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ヤミ市の末裔──博多・祇園マーケットの戦後 七尾和晃
第1回 幻のマーケット
 ヤミ市??。かつて戦後の一時期、その場所は強い魅力を放ち、衣食を求める、擦れたゲートルを履いた復員者や、着のみ着のままの引揚者を惹きつけた。そこは、どこまでが住居で、どこからが廃墟かさえ分からぬ、境区を不敵に融合させた異界ともいえた。
 2007年夏、博多の街で、そんな誇らしくも懐かしいヤミ市の「末裔」に遭遇した。それは、私が捜し求めていたヤミ市マーケットの原風景だった。

引揚者の戦後が始まった場所

 1945年8月15日の終戦直後から、博多は大きな賑わいを見せた。中国方面からの引揚者は博多に、ロシア方面からは舞鶴へと続々と到着する。そして、旧日本軍の復員船ももちろん、博多の港へと到着した。
 博多の街は、復員し故郷へと向かう者たちが、列車に乗り込む直前、まずは腹を満たすために最初に訪れる“補給基地”となったのである。博多は「戦後」という新たな時代の礎の地ともいえた。
 博多は終戦直前、B?29による大規模な空爆を受けて、市街地は壊滅的な打撃を受けている。その日、筑豊のある町にいた永井龍雄は、上空高くを、キラキラと太陽の光を反射して銀色にきらめく無数の機体が横切っていくのを見たという。
 上空高く、その銀色に輝く大型の魚群の周囲では、銀紙が舞うように、小さな光がさんざめいていた。B?29を追撃に向かったのか、小型の戦闘機が空中戦を演じているようだった。
 「しかし、ありゃいかん。かなわん。ぜんぜん数が違った」という永井の言葉を裏付けるように、福岡には焼夷弾の雨が降った。そして福岡は焼け、終戦を迎えたのだ。
 その直後から、福岡の街角、至るところにヤミ市が立った。そのなかでももっとも栄えたもののひとつが祇園のヤミ市だったのである。そこには、日本でも有数のヤミ市が広がっていた。

 上海で終戦を迎え、帰国後は焼け跡の渋谷駅前で屋台を出していた星野林吉が、最初にたどり着いたのも博多だった。林吉はかつてこんなことを言っていた。
 「博多では、軍を免除されるときに五百円をもらいました。それとどこまでも乗り降り自由の切符を一枚渡されました。東京に帰るにしても、お腹が空いて仕方ないから、まずはなんか食べないといけないと、それで博多駅のそばのヤミ市で食べ物を探したんです。それで、イカのスルメかなんかを買ったでしょうか。ほかにもついつい買ってしまって。でも、物がないときだったから、ヤミ市で売っているものも高くて高くて……。渋谷についたときには百円を切ってしまっていました」
 終戦当時、博多駅は現在の場所より、かなり西寄りにあった。現在のJR博多駅博多口を出ると、目の前を大博通りが走る。その通りに沿って西へとくだり、国体通りとぶつかる周辺、現在、大型のパチンコ店がある付近が博多駅だった。つまり祇園はかつての博多駅前に栄えたヤミ市だったのである。

洋品店リラと上海帰りのリル

 博多山笠で有名な櫛田神社にほど近い場所に、気になる小路があった。初夏の熱気も、その小路に入れば、穏やかに冷まされてしまうようだった。そこは不思議な冷気を孕む場所だった。はじめそれは、モザイク模様に組まれた路上のタイル地が見せる錯覚のせいかと思ったが、違った。
 その小路に「リラ」というとても小さな洋裁店が、ひっそりとある。その店の、シャッターの収納を兼ねた看板の文字が、知らず、意識を惹きつけていたのだと、ある日、気づいた。
 店といっても、奥行きは2メートルもないだろう。外からでも、店のなかは一目ですべてがうかがえてしまう。
 店の脇やまわりを、居酒屋や小さなスナックに囲まれたリラには、今はもう、骨董屋か博物館でしか見ることのできなくなった、黒い光沢を放つ、シンガー社製の足踏みミシンが置いてある。奥の壁際だった。
 はじめてリラの前を通ったとき、たしか、こんなことを思った。〈リラって変わった名前だな。まるで……〉
 その小さな洋裁店の名前は、戦後の一時期、大流行した歌謡曲「上海帰りのリル」を思い出させた。「上海帰りのリル」は、かつて第二次世界大戦中に上海の日本人街で見かけた女性が日本のどこかに戻ってはいまいかと、戦間期の大陸を懐かしんだ歌だった。リルとリラ……。

