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ヤミ市の末裔──博多・祇園マーケットの戦後 七尾和晃
第2回 200歩のなかの小宇宙
blackmarket02a.jpg 博多を訪れる観光客に知られる麺屋「かろのうろん」は、祇園マーケットの三角形の建物が立つ一画にある。この「かろのうろん」の前から建物を一周して戻ってくれば、歩幅50センチ弱の足で196歩を数える。三角形の一階部分は、建物の内部にすっぽりと入る祇園マーケットと、その外側の通りに面した商店とで占められている。その上階はアパートで、現在も入居者が暮らす。
 この200歩に満たない小さな場所で、今となっては「ひと知れず」と言っても過言ではないほどに密やかに、祇園マーケットはその命脈を保っていた。
 マーケットには4つの入口があった。

仄暗いマーケットに根を張る「貸台」

 朝の5時半、この祇園マーケットは仕入れを終えて店に戻ってくる店主たちの出入りでもっとも賑わう。原付のバイクが魚の入った発泡スチロールを載せて戻ってくれば、また別の入口には、仕入れたばかりの野菜が詰まったダンボール箱が山積みされる。
 そこには男の姿だけでなく、女の姿もあった。お世辞にも「若い」と呼べる風貌の者はいない。その建物の周囲をぐるりぐるぐると3周も4周もしながら、そんな暗く小さな穴から出入りする商店主らしき人影の行き来を眺めていたが、店主がなかに入っていった後ろから、意を決して、体を突っ込ませた。
 日差しは、通りを挟んで東に建つ萬行寺の境内高くから容赦なく降り注いでいた。夏の朝に慣れた目が、穴に入った途端に視力を失い、それは一瞬、恐怖を呼んだ。運動靴の先が引っかかる足元の怖さを拭おうと、のめるように突っ切ると、そこには不思議な回廊が延びていた。
 雨漏りでやられたのだろうか。天井の板は歪み、ところどころ破れ、腐り、くすんだ傘の真下に垂れ下がった裸電球が熱を発している。人気は少なく、店とはいえ、そこにはまるで地面の上にそのまま台を敷いて野菜を並べたかのような、青空市場とも屋台ともつかない、広い空間が広がっていたのだった。それは、写真や本でしか知らなかったヤミ市の光景そのものだった。
 周囲わずか200歩に満たない建物のなかは、想像をはるかに超えた空間の拡がりを感じさせた。だからだろうか、キーンという耳鳴りとともに、カランカラン、カラランコロンと、下駄の音が近づいてくるような幻聴さえ覚えた。
 実際にはそれは、国体通りに面した別の入口の脇に店を構える魚屋の主人が乗る、原付バイクのエンジンの音だった。戻ってきた主人は今では探すのも難しいほどの粗末な小型テレビをつけ、店なのか居間なのかわからぬ入口の内側すぐの場所に椅子を置き、ひと仕事が終わったとばかりに寛ぎ始めたのである。
 横を見れば、今は誰も使っていないと思われる生鮮品を並べる銀色の台の脇の真っ暗な場所で、この主人の女房らしき女性が横になっていた。
 この主人の店もいたく不思議なものだった。生鮮台に魚も切り身も並ばず、無数の鯛を泳がせた大きな生簀が、暗がりに置かれただけだった。水槽はだいぶ冷えているのだろう、出入口の脇に置かれているためか、外気に触れて、表面には小さな水滴が密集していた。
blackmarket02b.jpg マーケットのなかは3メートルか4メートルごと、あるいは明らかにそれより短いものもあったが、台は各々きちんと仕切られ、それぞれに店子やオーナーがいるとのことだった。ところどころスッポリと、虫食いのように空いている台の上には、丁寧にも、「貸台」と書かれた告知と、連絡先の電話番号が記されている。
 その「貸台」の正面で八百屋を営む奥さんに頼むと、気さくに仄暗いマーケットのなかを案内してくれた。最初に奥さんが指さして見せたのは、天井だった。
 「これ、見てちょーだい。もう、年々、天井が下がってきて危ないのよ。でも誰が修理をしたらいいのかとか、ぜーんぜん、わからないの。もう危なくって、危なくって。ここはね、建物の権利が複雑すぎて修繕もできないのよ。凄いでしょ、この建物。まあ古いまんま、よくもってるわよね」
 なかば朽ちかけている天板の間から梁がのぞき、その梁のコンクリートさえ、表面が削がれ、なかの鉄筋がむき出しになっていた。
 「いやーこれは凄い。しかし、よくこれだけのものが終戦直後から今まで残っていますね」
 私の言葉に、奥さんはくったくなく、むしろ胸を張って応えた。「そうでしょ。まあ、なかは凄いけど、建物は丈夫なのよ。この間の地震でもなんともなかったんだから」
 地震とは、2005年3月20日に福岡県地方を襲った、震度6弱の地震のことだった。この地震で福岡市内の高級マンションでさえ壁や内壁にヒビが入るなどの被害があったと、伝えられていた。
 だが、「地震でもなんともなかった」という建物の住居部分に、現在どんな人物がどのような縁で住み着いているのかは、もはや祇園マーケットの店子でさえ容易には知ることができないようだった。
 ある日の朝、このアパートの住人らしき年配の女性がなにやら水仕事をしているのに出くわしたことがあったが、こちらの姿を認めると、話しかける隙もなく、すぐに部屋のなかへ引っ込んでしまった。すべてが住居かと思えば、たまたま立っていたその場所のすぐ脇には「上海エステ」なるマッサージ屋が店を構えてもいた。
 祇園マーケットの一階に入る八百屋の奥さんが、野菜を置いている台をめくって、ふと、こんなことを話してくれた。
 「ほら見て。これね、この板の下にコンクリートがあるでしょ」
 奥さんの膝の上、こちらの膝のすぐ下のあたりまでの高さに、見れば巨大なまな板を横に立てたようなコンクリートの板が、通路と直角に交わるかたちで固められている。さらにその上に、横長の、まるで壁を仕切る大きな建材パネルのような、これもまたコンクリートの板が乗っている。そのまた上に、材質さえわからぬ、白塗りのベニヤ板のようなものを敷き、そこに野菜などを並べているのである。
 奥さんは、その台を指さした。
 「この台はね、終戦直後の、それこそヤミ市のときからあるんですって。もともとここにヤミ市があって、そのうえに建物を建てたんですってよ。だから、これがヤミ市のときからの唯一の名残りね。もともとはこんなものの上にそのまま物を置いて売ってて、それでその場所にこういう建物をつくったわけよ」
 足元に目を向ければ、床とは名ばかりで、土の上に直にコンクリートを流したようにも見える。そのためか、路上の凹凸を均さずに、そのまま固まったようでもあった。

