全部使うことができたのでしょうね。うちの親父が建てたと俺は理解してた」
 ただ、そこにどのような経緯と資本で「白亜の殿堂」とさえ呼ばれたモダンなビルが建つことになったのかは、もはや小松さんも覚えていない。
 「たしか、引揚者連合会とか厚生会とか、そういうのがあって関係していたような気もするなあ」
 子供の頃の遊びの話は懐かしい。
 「3時45分と5時になると紙芝居屋がきてね。ドラとかキリキリキリなんて音まで立ててね。太鼓を使ったり、ヒューなんて音を出したりもして。そこに、ポンポン菓子とかキビ団子売りとかもありましたね。でも、祇園は博多を知るには一番のところですよ。祭りの多さのなかにどっぷり浸っちゃったりね、人情とかね」
 小松少年はときに、祇園から距離のある大壕公園にまで足を延ばした。
 「月曜日の朝はやくに行くんですよ。すると、まだきれいなタバコの箱なんかが残ってた。タバコではピースの箱が一番きれいなんだけど、その空き箱をポンと捨ててあるやつを拾ってきて、それをきれいに切ってトランプをつくったりね。あとは大根でハートとかダイヤの形のハンコをつくったり。ビールのカンカンを拾ったりして缶蹴りをしたり、紐をつけて缶で竹馬を作ったりして遊びましたね」
 そんな、遊び疲れた小松少年を迎えたのが、祇園に建つ「白亜の殿堂」だった。
blackmarket03a.jpg 「でも、そんなものがなぜ60年間も残ったかということですよね。まわりはなーんもなかったわけだから。いい時もあったけど、今まで残っているのが不思議ですよね」
 小松政夫さんは、今でも仕事で博多へ行くと、祇園マーケットに立ち寄る。
 「こそこそって行ってね。それでもう崩れそうな階段上がってみたりして、いっそいで思い出を掻き込んでね」
 小松政夫さんの優しい目尻は、どこか懐かしい雰囲気を漂わせていた。
 小松の親分っー。思わず、そう言葉に出して呼びかけたくなった。
blackmarket03.jpg 櫛田神社の境内に立っていたとき、観光客らしき女性の声が聞こえた。
 「なにあれー、すっごいいい感じなんだけど。あんなところに住んでみたいー」
 思わずその方向を見上げれば、9月の声とともに一気に猛暑が去り、涼の漂う櫛田神社の境内の向こうに、祇園マーケットが建っていた。
 その若い声は、不意に、6年前に物故した萩原延壽の言葉を呼び起こした。
 「現代日本の革新は、保守と斬り結びながら後ろ向きに、現在までに獲得したすべての価値ある財産を継承しようとするために重い足取りで、未来に向って歩いてゆかなければならないのではないだろうか」(『自由の精神』)
 ヤミ市という終戦直後に芽生えた“革新”が、若人の目に触れ、その感性に届いたとき、祇園マーケットはその止まりかけた足取りを未来に向けて進める、新しいエネルギーを獲得したのかもしれなかった。
(了)

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