 博多には復員者や引揚者の日本人に交じって、中国の軍人もまた、占領軍として上陸してきた。
 少し前に取材したことのある、東京の新橋や銀座のヤミ市で商売を成功させた王長徳という元中国軍人の話をすると、それまで穏やかだったリラの女主人の表情が一瞬、曇った。
 「儲かった人の話? それはいいの……。いい思いをした人の話は、いいの……」
 その中国人を知っているわけではなさそうだったが、目には明らかに嫌悪感を漂わせた。

博多でいちばん古い建物

 しかし女主人が、その場所にリラを構えたのは終戦直後のことではなかった。昭和30年代の後半に来たという。
 「その頃はね、まだ中州がとってもよかったの。今とはぜんぜん違ったわよ。今は洋服がサイズが合わなくなっても直そうとすることもないでしょ。今も中州には少しだけそういう人が残ってるけど、昔は今とはぜんぜん比べものにもならないくらいに中州の景気がよかったから」
 それは、石炭がまだあった頃ですかね、と私は訊いた。
 昭和30年代後半といえば、それは九州の炭鉱が相次いで閉山を迎える「最期の瞬間」ともいえた。「宵越しの金を持たない」炭鉱マンたちが落とす派手な銭とともに中州の勃興はあったことを、女主人の話は匂わせていた。
 「うーん、どうかしらね。でも、とにかく中州の栄えかたはぜんぜん違ったわね」
 リラから中州までは、それこそ、橋ひとつ隔てたわずかな距離にあるといっていい。そんなことを話している際で、話し込んでいる私の姿に遠慮したのか、店の外に、クラブのママらしき気品と貫禄の漂う中年の女性が立っていた。リラに直しに出した服かドレスを受けとりに来たのだろう。
 商売の邪魔をするわけにもいかず、辞去しようとする間際、女主人はこんなことを付け加えた。「中もね、もうすごい賑わってたんですってよ。この建物は終戦直後からあったって聞いてるわよ。権利関係が複雑すぎて、取り壊すに壊せなくて、戦後から今までずーっと残ってるのよ。博多じゃいちばん古い建物だって聞いてるわよ」
 なか……?
 店を出た私は、数メートル離れた場所に、まるで防空壕へのトンネルのような、人ひとり入るのがやっとの暗く小さな入口をみつけた。その“穴”は奥へと伸びていた。人の出入りはなかったが、そこが中への入口だとは、言われるまでまったく気がつかなかった。
 その建物こそは、終戦直後から今なお残る、「祇園マーケット」だった。リラは、そのマーケットへの扉を開いたのだった。幾度となく通り過ぎていて、その暗い穴の向こう、その中に、終戦直後にもっとも賑わったマーケットが広がっているなど、一度として想像したことがなかった。
 穴の前に立ち、上を見上げて、息を呑んだ。三角地に立つ、リラの入るその三階建ての建物の形状は、かつて王長徳が日本にマーケットをつくるときにモデルにした上海の三角地菜場のそれだったのだ。
 戦後、新橋、自由が丘、学芸大学前とヤミ市のただなかで近代的なマーケットを建てた王長徳の放った言葉が甦った。
 「三角の場所は道路が交わって、人が集まるから。そういう場所は栄えるんですよ」
blackmarket01.jpg 王がマーケットを建てた場所も、多くが三角地だった。博多・祇園の小路脇にぼっこりと開いた縦穴には、微かだが風が流れ込んでいくようだった。

 午後4時をまわり、追い山慣らしの始まった櫛田神社の境内には、山笠の「櫛田入りタイム」を告げるアナウンスと、それに続けて沸く男衆や観客の歓声が響いていた。
 そんな頂点に達した喧騒と熱気を、その穴は静かに、小さく吸い込んでいるようだった。祇園の三角地にある祇園マーケットは間違いなく、終戦から62年の時間を経て、今もひそかに呼吸していたのだ。

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