「路上ヤミ市起源説」を裏付ける構造

 それにしても謎なのは、この祇園マーケットの構造だった。仮に、上空からコンピューターグラフィクスで骨格だけを透かしてみれば、2つのV字を交差させるようなかたちで展開しているようにも見えるだろう。あるいは、大きな三角形のなかに、その一辺を利用したもう一回り小さい三角形を作ったような按配にも。とにかく、三角のビルの一階部分、祇園マーケットだけは、また別のV字、あるいは三角構造になっていた。
 奇妙にも思えるこの造りこそは、この屋内型マーケットの「路上ヤミ市起源説」を裏付けているようでもある。祇園マーケットの敷地のほうが当初の姿で、その動かしがたい場所を取り込み、可能な限り敷地を延長して確保した末の「三角地」であったのか。三方に鋭く延びる三角形の建物は、ビルを建てた者々が抱えていたであろう飽くなき土地への執着を今に伝えていた。
 ところで、いびつな三角構造を重ねているからだろう、この建物には空に吹き抜けた中庭が2つできた。V字を交差させたこの建物は、外見の単純さからは想像できないほどの複雑さを同居させていた。同時にそれは、三角という形状がもたらす絶対的な安定感と無縁ではなかった。この建物の設計者があえてこの構造を採用したのであれば、それは恐ろしいまでの卓見だといえた。奇数の支点が育む安定性は、数理学上の基礎概念としても知られている。
 たとえば、カメラの三脚などはこの概念を利用したものである。四脚ある椅子はがたつくことがあるが、三脚では絶対に脚が浮くことはない。V字構造を重ねたかたちの祇園マーケットの建物は、いわばこの安定性を二重にまとっている構造になる。戦後60年もの時間を凌いだ後になお、震度6弱の激しい揺れに耐える剛さは、建物の内部構造を眺めて、初めて納得できた。
 1945年の終戦の日からほど遠くない博多で、この建物は、まさにどっしりと焼け跡に腰を据えた??。

「小松政夫さんなら知ってるんじゃない」

 「ついこの間まで、そこの乾物屋のおばあちゃんが生きてたんだけど、つい2、3ヵ月前だったかしら、亡くなっちゃったの。あのおばあちゃんが終戦直後からずっといて、なんでも知ってたのにね」
 奥さんにとっても、この建物の素性とかつての全貌を知る古老の死は、至極無念といった様子だった。その奥さんが続けた。
 「でも、ここね、終戦直後に、あの小松政夫さんが住んでたんですってよ。上にね。上にいたんですって。それで、博多に来るたびに、そっちの『かろのうろん』に来て食べていくらしいのよ」
 笑いにドラマにと、今も多くの人びとに愛される俳優の小松政夫さんが、かつて祇園マーケットに住んでいたのだと、奥さんが、まるで自分だけのアイドルとの思わぬ縁を無邪気に、自慢するように繰り返した。奥さんは、中庭を隔てた隣りの通路から、また別の魚屋を呼び寄せて、念を押すように言った。「ねっ、小松政夫さんもいたのよねっ」
 魚屋も迷いなく相槌をうち、ちょうどこの上じゃないかな、と住居部分の上階へ指を上げてみせた。俳優「小松政夫」は、祇園マーケットの希望でもあるようだった。
 「今はみんなそれぞれ、中州とかお客さんを持ってるから、そっちに卸したりして商売をしてるけど、そりゃ終戦直後は買い物に来る人で、このなかはもうびっしり人が埋まってたんですってよ。小松政夫さんなら、きっと知ってるんじゃない」
 祇園マーケットのなかには、魚屋や八百屋などもっぱら同業種の店が集まっていた。それは現在の店舗の立地戦略からは考えられないことだった。競合店が同じ場所に店を構え、ひしめきあうなど、商売のイロハに反しているようにさえ思える。
 しかし、東京・上野のアメ横もそうであるように、ヤミ市の跡地だったといわれる場所では、こうした同業種が軒を連ねる場所が多いのも事実だった。それは権利や権益を確保するにあたっては有益な形態だったのだろう。数こそ力、なのである。アメ横も祇園マーケットも、商業空間としては時代遅れにさえ見えながら今日まで生き延びてこられた理由は案外、そんな単純なところにあるのかもしれない。

 小松政夫さんは終戦直後の祇園マーケットで何を見たのだろうか??。
 八百屋の奥さんの無邪気な喜びに、いつしか、ブラウン管の上で覚えた小松さんの顔が笑いかけ、胸が高鳴ってくるのだった。

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